第一章1話 魔術学院の日常
「…る………いい……きるギャ…」
真っ暗闇の外側から聞き慣れた声が響いてくる。生まれてから一度だって耳に届かなかったことがないムートの声だ。どこか不機嫌そうな、それでいて少しだけ甘えた声色で呼ぶ時は自分を起こしにきてくれた時にだけしか聴けない貴重な瞬間だ。
ひんやりした手がソラの額を覆い、寝起きで火照った身体に程よい気持ち良さをくれた。顔を寄せれば手がビクッと大きく跳ねる。細くて華奢な指が慌てて額から離れ、追うようにゆっくりと目を開ければ見知らぬ天井。学校や病院でよく見るヒビ割れのような模様の天井が飛び込んできた。
「き、気分はどうかな…?不知火くん」
おどおどした頼りない声が頭の上から聞こえてくる。首を曲げて横へと視線を向ければ、濃紺の髪に人房だけ赤いメッシュを入れた白衣の女性が立っていた。おどおどした声の通り、本人も忙しなく視線を動かして見るからに臆病そうな少女だ。
「あら、もう大丈夫なの?ムートちゃんの読みは完璧ね」
「だから言ったギャ、頑丈なのがソラの唯一の取り柄なのギャ」
いささか不服な言われ方をして、仕切られた薄緑色のカーテンが開くとあの金髪少女がムートを肩に乗せて姿を現した。ソラが気絶していた間にすっかり仲良くなったようだが、
「お前が俺の顎に右ストレート入れたからこうなったんだけどな……」
「それについては悪かったと思ってるわ。こっちも時間制限があって焦ってたのよ……ほら、コレ」
ゆっくりとソラは身体を起こして、金髪少女がポケットから取り出した物を見つめる。黄金色の塗装が若干剝げているアンティーク調の古い鍵だ。疑問符を浮かべて首を傾げれば、鍵を軽く振りながらソラに見せつけるように前へと突き出した。
「これは転移鍵。特殊な術式が組み込まれていて、扉を媒介に現行世界と学院を繋ぐことが出来る鍵よ。学院の教師でもごく一部しか持てない貴重品なんだけど、学院から一定時間離れると効果が切れちゃうのよね」
「へー……すげぇな、それ使ってお前は俺を探しにきたってことか」
「わざわざあなたの家の一番近いところに繋げて貰ったのに、迷子になってるから苦労したわよ?」
乾いた笑みで応えたソラを尻目に、金髪の少女は白衣をきた女性にその鍵を渡して頭を下げる。ごく一部の教師が正にこのパンクな少女もとい教師なのだろう。
「転移鍵を貸して頂きありがとうございました、日南先生」
「そ、そんな!橘先生のご親族ですから、これくらいは全然何とも…!」
慌てふためいて弁明している濃紺の髪の女性、日南はキッチリと腰を九十度に曲げて礼を言う金髪少女へ逆にペコペコと頭を下げた。人付き合いが相当苦手なのか分からないが、日南は顔を真っ赤にしてむしろ謝り出す勢いだ。
「そ、そそそれに…橘先生の無茶ぶりは存じ上げてますので……」
「えぇ、あの鬼畜ババァには体よく使われてます……日南先生がたまたま通りかかって鍵を貸してくれなければ今頃お説教でした」
死んだ魚のような目で生気のない乾いた笑いをする二人に若干引きつつ、ソラは辺りを見渡す。ベッドを仕切る為のカーテン、白衣の先生、気絶して寝ていた自分。と見渡す必要もないがやはり此処は保健室のようだ。
鼻腔をくすぐるアルコール消毒液の臭いと、保健室独特の静かな空気。顎に貼られたガーゼをさすりながら、入学式をすっぽかして保健室で寝ていた不良男児は立ち上がった。
「えーっと、聞きたい事がすげぇいっぱいあんだけど……とりあえず、ありがとうございました先生。そんでもって入学式は……」
「ほ、保健医の務めですから……入学式?にゅ、入学式ならもう終わってますよ……?」
「でっすよねぇ……」
「一週間前に」
沈黙、静寂、たっぷりと五秒をかけて間が空いた。チーン!と頭の中でオチがつけられて、ソラは人生で一番慌てたと言っても過言ではないほど大焦りかつ大声でまくし立てる。
「い、いいい一週間前ぇ!?」
「ひぃっ!?」
「いやいやいや何ですとよ!?今日が入学式って案内状に書いてあったでござりますれば!遅刻どころか大遅刻っていうかもはや不良も良いとこ……」
「あなた、ちゃんと隅々まで案内状読んだ?」
古びた扉のように振り返り、溜息混じりに吐き捨てた金髪少女へ視線を送れば少女は制服の内ポケットから折りたたまれた紙を取り出す。それはソラに送られてきた物と同じ案内状だ。慌ててひったくり言われた通り隅々まで確認すると、最後の一ページの末尾にこう書かれている。
「なお、当学院での時間軸を前提としている為、個人の国において間に合うように来学するこ、とぉおおおおおおっ!?」
「一定量の魔力を照射すると浮かび上がるのよそれ。まぁ明らかにスペースあったし、普通ならおかしいと思うでしょうけど」
最後のページは「歯がかゆい」とか言ってムートが食い千切りました。そもそも魔力を照射という時点で最後のページが残ってようがソラには解読不能であったのだがそれは割愛。どの言い訳をしようが遅刻は遅刻、大遅刻の不良生徒なのは変わらない。
怒りのあまり身体を震わせて案内状を睨み付けるソラに、金髪の少女は下から覗き込むようにソラの瞳を覗き込んで告げる。
「魔術師たるもの、常に叡智を求め研鑽せよ」
静かに言い放った金髪少女の瞳は瞳孔が引き絞られ、まるでソラの心の奥まで覗き込むような底知れなさを感じさせた。迫力に気圧されてゴクリと唾を飲み込み、ニッコリと笑った金髪少女は身を翻して人差し指を立てる。
「私の家に伝わる格言のようなものよ。常に叡智の隠匿を疑い、常に叡智へと渇望し、常に叡智を研鑽して我が身の糧とせよ……てね。この案内状を作った意地悪な鬼畜ババァは私の親族なの」
「そ、そりゃあまた御大層な……ついでに文句言っておいてくれると助かる」
「言えるわけないでしょ、真っ赤なトマトにされちゃうわよ……それに、御大層にもなるわよ?由緒正しき魔術師の家系なんだから」
魔術師の家系、その言葉は日本ではほとんど聞くことが無い言葉だ。今の世界において魔術師の血統が長ければ長いほど凄いなんていうよくある話はあまり意味を成さない。才能と努力はもちろんだが、何よりも与えられた加護によっては血統など無意味にも等しくされるからだ。
神話上の生物や神々と崇められるような精霊達、彼らの加護を貰えればそれだけで只の一般人が国を半壊させるほどの力を得る。だがしかし、それでも今の世界においてトップに君臨するのは代々魔術を研鑽し継いできた家系の者達である。
それは何故か?簡単な話だ。魔術に全てを捧げてきた者達が新たな魔術を生み出したり、既に神話上の生物と一族で契約しているからに他ならない。文字通り世界遺産だが、同時に核弾頭に近しい危うさもある。
つまりは、にっこりと優しい笑顔を貼り付けているこの金髪少女も中身は国を半壊させるほどの爆弾であるということだ。
「そう身構えないでよ。私はまだ家督を引き継いでないんだから」
「……っ。身構えるなって方が無理だろ、人を拳で気絶させておいて」
「ふぅん?本当にそれだけ?」
適当な理由を付ければ金髪少女は面白そうに目を細めて、革靴を鳴らして一歩近付いて来る。
日本で魔術師の家系という言葉を聞かない理由はもう一つある。日本は魔術や神話、簡単に言えば伝説らしい伝説があまりない。故に魔術という観点では非常に歴史が浅く、脈々と伝わる魔術師の家系など日本では片手の指で事足りるほどしか存在しないのだ。
しかし、その魔術師の血統を持つ者達は全て一つの共通した特殊性を持っている。
それは――――
「――私が、魔術の発展の為なら人間すらも使い潰す悪逆非道の一族……って知ったからじゃないの?」
「…………っ!」
魔術師とはいわば研究者だ。魔術を専門とした科学者と言ってもいい。飽くなき探求と知識との邂逅に喜びを感じるマッドサイエンティスト。
魔術師の家系に連なる人達は総じて【血統持ち】と呼ばれ、絶大な力を有している。尊敬や憧れの眼差しを向けられる事もあるが、畏怖されることの方が多い。その理由は、【血統持ち】のとある一族達が非道なる人体実験を繰り返し、それらが暴露されたからだ。
昔、今まで魔術の発展に貢献してきたトップに立つ者達が非人道的な実験をしていると密告されて全世界が震撼した。だが世界中の【血統持ち】は誰一人否定もせず、しかし絶大な力と世界の発展に貢献してきた功績によって、一つの条約を結ぶことで水に流される。
条約とは、人間や亜人での実験を禁止すること。条約に反した場合国家に背いたと見なされ、軍隊が総力をあげて粛清する。数十人程度の一族に対して、国家が総力を上げるとなればどれだけ危険な一族か分かるだろう。
「……悪い、ちょっとビビった……謝る」
「別にいいわよ、慣れっこだから。知ってるのはあなたとムートちゃんだけだし」
カツン、と姿勢を正した金髪少女は手を差し伸べる。握手の形で差し出された手を見て、そういえば結局しないで終わってたな、と能天気なことを思い浮かべた。
「改めて自己紹介するわ。私は橘 優華 。本当の名字は御剣 だけど、学院じゃあ橘って呼んでくれない?私、友達百人作るのが夢なのよ」
金髪少女、優華はおどけた様子でそう言った。魔術師だろうと青春は青春、悪逆非道と噂される【血統持ち】がそんなことを気にしているという優華なりのギャグだろう。
「ぶっ……ははは!」
「あら、このギャグが分かるなんて良いセンスしてるじゃない」
「おま、散々脅しといてよく言うぜ……ははは」
思わず吹き出したソラは差し伸べられた手を握り、満面の笑みで優華の握手に応える。さっきまでの威圧的な迫力を微塵も感じさせない、朗らかな笑顔で彼女も応えてくれた。
「俺は不知火 ソラ。ここまで運んでくれたお礼も言ってなかったよな……ありがとな、橘」
【血統持ち】という素性を話したうえで、それでも優華は仲良くなりたいと歩み寄ってきてくれている。そんな相手を嫌うことなんて出来るはずがない。ソラは優華の豪胆な性格に感服し、むしろ格好良さすら感じてしまう。
「どういたしまして。ムートちゃんから聞いてた通り、良い人そうで良かったわ。ルームメイトが不良とか安心して寝れないもの」
「その件に関しては不可抗力………ルームメイト?」
「そうよ?意味も無く素性を話すワケないじゃない。後からバレたりしたら面倒だし、ルームメイトには先に話しておこうと思っただけよ?」
ビシッ!とガラスが割れたような音が脳内に響き、ソラの身体が一気に硬直する。ルームメイト、つまり今日から三年間ずっと同じ部屋で暮らすという事である。日にちにすれば千九十五日くらい。夏休みとか冬休みとか正月とか色々含めればもっと短くなるがとにかく長い時間を共に寝て起きて過ごすという事だ。
年頃の男女が、同じ部屋で、三年間。何も起きないワケがなく――――
「いや何も起きさせねぇよ!?た、タイム!タイムアウトッ!!」
「あら、ソラはバスケが趣味なの?私は主に弓道とか……」
「聞けよ話を!?近所のガキんちょ共とやってたくらいですぅ!そんでもって日南先生ちょっといいッスか!」
「はひぃ!?な、なんでしょう!」
反応がないと思っていたらムートが窓際で日光浴しており、日南は伸びた猫みたいになっているムートをぽやぽやした目で眺めていた。声を掛ければ大きく肩を跳ね上げて恐る恐るといった様子でソラを見つめてくる。
パンク系な見た目とは裏腹に、小動物のような愛らしさだ。身長はかなり小さめ、制服を着れば生徒と間違えてしまうかもしれない。チラチラと視線を合わせたり背けたりしながら大きな目で上目遣いをしてくる日南にソラは心臓が高鳴るのを感じて、
「か、可愛いッスね……」
「あ、ありがとう……?」
「浮気したら許さないギャッ!!」
「あいだぁ!?」
後頭部にムートの噛みつきが炸裂、強靭な顎で本気噛みされて涙目で床を転げまわるがムートは一向に離してくれない。目の前で大惨事になっているソラを見かねて日南が助けに入り、無理やりムートを引き離すと頭から大量の出血が。
物理的に頭から血の気が引いて落ち着いたのか、立ち上がったソラは一つ咳払いをしてもう一度日南に問いかけた。
「け、健全な男女が同じ部屋で寝るのは良くないと思うんですけど、どう思いますか日南先生?部屋って変えられないんスか?」
「あ、頭から大出血してる人は健全とは言えないとお、思うよ……?あと、部屋の変更とかは無理だと思う……」
「あちし以外に現を抜かしてるからギャ。フン!」
日南が苦笑いで答え、ソラはがっくりと肩を落とす。日南の腕にすっぽりと収まったムートは拗ねた態度で鼻息を荒々しく吐いて、偉そうにふんぞり返っている。恨めし気にムートを見つめてもまるで無視という我儘っぷりだ。
「コントはその辺にしておいて、そろそろ次の段階に移行してもいい?」
「コントて……橘はいいのかよ、男の俺と一緒の部屋で」
「問題ないわ。問題が起きたら捻じ伏せる。はい終わり」
「もの凄く不穏な発言がすでに問題なんですけどぉ!」
ここに来てからツッコミ過ぎてそろそろ喉が枯れそうなソラは「これからずっとこんな感じなのか」と力無く項垂れる。魔術ではなく、まずは喉を鍛えることから始めようかと本気で思うくらいだ。
良い意味で退屈しなさそうだ、とソラは嘆息しながら小さく笑った。