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さようなら。悪いのは浮気をしたあなたですから

作者: 亜綺羅もも

 私、アリエス・エヴェグリーンは不幸だ。

 不幸だけど……でも幸福。

 

 家は裕福ではないが、一応貴族としての地位を持つ。

 他の貴族と比べれば不幸かもしれないが、庶民の方々と比べれば幸福だと思う。


 親はいつも私に暴力を振るう。

 不幸だ。

 不幸だけど……




「す、すみません、お父様」

「お前が男として生まれていれば、エヴェグリーン家は安泰だったはずなのに! なんで女として生まれてきたのだ! この親不孝者が!」


 子供の頃から、躾だと言われ、両親から毎日のように殴られ続けてきた。

 大人となった今でも、私はこうして暴力を振るわれている。

 これが私の日常なのだ。

 耐えるしかない。

 この家で私を助けてくれる人は誰もいない。


 母親は食事をしながら片頬を吊り上げ、倒れている私を見下ろしている。

 二人に逆らうと酷い目に遭うのは子供の頃からの経験でよく知っていた。

 だから私は笑みを向けるのだ。

 暴力を振るわれるのなら、せめてできるだけ被害が少ないように。

 できるだけ痛みが少ないように。


 それでも父親は暴力の手を緩めるようなことはしなかった。

 私の頭を力一杯踏みつける。


「も、申し訳ございません……お父様」

「お前が全部悪いのだ、アリエス!」


 理由などなんでもいいのだ。

 結局のところ、暴力を振るって鬱憤を晴らしたいだけ。

 他の貴族から下に見られることが、どうしても許せない両親。

 その怒りの矛先を私に向けているというわけだ。


 もちろん、暴力は痛いし悲しいし、怒りだって覚える。

 だが今はどうしようもない。

 私自身にできることなど何もないのだから。


 ただ二人の暴力を耐え忍び、不幸の中から飛び出せる日を待ち続けるだけ。

 私は不幸で幸福なのだから。


「…………」


 そう信じてはいるが、どうしても感情のコントロールが利かない時もある。

 父親に踏み付けれている時、涙がボロボロとこぼれ落ちてきた。


「貴様……何を泣いている!」

「申し訳ありません……申し訳ありません……」


 父親は私の涙に激怒した。

 これではまるで、自分が悪いみたいではないか。

 そう考えているのだと思う。

 父親は足を振り上げ、私の腹部に容赦ない一撃を入れる。


 あまりの痛みに、私はお腹を押さえ、父親の足にすがりつく。


「お父様、私が悪かったです。泣いてしまって申し訳ございません。どうか愚かな娘をお許しください」

「愚かな娘よ、やはりまだまだ躾が必要のようだ! ちゃんと理解するまで、その身体に教え込んでやる!」


 母親は依然として笑みを浮かべたまま。

 そして父親の暴力は続く。


 ああ。私はやはり不幸なのだ。

 不幸でありながら、幸福なのである。

 そう信じて、暴力を受け続けていた。


「アリエス~。ちゃんと綺麗な恰好をするんだよ。あなたは綺麗なのだから」


 それは突然のことであった。

 ある日を境に、両親が優しくなったのだ。

 私は両親の変化に唖然とする。

 悪魔が天使に変わったような変化。

 

 二人はニコニコ笑顔を浮かべながら食堂で私を見つめている。


「ほら。椅子にお座り。お前の好きなものを用意しよう」

「あなた、何が好きだったかしら?」


 二人は私の好みなど知らない。

 だってこれまでは私は憂さ晴らしの道具ぐらいにしか思っていなかったのだから。

 私は戸惑いながら、自分の好みを口に出そうとする。

 が、自分でも分からない。

 これまでの辛い人生の中で、自分の好みなど考えたこともなかったからだ。


「あ、温かいスープをいただければ……」

「おお、そうだったな! アリエスはスープが好きだった。おい、いますぐスープを用意せよ!」


 父親はこれまで見せたことないような笑顔を私に向けている。

 母親は私の肩に手を置く。

 私はこれまでの彼女の行為に、ビクッと身体を震わせた。


「私たちの躾のおかげでこんな立派なレディになって……今までのことはごめんなさいね。あなたのことを思ってのことだったのよ。分かるわね、アリエス」

「は、はい」


 気持ちが悪くなるほどの笑み。

 何か打算しているとしか思えないほどの創られた笑顔。

 私は吐き気を催すも、母親ににこりと笑いかける。


 スープを出され、私は二人の視線を気にしながらそれを口に運ぶ。

 二人のことが気になり過ぎて、味が分からない。

 すると父親は、嬉しそうな表情のまま口を開く。


「お前に婚約の話が舞い込んだのだ」

「こ、婚約ですか……」

「ああ。相手はユージン・エミュロット。悪くない相手だろう? いや、悪くないどころか、好条件もいいところではないか!」

「ええ。あなたならよい婚約の話がくるとは思っていたけれど、まさか侯爵家から縁談が舞い込むなんて」


 ああ。なるほど。

 侯爵家の婚約話がきたから、私に優しくしだしたのか。

 きっとエヴェグリーン家に援助させようという考えなのだろう。

 今のうちに媚を売っておこうと……そんなところだと思う。

 つくづく反吐が出そうな両親だ。


 これまで虐げられてきたことを、忘れられるはずもないのに。

 

「…………」


 私は喜ぶ両親の前で作った笑みを浮かべながら思案する。

 ユージン・エミュロット……どんなお方だろうか。

 自分の未来の旦那様の姿を思い浮かべ、私は胸の内を温かくしていた。

 

 どんなお方か分からない。

 だけど、私は幸福になれると思う。

 不幸だけど幸福な私。

 ようやく幸福が舞い込んだのだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「君がアリエスか?」

「はい。ユージン様」


 初めてユージン・エミュロット様とお会いした。

 彼は輝くような金色の髪に、海のように深い碧眼の持ち主。

 お顔は誰もが振り向くような美形で、私には勿体ないぐらい。

 背も高く、欠点らしい欠点が見当たらい男性。


 彼はエヴェグリーン家へと足を運び、こうして私に会いに来てくれていたのだ。

 両親は感慨深そうに私たちに視線を向けている。


 ユージン様はそんな二人の視線が気になるのか、外へ出るように私を促す。


「二人っきりで話をしないか?」

「ええ。喜んで」


 私は笑みを向け、彼の隣を歩いて庭へと出る。

 エヴェグリーン家の庭はそこそこ手入れはされてはいるが、侯爵家の物と比べれば見るに堪えないものではないのだろうか?

 だがユージン様は、そんな庭を見渡しながら笑顔を浮かべていた。


「うん。悪くない。少し小さいけれどその分隅々まで手入れが届いているように思う。いい環境で育ったんだな、君は」


 あの地獄の毎日がいい環境だとでも?

 私は口から不満が噴き出そうになるが、寸前のところで思いとどまる。


「え、ええ……両親のおかげでこの世に生まれることができました。二人には感謝しています」


 感謝しているのはその部分だけだけど。

 ユージン様は笑みを崩さず、ずっと私を見つめている。

 私は頬を染め、ユージン様と会話を続けた。


 少し緊張はするものの、ずっと私に話をしてくれている。

 気まずさを感じさせないためか、優しい口調でお話を続けるユージン様。

 私は彼の話をうんうん頷きながら聞いていた。


「……君は今まで会った中のどの女性よりも美しい」

「あら。口がお上手ですのね」

「いや、俺は本気だ。君の美しさに驚いているよ。父上が綺麗だとは言っていたが……まさかここまでとは」


 そういえば、ユージン様のお父様とは一度だけお会いしたことがある。

 あれは昨年のパーティーだったはず。

 優しそうな方で、私に色々話しかけてくれたのを覚えている。


 そうか、あの時、私の値踏みをしていたのか。

 自分の息子の妻として相応しいかどうか……

 それであんなに話をしてくれていたんだ。


 私は目の前にいる美しいユージン様を見上げ、天に感謝する。

 こんな素敵な方を婚約者としてめぐり合わせてくれたことを感謝します。

 これまで不幸な毎日だったけど、これからは幸福に生きていきます。

 

 不幸で幸福な私。

 願わくば、ずっと幸福が続きますように……

 

 もう一度ユージン様の綺麗な顔を見上げた。

 大丈夫だ。きっとこの方となら幸福になれる。

 この時の私は、そう信じてやまなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ユージン様と出逢ってからはいいことばかりだ。

 両親は優しくなり、暴力を振るわれない毎日。


「…………」


 普通に考えたら普通になっただけのことなのだろうが、私から見ればまさに天国にでもいるような気分。

 両親も笑顔を崩すことなく、私に接してくる。

 少し吐き気がするが、別に構わない。

 私が家を出るまでの我慢だ。

 いやでも、これからもこんな風に二人は私に接してくるのだろうか?

 これからもこんな二人と会い続けなければいけないのだろうか?

 これからもずっと……?


「アリエス」

「え?」

「どうしたんだ? ボーっとして。ユージンのことを考えていたのか?」


 お父様が私に笑いかけながらそう訊ねてくる。

 目の奥は笑っていない。

 これからもずっとこんな風に笑うのだろうか?

 内に見える企みを隠すことなく、気持ちの悪い笑みを浮かべ続けるの?

 なんだか嫌だな……

 暴力を振るっていた頃の両親はもちろん嫌いだったが、今の両親はもっと嫌いだ。

 普通の親として私と触れ合うことはできないのだろうか。

 いや、それができたのなら、あんな扱いはされていない。

 結局のところ、この二人は自分たちのプライドが大事で、後は損得勘定しかできないのだ。


 私は諦めのため息をつき、お父様に笑みを向ける。


「ええ。またお会いしたいと考えておりました」

「そうか。なら、会いに行けばいいではないか!」

「そうよ。あなたのやりたいようにすればいいわ。会いたいと思えば会いに行きなさい」


 そんな台詞、もっと早く聞きたかった。

 子供の頃から二人の顔色ばかりを窺ってきたから、何かするのにも二人の許可が必要で……

 一人で出かけることさえもできない。

 ずっとそうやって育ってきたから、今でもビクビクしながら本当にいいのか尋ねてみる。


「ほ、本当に会いに行っていいの……?」

「もちろんだとも! お前もいい年頃の娘だ。自分の思った通りにやりなさい」


 それももっと早く聞きたかった言葉だ。

 本心ではないにしろ、これで二人の許可は得たわけだ。

 一秒だってこの家にはいたくない。

 

 ユージン様に会いたいというのもまるっきりの嘘というわけでもないし、うん、会いに行こう。


「では、行ってまいります」

「ええ。気をつけて行くのよ」


 屋敷を自分の意志で出る……

 こんなこと初めてだ。


 時間はまだ午前中。

 青い空を見上げ、私は肺一杯に空気を吸い込む。


 初めて感じる自由。

 私は解放感と共にワクワクした気分で、用意されていた馬車に乗り込む。

 馬車はユージン様の下に向かって、ゆっくりと動き出した。


 待っていて下さいませ、ユージン様。

 今あなたに会いに参ります。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 馬車に揺られている間、私は眠りについていた。

 家にいる時は、ぐっすり眠ることができない。

 いつでも両親に怯えていたから。

 初めて何も気にせず眠った私は、とても幸せな気分だった。

 こんな普通のことが幸せだなんて、やはり私は不幸なのだろう。

 不幸で幸福。

 これからも一生こんな人生なのかもしれない。

 

 でもきっと、これからは幸福度の方が増していくに違いないと踏んでいる。

 だってこんなにも自由なのだから。

 まさか一人でユージン様に会いに行けるだなんて、とても素敵。

 

 目を覚ますと、もうすでにユージン様のお住まいである、エミュロット邸へ到着していた。

 頭がボーッとする。

 深い眠りについていたからだ。

 私はだらしのない顔がシャンとするまで馬車の中で時間を過ごした。

 と言っても数分程度ではあるが。


「よし。行こう」


 私は扉を開き、馬車を出る。

 綺麗に補装された道に足を下ろし、緊張しながらも堂々とエミュロット邸へと進んで行く。


 そこで私はふと妙案を思いついた。

 玄関からお邪魔するのではなく、いきなり現れたらユージン様は驚いてくれるのではないだろうか?

 まるで悪戯を思いついた小さな子供のような気分だ。

 門番の方がいらっしゃったので、私は笑顔で彼に説明する。

 すると彼は私のことを存じてくれていたようで、快く扉を開けてくれた。


 我が家とは大違いの庭。

 何倍もある面積に、完璧に手入れがなされた綺麗な花壇。

 迷子になりそうなほどに広いが、門番の方にユージン様のお部屋は伺ったので問題はない。


 彼の驚く顔、そして喜ぶ顔を想像しながら私は庭を歩く。

 もうすぐだ。もうすぐ彼と会える。


 そわそわした気分で手櫛で髪を整える。

 顔、おかしくないかしら。

 さっきまで寝ていたからヨダレついていないかな。

 

 でも、逆に変に思われないだろうか。 

 突然裏から現れるだなんて……おかしな女と思われたらどうしよう。


 少しばかり不安な気持ちを抱きながらも、ユージン様なら笑って受け入れてくれる。

 妙な自信がいずれ勝り、私は上機嫌で彼の部屋へと向かっていた。


 とうとう彼の部屋が見える。

 一階の一番奥にある部屋……

 中には人影が見える。


 ユージン様だ。

 私は笑みを浮かべてドキドキする。

 

 ああ、喜んでくれるといいな……

 一歩一歩部屋に近づいていき、彼の姿をしっかりとこの目で捉える。


「ユージン様……っ!」


 彼に話しかけようとした瞬間であった。

 それに気づいたのは。


 なんとユージン様は、見知らぬ女性と抱き合っているではないか。

 私は震える手で自分の胸辺りを押さえ、愕然としていた。


「…………」


 私は言葉を失い、フラフラと後ずさる。

 お腹の中に大きな石を落とされた気分。

 身体全体が重くなり、血の気が失せる。


 何故あのようなことを……何故女性と抱き合っているの?


 私は混乱したまま、ユージン様の背中を見つめ続ける。

 こちらに気づいてほしいとも思うし、気づいてほしくないとも思う。


 ユージン様のお部屋の窓から向こう側が、違う世界のように感じられる。

 こんな近くにいるのに、こんなに遠い。


 愛おしそうに女性を抱くユージン様の顔。

 ユージン様を見ながら、私の中で彼への感情が崩れ落ちていく。


 別に周囲が見えなくなるほど恋しかったわけでもない。

 これからそういう想いを一緒に育てていくはずだった。

 だけどその一番土台となる『信頼』を今この瞬間に失った。


 彼と結婚することはない。

 彼を想うことはもうない。

 彼との未来はもうない。


 私は踵を返し、大きな庭を引き返していく。

 少しだけ涙が浮かぶ。 

 だって裏切られたのだから。

 まだ本物の想いはなかったけれど、真剣だったのだもの。

 悲しくて当然。

 私は涙が収まるまでその場で蹲った。


 悲しい。

 悲しいけど、怒りも込み上げてくる。

 何故私という婚約者がいながら、別の女性と。

 怒りが腹の中で暴れ出すと、今度は絶望感が私に迫る。


 あの家を出ることはできない……?

 あの方と結婚しなければ、私はまた両親から虐げられる?


「…………」


 突然の不安に、息が詰まる。

 呼吸が浅くなり、苦しくなってきた。

 涙が止まらなくなり、私はその場から動けなくなる。


 何故……何故……。

 何故彼は私を裏切ったのか。

 そればかりが頭の中をグルグル駆けまわる。


 悲しくて悔しくて不安で……

 もう動きたくない。

 もう生きていたくない。

 でもここを離れなければいけない。

 

 こんなことになるなら、今日ここに来なければよかった。

 私は涙を拭き、おぼつかない足取りで歩き出す。


 帰ろう。

 そして家で泣こう。

 どれだけ泣いたとしても現実は変わらないけれど。

 だけどきっとそうすれば少しぐらいはスッキリするはずだから。

 色んな感情が渦を巻き、グチャグチャになっていた。

 だけどそれでもこの場を離れることを理解している体が勝手に歩いてくれている。

 そんな感じであった。


 頭はボーッとしている。

 屋敷を出る時、門番の方と挨拶をしたと思う。

 でも何を言ったのか覚えていない。


 屋敷を離れ、また涙が溢れ、私はその場で膝を突く。


 私は不幸で……不幸者だ。

 不幸で幸福なんてそんなことなかったのだ。

 私はただただ不幸なだけなのだ。


「どうしたんだい?」

「…………」


 地面に座り込んでいる私に、男性の方が声をかけてくれた。

 優しく、そして本当に心配しているような声。

 私は呆けたまま声の方に顔を上げる。


 その男性はサラサラした青色の髪に、ラピスラズリのような濃い青い瞳。

 その美しさには周囲を歩く女性は振り向き、顔を赤くしている。

 背も高く、高級なお召し物を着飾っており、誰がどうみても貴族のお方。


 悲しみに沈む私であったが、彼の綺麗な瞳に現実へと引き戻される。

 ユージン様も端正な顔立ちをしているけれど……この方はそれ以上だと思う。

 だけどそれ以上に、何故か目が離せない。

 私の胸が大きく跳ねていた。


「大丈夫かい? どこか怪我でもしたのか?」

「怪我……心に怪我を負ったかもしれません」


 彼は私の顔を見て、ハッとする。

 どこかで会ったことがあるのだろうか。


「……もしかして、ユージンが浮気をしていた……とか?」

「……何故それを?」


 私は先程のことを思い出し、またズーンと沈む。

 けれどまた、彼が私を救い出すかのように手を引っ張られ立ち上がらされる。

 しかし私が軽かったのか、はたまた彼の力が強かったのか、私は彼の胸に飛び込む形になってしまった。


「す、すまない……勢いが余ってしまった」

「い、いえ……」

 

 私はパッと離れ、彼と向き合う。

 顔は赤くなっているだろうと思うけど……彼の顔も赤くなっていた。


「ユージンは女癖の悪い奴だと聞いている。色んな女性が彼に泣かされてきたようだ」

「そ、そうだったのですね……」

「……可哀想に、彼が浮気をしている現場を目撃してしまったんだね」

「……何故ユージン様を……私を彼の関係者だと分かったのですか?」


 彼はニッコリと笑い、ハンカチを取り出し、私のドレスについた土を払い出す。


「理由は二つある。一つはここがエミュロット邸の目の前だということ」


 私は振り返り、エミュロット邸から百メートルほどしか離れていないことに気が付く。

 もっと離れたつもりだったけど、まさかこれだけしか離れていなかったなんて。


 私がエミュロット邸から視線を逸らすと、彼は私を促し歩き出す。

 

「もう一つは、俺が君と会ったことがあるからだ」

「私と……ですか?」

「ああ。以前、パーティーでね。君はユージンのお父上から声をかけられていたよ」

「……あの時のパーティーにいらっしゃったのですね」

「うん。君と話をしたかったのだけれど、彼に独占されていたから声をかけることができなかった」


 苦笑いする彼の表情に私はドキッとする。


「あの……お名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?」

「俺はグレイ。以後お見知りおきを」

「グレイ……様」

「ああ。君はアリエス嬢で間違いないね?」

「はい」

 

 グレイ様は目を細め、私の顔をジッと見つめる。

 私は彼の視線から目を離せなくなり、ボッと顔を赤くした。


「あ、あの……そんなに見つめられると恥ずかしいです」

「ははは。すまない。あまりにも君が美しくて……それに」

「それに?」

「……いや、なんでもない」


 馬車の前まで移動し、お別れの時間がやってきた。

 私は少し名残惜しい気分で馬車に乗ろうとする。

 だがグレイ様が突然、それを遮るかのように私の前に立つ。


「グレイ様?」

「……すまない。もう少し君の時間を俺にくれないか?」

「……はい」


 自然と私はそう返事していた。

 私はグレイ様と共に町の散歩を始める。

 ユージン様のお父様が治めるエミュロットの町……

 ここは大きく華やかな町で、立ち並ぶお店には無いものなどないように思えるほどに充実した品揃えをしている。

 見たこともないような食べ物や、ブリキ。

 グレイ様の隣を歩きながら、私は感嘆の声を上げる。


「アリエス。あの店に入ろうか」


 グレイ様が指差したのはアクセサリーを販売しているお店だった。

 周りと比べても高そうなお店で、少し入るのに躊躇してしまうほどだ。

 貧乏貴族である私には、少々敷居が高いように思える。


「さあ、入ろう」


 グレイ様が私に手を差し伸べる。

 私は高鳴る心臓でその手を取った。

 ドキドキしながら私はグレイ様について店へと足を運ぶ。

 

 手汗をかき、喉が渇く。

 顔は赤くなっているだろうし、少し足が震える。

 グレイ様に気づかれないだろうか。

 こんなに緊張していることを。

 

 私はグレイ様の様子を窺いながら、自分の感情がバレないようにと祈るばかり。

 店の商品など見るような余裕はない。


 グレイ様が商品を見ながら何か言っている。

 私は呆けたままで彼の言葉に頷いていた。

 何を言っているのだろう?

 分からない。

 

 私はただ祈るばかり。

 この胸の高鳴りが彼に伝わりませんようにと。


「お待たせいたしました」

「……え?」


 お店の方から包装された包みを手渡される。

 私は唖然としながら、それを受け取った。


「あの……これ?」

「? それでいいと言っただろ?」

「……えええっ!?」


 どうやらグレイ様が購入してくれたようだ。

 私は申し訳ない気持ちになり、グレイ様に返そうと突き出した。


「あ、会ったばかりのお方にこんな物をいただくわけにはまいりません!」

「じゃあ、俺にそれを使えというのかい?」

「え、ええ?」

「女性物だよ」

「…………」

「あまり深い意味で捉えてもらわなくていい。初めて会話をした記念。それぐらいで考えてもらえればいいから」


 初めて会話をしただけでこんな物を頂けるなんて……

 私は困惑したまま、しかし喜びを胸に包みをギュッと胸に押し付けるのであった。


 お店を出て、グレイ様とまた町を練り歩く。


「いい町ですね。ここは」

「君の住んでいる町もいい所なんじゃないのか?」


 私の住んでいる町は、ここと比べれば本当に田舎のようなものだ。

 なんとなくグレイ様にそのことを知られるのが恥ずかしく思え、私はちょっとだけ俯いた。


「そんなことありませんよ。小さな町で、何もありませんし」

「でも君がいるだけで価値がある」

「……ええっ?」


 眩しそうに私を見つめるグレイ様。

 私は彼の視線に顔を真っ赤にしていた。


 今すぐに駆け出したいほどに恥ずかしい。

 落ち着かない。

 彼を見ているだけでボーッとする。


「じ、冗談がお好きな方なのですね」


 私はハンカチで顔の汗を拭き、一つ深呼吸する。

 彼の方に視線を戻すと、グレイ様はキョトンと私を見ていた。


「冗談のつもりじゃないんだけどな」

「……えええっ!?」


 頭が沸騰しそうになり、私は大慌てで包みを落としてしまった。

 グレイ様は包みを拾い、笑顔で私に手渡す。


「君には価値がある。俺は純粋にそう感じているよ」

「そ、そんなこと……あっ」


 照れてばかりいる私の前で、子供が迷子になっている姿が目に入る。

 私はその子供、女の子に近づき、彼女と同じ視線で話しかけた。


「どうしたの? 迷子になったの?」

「うん……ママがいなくなったの」

「そう……一緒に探してあげるから、安心して」


 女の子は頷き、私の手をギュッと握る。

 私は彼女の手を握り返し、母親を探すことにした。


「申し訳ありません、グレイ様。この子の母親を探してあげたいので、ここで……」

「いや。俺も一緒に探そう」


 グレイ様は優しい瞳で女の子の頭を撫でる。

 二人で大勢の人が行き来する通りで、母親を探した。

 案外すんなりと見つかり、女の子は母親の胸に飛び込む。


「ありがとう、お姉ちゃん、お兄ちゃん!」

「こら、あの人たちは貴族なんだから――」

「気をつけて帰るんだよ」


 グレイ様は悪意を一切含まない、純粋な笑顔で彼女たちに手を振っていた。

 私も手を振り、彼女たちを見送った。


 そこから馬車まで戻り、グレイ様の手を取り私は段差を上がる。


「あの……今日はありがとうございます。とても楽しい一日となりました」

「落ち込んでいた君を見た時はどうなるかと思ったけど……そう言ってもらえて嬉しいよ」

「…………」


 完全にユージン様のことを失念していた。

 グレイ様と過ごした短い時間は、彼への感情を忘れてしまうほどに強烈なものだったようだ。


「また会おう、アリエス」

「は、はい」


 先程の子供を見送るよりも眩い笑顔で、グレイ様は私をお見送りしてくれた。

 彼と離れても胸の高鳴りが収まらない。

 ユージン様のことなどどうでもいいぐらい、私は彼を想い始めていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ユージンは、アリエスに本気で惚れていた。

 だがどうしようもない欲望が沸き立つ。

 アリエスの美しさに惚れつつも、病的な性欲には勝てなかった。


 女を抱きしめながら、ユージンは彼女の耳元で愛を囁く。


「お前は綺麗だ。ずっと俺の傍にいてくれ」

「ユージン様……」


 うっとりする金髪の女性。

 彼の美しさ、そして優しさに心酔していた。

 ユージンに婚約者がいることは分かっている。

 だけどもし……もし、婚約を破棄してくれるかも。

 そんな淡い期待を抱きながら彼に抱きしめられていた。

 

 ユージンが彼女を選ぶことなど、あり得ないというのに。

 アリエスを手放すつもりはないユージン。

 

 あんないい女、他にはいない。

 見た目は美しく気立ても良い。

 誰もが振り向くアリエスがいれば、私の存在もまた一段と際立つというものだ。


 ユージンは自己顕示欲の強い男である。

 どれだけ自分がよく思われるか、どれだけ自分の価値を高く見せるか、それが彼にとって大事なことなのだ。


 アリエスは美しい。

 その事実として、彼女に恋をする男性は多かった。

 彼女の美しさに関しては、常々耳にしていたユージン。

 パーティーで初めて彼女を見た時、一目ぼれをした。


 だが自分から女を口説くというのは、どうも恰好のいいことではないと考えていたユージンは、父親に彼女のことを話した。

 ユージンはナルシストでもある。

 美しい自分は、女性から声をかけられて当然。

 だから美しい自分から女に声をかけるのは美しくないと考えていたのだ。


 父親がアリエスを気に入るのは分かっていた。

 それだけ素晴らしい女性であったからだ。


 彼女の両親が、家柄に関してコンプレックスを持っているのも把握している。

 エミュロットから婚約の話が舞い込めば、向こうは否定することもないだろう。

 喜んで飛びついてくるはず。

 自分はただ餌を撒くだけ。


 アリエスを手にするのは、そう難しい話ではない。

 後はゆっくり釣れるのを待つだけだ。


 そして彼からの婚約話を受け入れるアリエスの両親。

 アリエスに拒否権は無かった。

 拒否できたとしても、拒否するつもりもなかったが……

 かくして、ユージンはアリエスと婚約を果たしたのだ。

 

 なんとしてでもアリエスと婚約をしたかったユージン。

 心の底から彼女に恋をしていたが、それでも女遊びを止められない。


 自分を求める女がいれば、それだけ自分の価値が上がったような気がした。

 欲望まみれの日々を送るユージン。

 

 バレなければどうということはない。

 そして、この事実を隠したまま、彼女を幸せにしてみせよう。


 ユージンは女を抱きしめながら、アリエスのことを想っていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ユージンはアリエスとは別の女と甘い夜を過ごした。

 朝目覚め、眠る彼女を見下ろしながらフンと鼻を鳴らす。


 アリエスと比べれば大した女ではないな。

 やはり俺には、アリエスが一番似合う。

 俺の魅力を一番引き出せるのは彼女だし、そして何より、彼女のことを愛している。

 今回のことでそれがよく分かった。

 俺はやはりアリエスのことが好きなのだ。


 眠る女をベッドに放ったまま、ユージンはカーテンを開き、太陽の光を全身に浴びる。

 その眩さに、どこかアリエスを思い出し、温かい気持ちになっていた。

 また早く会いたい……だが、もう少しすれば彼女はこの家に嫁いでくる。

 焦ることもないだろう。


 そんな風に考えながら、目を細めて太陽の端を見つめるユージン。


「ん……」


 すると、ベッドで女が目を覚まし、ユージンの背中にそっと身を寄せる。

 ユージンは彼女のことを気怠く感じ、冷たい声で言い放つ。


「早く帰ってくれ」

「え? どうしたのですか、急に?」

「どうしたもこうしたもない。君とは一夜限りの関係だ。俺には大事な婚約者がいる。それは君も知っているだろ?」

「知ってはいますが……それでも唐突すぎませんか?」

「君にとってはそうなのだろう。だが俺から見れば唐突でもなんでもないのさ。さ、早く帰ってくれ」

「…………」


 女は振り向きもしないユージンの背中を睨みつけ、そして脱ぎ散らしていた服を着る。

 扉の前でもう一度ユージンの方を見るも、彼は外を眺めたままだ。


「……酷い方なのですね」

「そうかい? たった一夜でも君には素晴らしい時間を提供してあげたつもりだが。酷いどころか、優しいだろ?」

「あなたはもう少し本当の優しさというものを知った方がいいかと思います」

「本当の優しさ? 知っているさ。俺はそれを一番大事な物にだけ向けると決めているんだ。君相手に真の優しさを与えるなど勿体ないだろ?」


 女は下唇を噛み、そして部屋を飛び出していく。

 乱暴に閉じられた扉。

 ユージンはそのうるさい音に反応を示さず、静かに天を眺め続けるだけであった。


「ユージン様。そろそろお出かけの時間です」

「ああ。分かった」


 ユージンの予定を把握している侍女が部屋に入り、裸の彼にそう告げる。

 着替えを済ませたユージンは、屋敷を後にし、用意されていた馬車へと乗り込もうとした。

 その時であった。


「ああ、ユージン様。昨日はアリエス様がいらっしゃいましたね。とてもお綺麗なお方で、私ビックリしました」

「……何?」


 門番がほんのり頬を染め、ユージンにそう言った。

 ユージンは少し混乱する。


 昨日……アリエスが来ていただと?

 会っていないというのに……どういうことだ?


 ユージンは嫌な予感をヒシヒシと感じながら、馬車に揺られる。

 まだ自分の犯した失態に気づかないままに。


 ユージンは落ち着かない気持ちのまま、他の貴族との会食に出かけていた。

 アリエスのことが気になって仕方がない。


 一体何故彼女は昨日帰ってしまったのだろうか。

 俺に会いに来てくれた……のだろう。

 だというのに、彼女は顔を見せることなく帰ってしまった。

 

「…………」


 もしかして……女と愛し合ってるところを見られてしまったのか?

 そうだとすれば、彼女が黙って帰ってしまったことに合点がいく。

 何故そのようなタイミングでアリエスは来てしまったのだ!


 隠し事がバレるのは大概そういう物だ。

 たった一度のことだとしても、何故かバレてしまう。

 だがユージンに関しては常習犯。

 門番はユージンがコッソリ女と会っていることなど知りもしなかった。

 ユージンには妹がおり、昨日現れた女は妹の友人だと思っていたのだ。

 だからアリエスが現れたことにも動じず、素直に門をくぐらせてしまった。


 今すぐにでも確かめたいユージンは、ソワソワしながら会食をする。

 そんな彼に、一人の女性が声をかけた。


「ユージン様。お久しぶりでございます」

「ああ……久しぶりだな。少し見ないうちに、ずいぶん綺麗になったな」


 子供の頃から知っている女の子が、美女となっていることにユージンは笑みをこぼす。

 そしてこの美女も、その毒牙にかけようとしていた。


 アリエスのことを心配しているが、欲望がそれを上回る。

 ニヤリと心の中で笑いながら、女性殺しのとびっきりの笑みを彼女に向けていた。

 当然のようにときめく女。

 ユージンの罠にかかったようだ。

 それを瞬時に把握したユージンは、彼女の耳元で囁く。


「今度二人きりで会おう」

「はい……」


 嬉しそうにはにかむ女性。

 ユージンはそんな彼女の手を密かに握る。


 会食も終わり、急いで屋敷へと戻るユージン。

 帰宅した時はすでに夕方となっていたが、門番はまだいた。

 ユージンは馬車を飛び降り、彼に近づく。


「おい、昨日アリエスはどのようにして俺の部屋に向かったのだ?」

「はぁ……ユージン様を驚かせたいということでしたので、庭の方から部屋に向かいましたけど……」

「なっ……」


 庭から俺の部屋に来て……俺たちの姿を見たということか。

 これは完全に勘違い(・・・)されているぞ。


 ユージンはアリエスのもとへと行くことを決める。


 アリエス……君は勘違いしている。

 俺が愛しているのは君なんだ。

 昨日の女はそんなんじゃない!


 自分が犯した罪のことを棚上げし、アリエスに真の愛を伝えにいこうと考えていたユージン。

 もうすでに破滅の扉は開いているとは知らずに。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「やあ。アリエス」

「グレイ様……」


 グレイ様と別れた翌日、彼は花束を持って私の屋敷へと出向いてくださった。

 私は戸惑いを感じつつも、喜びを弾ませる。

 まさかすぐに彼と再会できるなんて……


「これを君に」

「あ、ありがとうございます」


 グレイ様から花束を受け取り、新鮮なその香りを匂う。

 見た目もとても美しく、心が落ち着くようだ。

 そしてグレイ様の笑顔に視線を戻しドキッとする。


「喜んでくれたみたいで嬉しいよ」

「本当に嬉しいです、グレイ様」


 花束をギュッと抱きしめていると、背後でコホンと咳をする音が聞こえる。

 振り向くとそこにはお父様がおり、少し苛立っている様子。


「誰だ、その男は?」

「あ、あの……この方はグレイ様といいまして……」


 私はお父様に説明しようとするも、言葉に詰まる。

 グレイ様のことは名前以外何も知らない。

 どう説明すればいいのだろうか。

 仮にも私には婚約者がいる。

 ユージン様という婚約者が。


 彼が浮気をしていたとしても、お父様はそんなものぐらい目をつぶれと言うだろう。

 ユージン様が浮気をしていようが私がそれで心を痛めていようが関係ないのだ。

 お父様が心配しているのは援助のことのみ。

 自分たちの家のことだけを考えている人だから。


 そんな私に、別の男が近づいてきている。

 そう考えているであろうお父様の胸中は、想像するに容易い。

 私の頭にはお父様の暴力が過り、手足が震え出す。


「あ、あの……あの、この方は……」

「あなたがアリエスのお父上ですね」

「ああ……お前は?」


 グレイ様は震える私の肩を抱き、笑みをこちらに向ける。

 彼の優しい表情は不思議と心を落ち着かせ、震えは治まっていた。

 私の震えが落ち着いたのを確認したグレイ様は、お父様に近づいていく。


 そしてこちらに聞こえないように、お父様と何やら話し始めた。

 グレイ様の言葉を聞き、ギョッとするお父様。

 急にお父様はへつらうような笑みを貼り付ける。


「それでは、アリエスと出かけてきてもいいかな」

「は、はい! このような娘で良ければご自由に!」

「…………」


 私はお父様の変化にキョトンとしながら、戻ってくるグレイ様のお顔を眺めていた。

 彼はニコッと笑い、外へ向かうように私を促す。


「では、参ろうか」

「え、あの……」

「大丈夫。お父上には話を通しておいたから」

「…………」

 

 依然として呆然とする私。

 グレイ様はイタズラっ子のような笑みを私に向けている。

 私はそんなグレイ様の笑顔も素敵に思い、心臓がドクンと高鳴るのであった。


 私の父親が治める小さな町。

 華やかさなどない、質素な造りの家屋ばかり。

 お父様たちの見栄のために、屋敷だけは少しばかり大きいが……

 それ以外は別段何もない、物静かなところ。


 こんなところを歩いたところで楽しいことなんて……


 そう私は思っていたがグレイ様と歩くだけで、とても素敵な時間となった。

 胸に喜びが満ち、歩いているだけで幸福感を覚える。

 こんなこと、ユージン様とだってなかったというのに……


 私は少しボーッとしながらグレイ様の顔を見上げる。


「どうしたんだい?」

「いいえ。不思議なお方だと思いまして……あなたといると、すごく幸せなのです。何故でしょうか?」

「何故だろうね? 俺もとても幸せだ。君がいるだけなのにね」

「え?」

 

 私は顔を真っ赤にする。

 まさかそんなことを言われるだなんて。

 これはお世辞だろう。

 そう考える私は、ドギマギしながら言う。


「そ、そんな御冗談を……乙女をからかって、悪い人」

「冗談じゃないよ。君がいるだけなのに幸せなんだ……いや、君がいてくれるから幸せなんだろうな」

「…………」


 頭が沸騰し顔が赤くなっていく。

 私は足元をフラつかせ、彼の肩に手を置いてしまった。


「も、申し訳ございません!」

「何を謝ることがある? むしろ嬉しいぐらいさ」


 グレイ様は少し照れた様子で、私の肩を抱き寄せた。

 私は緊張のあまり、ガチガチに固まってしまう。

 

「え、あ、え……」

「すまない。まだ俺たちはそんな関係ではなかったね」


 残念そうに私の肩から手を下ろすグレイ様。

 私も少し名残惜しい気持ちで、その手を眺めていた。


「…………」

「…………」


 無言のままでまた歩き出す私たち。

 何も喋らない。

 だけど気まずさなどは一切なかった。

 本当に穏やかで、幸せな時間。


「…………」


 グレイ様の横顔を見つめる。

 本当に不思議な人。

 一緒にいるだけでこんな幸福感を味わえるだなんて。

 それに……


「あの、グレイ様」

「なんだい?」

「あなた様は、どういったお方なのでしょうか? お父様が一瞬で態度を変化させてしまいましたし……」

「それは……またいずれお話させてもらうよ。今は何者でもない俺と一緒にいてほしい」

「…………」

「ダメかい?」


 少し困ったような顔を見せるグレイ様。

 この人の素性は分からない。

 だけど一つだけ分かっていることがある。

 それは、この人は信用するに値するということ。

 きっと信じても大丈夫。

 ユージン様のように、私を裏切るようなことはしない。


「いいえ。グレイ様がそう仰るのでしたら、私はそれに従います」

「ありがとう、アリエス」


 グレイ様のこぼした笑顔。

 それだけでまた、私は幸せを感じていた。


 田舎風景が広がる町をグレイ様と目的のない散歩を続けていた。

 何が好きで、何が嫌いか。

 私は自分の好き嫌いが分からないなんて話をすると、グレイ様はとても悲しそうな顔をした。


 両親の話はできない。

 だから好き嫌いがないとだけ伝えておいた。


「グレイ様は何がお好きなのですか?」


 少しだけ空気が悪くなったので、私は流れを変えようとグレイ様の好みを聞いた。 

 すると彼は優しい顔で、優しい声で言う。


「俺は卵が好きだな。あれを焼くだけでも美味しいんだから不思議で仕方がない」

「不思議なのは、グレイ様と同じですね」

「そうかな? 不思議なのはユージンだ。なんで君みたいな女性がいながら、他の女に手を出すかな?」


 ユージン様の名前を聞いても、私は何も感じなかった。

 きっとグレイ様はそれを確かめたかったのだと思う。

 私がユージン様のことをどう想っているのか。

 

 グレイ様の想像通りの反応をしたのだろう。

 柔和な笑みを浮かべて、私の瞳を覗き込む。


「やはり一番不思議なのは君かな。君がユージンをなんとも思っていないことに安心している。君の気持ち一つで、こんなに感情を揺り動かされるなんて」

「…………」


 それは私の方だ。

 彼の優しいお顔一つで、こんなにもドキドキしてしまうのだから。

 

 やはりグレイ様は不思議。

 何故こんなに彼のことが気になってしまうのだろうか。

 いや、自分でも分かっているんだと思う。


 私はきっとグレイ様の事を――


「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなってもいけないしね」

「……はい」


 グレイ様との別れの時間が迫る。

 それだけで凄く寂しい気持ちになって……


 ずっと一緒にいたい。

 離れることなく、ずっと永遠に。

 そう――夫婦となって、片時も離れたくない。

 

 隣で歩くグレイ様の横顔を眺めながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。

 彼がいることが嬉しくて、別れが寂しくて……そして彼と一緒にいる未来を想像するのが楽しい。


「アリエス。話があるんだ」

「はい?」


 グレイ様は突然立ち止まり、私の方を向き真剣な表情で見つめてくる。

 私はうるさいほどの心臓音を押さえるように胸に手を置く。

  

 話って……なんだろう?

 

「俺は……」

「はい……」


 グレイ様は深呼吸し、何かを言おうとした。

 だがその時、屋敷の方で止まる馬車が一台あり、私たちはそちらの方に視線を向ける。


「……ユージン様」

「…………」

  

 なんと馬車から降りて来たのはユージン様であった。

 彼は落ち着かない様子で、屋敷の方へと駆けて行った。


「アリエス! アリエスはどこだ!?」

「ユ、ユージン様……どうか致しましたか?」


 お父様が屋敷に駆け込んできたユージン様の姿を見て、驚きながら彼を出迎える。

 お母様も奥の部屋から出て来て、お父様と同じようにユージン様の前に立つ。


 私は玄関の方からユージン様の背中を眺めていた。


「それで、どうするつもりだ?」

「そんなの決まっております」


 私は何度か深呼吸し、勇気を出してユージン様の方へと歩き出す。

 するとユージン様は私に気づいたらしく、振り返り私の方を見る。


「アリエス……先日我が屋敷に来てくれたようだな」

「ええ……」

「……それで、俺がその……」

「見知らぬ女性の方と抱き合っていたのを見てしまいました」


 やはりと肩を落とすユージン様。

 大丈夫。私はなんとも思っていない。

 傷ついていない。

 でもきっとこれはグレイ様のおかげだ。


 知らぬうちに私の心を癒し、守ってくれていた。

 それが今分かる。

 あのまま家に帰っていたら、きっと今も泣いていたと思う。

 良かった……グレイ様がいてくれたおかげで、私はこうして真っ直ぐユージン様と向き合っていられるのだ。


「一つだけ君に言っておきたいことがある」

「なんでございましょう?」

「俺は君が一番だ。他の女に現を抜かすこともあるかもしれない……だけど君だけが俺にとって大事なことは忘れないでほしい。浮気ぐらい、貴族の中では当たり前のことなんだ」

「…………」


 虫唾が走るとはこういうことであろうか。

 以前は端正な顔立ちに、淡いときめきを覚えたような気もするが……

 今は害虫でも見ている気分。

 こんな人と、私は結婚しようとしていたのか。


「な、なんの話かは知らんが……アリエス。ユージン様のことは許して差し上げなさい。いいな?」

「…………」

「聞いているのか、アリエス!」


 お父様が私を怒鳴り付ける。

 子供の頃からの暴力の所為で、私の身体は無意識に恐怖心を抱き始めた。

 ガタガタ震えながら、お父様の言葉に従おうとしている自分がいる。


 ユージン様はそんな私の様子を見て、ニヤリと笑った。

 このまま言いくるめられると考えているのだろう。

 今私は理解した。

 何があってもこの人とは結婚したくない!

 絶対に嫌だ!


 だけど声が出ない……

 お父様に従おうとしている自分がいる。

 

 助けて……誰か、助けて……


「アリエス。大丈夫だ。俺がいるよ」


 優しくそう言って、泣き出しそうな私の肩を抱いてくれる人がいた。

 それはグレイ様だ。

 彼は物陰に隠れていたが、私の様子を見て飛び出して来てくれたのだ。


 ああ。

 彼がいてくれるだけで私は大丈夫。

 彼が肩を抱いてくれるだけで安心感を覚え、震えが止まる。


「グ、グレイ様……」


 そんなグレイ様のお顔を見たユージン様は、驚愕に顔を歪ませていた。


「な、何故貴方様がここに……?」

「さあ……何故だと思う?」


 唖然とするユージン様に、不敵に笑うグレイ様。

 私は二人の関係性が分からず、グレイ様の隣でポカンとしていた。

 

「い、今はお控えいただきたいのですが……」

「何故?」

「わ、私と、婚約者の問題の最中なので……」

「だったら俺にも関係のある話だ。俺にもしっかりと二人の話を聞かせてくれ」

「は、はぁ?」


 ユージン様は困惑した様子でグレイ様を見ている。

 私はなんのことだろうと、グレイ様の横顔を見上げた。

 するとグレイ様は、私の耳元で囁く。


「さあ。怖がることはない。言いたいことをハッキリと言ってやれ。大丈夫だ。俺が付いている」

「……はい」


 グレイ様がいれば、私は強くいられる。

 この人は私の心を守ってくれているのだ。

 何も怖くない。

 両親が目の前にいようとも、私は自分の言いたいことを言える。


「ユージン様。あなたとの婚約を破棄させていただきます」

「……な、なんだと?」


 顔を引きつかせているユージン様。

 その情けない顔に、私は笑い出しそうになる。

 お父様は怒りに目をピクピクさせており、また私を怒鳴り付けようとした。

 しかし。


「止めておけ。アリエスを恫喝するというのなら……俺が黙っていないぞ」

「ひっ……ど、恫喝するなど、滅相もございません」


 お父様はグレイ様の一言に怯えてしまう。

 ユージン様はハッとして、そこでようやく口を開く。


「お、俺は認めない……君との婚約を破棄するつもりはない!」

「申し訳ありませんが、こちらの勝手にさせていただきます。貴族の浮気が当たり前なのかは存じ上げませんが、そんな常識、私は到底認められません。私は私を愛してくれる人を愛するつもりです」

「分かった! だったら浮気はもうしない! 約束だ! これからは君だけを想い続けることを約束しよう!」

「……もう手遅れでございます。私はあなたと一緒になるつもりはありませんから。あなたと一緒になるぐらいなら、自害した方がマシというものです」

「ア、アリエス……頼む、考え直してくれ!」


 私は静かに首を横に振る。

 ユージン様はその場で膝を突き、懇願するように私を見る。


「お願いだ、アリエス! 本当に君のことが好きなんだ! 君ほど美しい人はいない! お願いだ……傍にいてくれ」

「傍にいるだなんてごめんですわ。もうあなたを見たくもありませんもの」

「そういうことだ。さっさと諦めるんだな、ユージン」

「…………」


 青い顔で私たちを見上げるユージン様。

 グレイ様は私の肩を抱き、憎しみを込めてユージン様を睨み付けていた。


「ユージン。本当の愛に目覚めると、他の女のことなど眼中にも入らないものだ。アリエスが好きだと言っておきながら、他の女に現を抜かしているところを見ると、お前のアリエスに対する愛はまがい物。数ある女のうちの一人としか見ていない証拠だ」

「そ、そんなことは……」

「そんなことがあるから他の女に手を出すんだ。本気ならば世界が変わる。お前も本気になれる女を探すのだな」

「だ、だから、私はアリエスを愛そうと考えているのです!」

「止めて下さい。あなたに愛されても迷惑でございます」


 グレイ様と話し合いをしていたユージン様であったが、私の言葉を聞いて口を閉じる。

 この間まで穏やかに接していただけの私が、こうして彼を否定したからだ。

 

 グレイ様も私の言ったことに少し驚いている様子であったが……すぐにニコッと笑いかけてくれる。


「とにかく、これ以上アリエスに言い寄るのは止めろ。一方通行の感情はただの迷惑にすぎない」

「い、一方通行などではありません! 私はアリエスを愛し、アリエスは私を――」

「それが一方通行だと言っているのだ。いい加減にしろ。彼女は……」


 何かを言おうとしたグレイ様は、私の方に視線を向け、ジッと見つめ続けている。

 私は頬を染め、グレイ様を見つめ返していた。 

 本当に美しいお方。

 髪も手入れをされていてサラサラで、健康と美を封じ込めた肌。

 そして私を見つめる、その蒼い瞳。

 まるで彼に溺れてしまうかのように、引き込まれるようだった。


 グレイ様はコクンと一つ首を振ると、ユージン様の方を見て、宣言する。


「彼女は――私の妃となる女性なのだからな」

「「「「なっ……」」」」


 ユージン様も、お父様も、お母様も。

 そして私も驚きに言葉を失ってしまう。


 妃……私が、グレイ様の?


「…………」


 驚き、そして次に津波のように喜びが押し寄せる。

 胸が一杯になる。

 そんな幸福なことが……そんなことがあるのだろうか。


 まだ唖然としたままの私に、グレイ様は跪いてて下さる。


「アリエス。順番がおかしくなってしまったが、俺と結婚をしてほしい。俺は約束する。ユージンのようには――」

「約束などいりません。私はグレイ様を信じておりますから」

「……アリエス。俺と一緒になってくれるか?」

「はい。不束者ですが、よろしくお願いいたします」


 グレイ様は立ち上がり、そして私の手を握る。

 ユージン様たちは呆然と私たちを見ているだけだ。


「今から君を連れ去るつもりだが……いいかい?」

「はい。どこまでもお供します。たとえ地獄の果てへでも」

「君と向かうのならばどこでも天国になるだろう。そしてこれから君を連れ去るのは、俺たちの輝かしい未来だ」


 グレイ様は私の手を引き、走り出す。

 私は果てしない幸福感を覚え、抑えきれない興奮と共に彼と同じように走り出し、ユージン様にお別れを告げる。



「さようなら。悪いのは浮気をしたあなたですから」



 屋敷を飛び出し、グレイ様に手を引かれるままに馬車に乗り込む。

 息を切らせて、彼の胸に頭を預ける。

 もう何もいらない。

 彼がいれば何もいらない。

 家も家柄もお金も何もかも。

 グレイ様がいれば私はもう満足だ。


「グレイ様……お慕いしております」

「俺もだ、アリエス」


 優しく私の頭を撫でるグレイ様。

 それだけで心がポカポカ温かくなる。


 走り出した馬車の外から、両親とユージン様の叫び声が聞こえてきた。

 だが私たちは声の方を振り向くことなく、見つめ合う。


「アリエス。俺のことを話さなければならない」

「はい。グレイ様のことはなんでも聞きたいです。例え没落貴族であったとしても、私はあなたと一生を共にいたします」


 苦笑いするグレイ様。

 少し話しづらそうな表情をするが、いつものように穏やかな顔で私に言う。


「これから君には、大変な目に遭わせてしまうかもしれない」

「貧乏ぐらい、どうということはありません。あなたがいれば、どんな試練にだって耐えてみせます」

「……嬉しいよ、アリエス。でもそうじゃないんだ」

「?」

「貧乏とは、ありがたいことに無縁の立場でね……」

「はぁ……」


 意を決したのか、グレイ様は真剣な面持ちとなり、私を見つめる。


「俺はグレイ……グレイ・アールスター」

「……ア、アールスター?」

「ああ」

「…………」


 アールスター……

 アールスターと言えば、この国を治めている王族のことだったと記憶している……

 それ以外にアールスターなどいただろうか……

 いるわけがない。

 アールスター王国を治めるアールスター家以外にアールスターは存在しないはず。


 私の頭の中で何度も『アールスター』がこだましている。

 こだまして、混乱して。

 そしてようやく頭の中でその事実を受け入れる。


「グレイ様って……もしかして、第一王子のグレイ様ですか?」

「ああ。実はそうなんだ」


 ニッコリ笑う彼にときめきを覚えつつ、血の気が引くを感じる。

 まさか……本物の王族だったなんて……


 私は怖くなり、彼に頭を下げようとするも、体を強く抱きしめられる。


「王族に入ることにより、大変なことも多いと思う。もし嫌なら今のうちに――」

「いいえ。どんなことがあろうともグレイ様について行くと決めていますから」


 怖がった自分を叱りたい。

 この人に……この温もりに一生ついて行くと決めていたはずなのに。

 もう絶対にぶれない。

 私は本当に何があろうともグレイ様と一生を共にする。


 嬉しそうに微笑むグレイ様。

 不安など消えてしまえ。

 この人がいれば、どんな困難でも乗り越えられるはずだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「あ、あなた……アリエスが連れ連れ去られてしまったわ!」

「ふひひ……大丈夫だ。行先は分かっている」


 アリエスの母親は、金のなる木――アリエスがグレイと共に去ってしまったことに大慌て。

 だが父親の方は、相手が国の王族だと知っており、ニヤリと笑みをこぼす。


 エミュロット家とは比べ物にならないよい縁談。

 王族の恩恵を受ければ、俺の位も……


 ニヤニヤと醜悪な笑みが収まらない父親。

 呆然としたまま、ユージンは彼を見下ろしていた。


「……アリエス。俺はまだ諦めていない」

「…………」


 父親はユージンの真っ直ぐな目を見て舌打ちをする。


 ここで出しゃばられるのも厄介だ。

 こいつをなんとかできないものか……


 そんな事を考えていると、屋敷の中へと大勢の人が雪崩れ込んでくる。


「な、なんだ、お前たちは!?」


 アリエスの両親を取り囲む数人の騎士。

 彼らはアリエスの両親を威圧するかのように、二人を睨み付けている。


 アリエスの父親は怯えながらも、彼らに怒声を放つ。


「そ、そこをどけ! 今から娘の所に――」

「それは認められない」

「な、なんだと……?」

「グレイ様の命令だ。金輪際、アリエス様との接触を禁止とする」

「な……自分の娘と会えないなんて、そんなバカな話が!」

「自分の娘を、長い間虐げてきたのは誰だ?」

「う……」


 グレイは全てを把握していた。

 アリエスがどんな環境で育ち、両親からどのような扱いを受けてきたのか。

 キツイ罰でも与えてやってもいいが、しかしこれでもアリエスの両親。

 接触禁止を言い渡すだけで済ませてやろうと考えていた。


 王族の命となれば、さすがにどうしようもなく、項垂れるアリエスの両親。


「わ、私たちは、これからどうやっていけばよいのですか……?」

「…………」


 夫人の言葉に返事をすることもなく、父親は唖然と天井を見つめるだけであった。


「お、お前たちは誰だ!? 俺は今から行かなければならないところがある。どけ!」


 ユージンはアリエスの両親よりも大勢の人数に取り囲まれていた。

 その数、18名。

 彼らは憎しみを含んだ視線をユージンに向けている。


「俺たちが誰かだと? お前に傷物にされた娘を持つ父親だと言えば分かるか?」

「……なっ!?」


 一気に顔を青くするユージン。

 しかし男たちを警戒しつつも、相手よりも自分の地位が高いことを把握している。

 

「お、俺に手を出してただで済むと思っているのか?」

「ああ。俺たちにはグレイ様がついてくれていらっしゃるからな」

「……え?」

「お前への復讐はグレイ様がお許しになってくれた。全ての責任を取ってくれるんだとよ」

「ちょ……ちょっと待て。お前たちの娘は、俺との一夜を喜んでいたはずだ」

「ふざけるな……今でも娘は泣いてばかりいるんだぞ!」


 父親たちの感情が爆発する。

 娘をオモチャにしたユージンに対して、怒り狂う。


「お前に騙されたと、お前を信じていたと言っているぞ!」

「今までは侯爵家の人間であるお前に手を出せなかったが、今こそ恨みを晴らさせてもらう!」

「おい、皆で取り押さえるぞ!」

「お、おい! 何をするつもりだ!」


 男たちはユージンを周りから取り押さえ、身動きできないようにしてしまう。


「もう女遊びをできないようにしてやるよ」

「な、何をするつもりだ……何をするつもりな――ぎゃああああああああああああああ!!」


 娘たちの無念を晴らすように、男たちはユージンの身体の一部を切り取ってしまった。

 こうしてユージンは、女遊びはおろか、子供を作れない体になってしまうのであった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 グレイ様と馬車に乗り、到着した先はアールスター城。

 その大きさに私は息を呑み、緊張して見上げていてた。


「心配かい?」

「少しだけ……ですが、グレイ様がいれば何も怖くありません」

「俺もだよ、アリエス」


 グレイ様が私の身体を抱きしめてくれる。

 男性特有の匂いと力強さに、私は安堵を覚えていた。


「ユージンの町で君と会えたのは偶然だった。いや、必然だったのかもしれない。俺たちは出逢うべくして出逢ったんだ。俺はそう信じたい」

「私もでございます、グレイ様」


 ああ。この人といれば全てが大丈夫。

 私は幸せなんだ。

 ようやく本物の幸せを見つけ出したんだ。


 早鐘を打つ心臓。

 顔は熱いが心は落ち着く。

 ユージン様のことなど色々とあったが、こうして私は運命の人と巡り合うことができた。

 

「まずは父上に紹介しなければ。許可なく結婚の約束をしてしまったから」

「まぁ。反対されたらどういたしますか?」

「その時は、君とこの国を離れるよ。君がいれば俺はそれでいい。それだけでいいんだ」

「グレイ様……」


 彼の背中に回す手に力を入れる。

 グレイ様の心臓の音が聞こえる……私と同じく、鼓動が早いようだ。


 私と同じように嬉しく想ってくれているのだろうか。

 私と同じように幸せを感じてくれているのだろうか。

 私と同じように一緒にいたいと想ってくれているのだろうか。


「…………」

「…………」


 優しく、強く私を抱きしめる腕。

 私は確信する。

 グレイ様は私と同じ気持ちでいてくれるということを。


 ずっと子供の頃から不幸で幸福だと思っていた。

 辛い日々を生きてきたが、そこそこ恵まれた環境で育ってきたのだから。


 不幸続きで、これが自分の人生なのかとも思っていた。


 でも……でも……


 全部違ったのだ。

 私は幸福になるために生まれてきた。

 ずっと不幸だったことは大した問題ではなかったのだ。

 誰にだって浮き沈みはある。

 辛い時も悲しい時も絶望を感じる時だってあるだろう。

 でも気づいていないだけだったのだ。

 

 全ては幸福に生きるために、これまでのことがあったのだと。

 そしてこれから私は、幸福に生きていく。


 自分の幸福だと思えるものを見つけたのだから。

 かけがえのない人を見つけたのだから。


 グレイ様が傍にいてくれる。

 それだけで私の人生は輝きを放つ。


 私は幸福で……幸せ者なのだ。


 そして私たちは城に向かって――二人の幸福な未来へ向かって走り出したのであった。


 おわり

最後までご覧いただき、ありがとうございました。


これからも異世界恋愛物をを投稿していきますので、よろしければお気に入りユーザー登録お願いします!

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― 新着の感想 ―
[一言] 虐待や浮気は問題外でしょう。 ハッピーエンドで良かったです
2021/09/08 18:06 退会済み
管理
[一言] そこを切り取ると性欲自体無くなるんだとさ、悩む必要がなくなって良かったな
[一言] 一部の切り離し。 むごい……けど、それがいいw 純潔を失ってしまった貴族令嬢はその後婚姻できるのかな? まぁ、実際は結婚まで純潔を守るなんてそうそうなかったのかもしれませんけど。 まぁ…
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