第一章幕間 彼等の1ページ目
嵐が通り過ぎていって数週間が経った。ソラの身体は未だ軋む部分があるが快調、壊れ果てた訓練場はもうすぐで再建築が終わりそうで学院は順調に回復に向かっている。不幸中の幸いか、新生活が始まって間もなくに事件が発生したおかげで授業の遅れもすぐ取り戻せそうだと朝斗が胸を撫で下ろしていた。
何事もなく一週間が過ぎ去って、本日最後の授業である体育とは名ばかりの戦闘訓練の休憩中に風吹が駆け寄ってきた。壁に寄りかかって座るソラの元へ体育館履きのスキール音を鳴らして、駆けてくる体操服姿の風吹があらゆる意味で眩しい。
短パンのせいで足の長さがより強調されており、跳ねる髪からはフェロモンでも出ているのかと思うほど良い香りを撒き散らし、男女関わらず振り向いては駆け寄っていく先のソラを見て盛大に舌打ちをかました。
「ソラ、はいドリンク」
「お、おう……ありがとう。でもわざわざ持ってこなくても」
「ふふ、僕が渡したかったんだよ。ロレナと違って運動は苦手だから、こうやって皆のお手伝いしてる方が楽しいんだ」
可愛らしく笑う風吹に一瞬だけ心臓が高鳴り、「だが男だ」と呟けば一瞬にして冷静になり真顔になった。エロに耐性があっても、好きなのは女性なのである。
風吹がすっかり馴染んでいるのはお調子者の神楽のおかげだ。授業が再開してから転校生よろしく改めて風吹が挨拶したところ、最初はぎこちなかった風吹も神楽が色々とさりげないフォローをしたおかげと、その見た目と性格によって瞬く間にクラスのアイドルになったのである。
誰にでも優しく温和なのだが、神楽や優華、特にソラとは常に一緒にいるようなポジションに落ち着いているせいか周りのファン達からの態度が結構厳しい。
今も正に「なんでお前が風吹ちゃんに懐かれてんだよ」みたいな嫉妬の視線が突き刺さって痛い。そんな視線を向けている奴等の全員が風吹を男だと知らないのだからある意味では気の毒だ。気の毒なのは自分もか、とソラは自嘲気味に苦笑いを浮かべる。
「どうせなら涼しくなるような冷たい目線の方が気が楽なんだよな……どうすりゃいいのか分かんねぇよ」
「なら肝が冷えることをしようか赤いの」
「どぅわぁっ!?」
いつの間にか真横に忍び寄っていた神楽に驚いてドリンクを落としかけ、慌てて風吹がフォローで受け止める。その様を見てケラケラと笑う神楽はソラから離れ、人差し指を立てるとチョイチョイと指で手招きした。
見計らったかのように人のいない部分に立つとソラと向き合い、指を鳴らして軽く身体をほぐし始める。
「基礎訓練ばっかりじゃスリルが足りないじゃん?つーわけで模擬戦でもヤろうぜ赤いの。負けた方がメシ奢りってことで」
「もちろん魔術はナシだよな?」
「お兄さんもそこまで鬼畜じゃねぇって。赤いのは加護ナシ、文字通りのタイマンってやつ?きゃーコワイ!やっぱりヤンキーだわこの赤いの!」
「急に矛先捻じ曲げんなぁ!俺は何も悪くねぇじゃん!?」
ツッコミは無視され、わらわらと集まってきた観客達が何故かヒートアップして叫び声を上げているのは、クラスのアイドル風吹に懐かれているソラが相手だからだろう。
それとは別の要因もある。一組だけに留まらず、戦闘訓練だけは全一年生の中でもトップの成績を誇るソラと神楽の模擬戦だからだ。尚、他の教科は優華がほぼトップにおりギリギリ赤点を免れている二人でもある。
心配そうに二人の間で視線が彷徨う風吹を尻目に、軽く屈伸したソラは全身から力を抜くと構えた。右手を後ろに、距離感を潰す為と防御用に左手を前へ、腰を落とした半身は攻撃範囲を狭める。
対して、姿勢を正した神楽はあくまでも自然体で軽く半身になり両手で拳を握ると柔道のような構えを取った。神楽曰く、「ありとあらゆる護身術と武術を混合した寄せ集めの真似事」との事だが、ソラはこの武術を一度だけ見た事がある。
世界で一番有名なかの名探偵、シャーロックホームズが使っていたとされる格闘技「バリツ」から名を貰ったという武術、バーテイツ。とある肉屋のおっちゃんが遊びで使っていた武術だ。
「お前、ものすげぇやりづらいから苦手なんだよな……」
「赤いのビビってるぅ、ヘイヘイヘイ」
「ピッチャー返し喰らわせてやろうかこんにゃろう」
息を吸い、ゆっくりと吐き出して身体中を引き締めると、ピンと張り詰めた一本の糸のように一切ブレることなくソラの身体が止まる。一流の武闘家は構えだけで空気を変えると言うが、たかだか十五歳程度のソラからそれを感じた神楽はニヤリと笑みを浮かべる。
全くもって不可解だ。どれだけの鍛錬を積んだのか、またどこでそんな経験をしたのか。神楽にとって知れば知るほど謎が深まる赤髪の青年は最高のパートナーと言っても過言ではない。
肌のザワつく感覚をその場の全員が感じ取り、先程までの喧騒が嘘のように静まり返った。
「いつでもいいぜ、カモァン」
「じゃあ遠慮なく」
溶けたように力を抜いたソラは沈んだ身体を弾き出した。脱力からの踏み込みは初速から最速を生み出し、水のように流れる身体は神楽の側面から拳を撃ち込んだ。ゴッ!と鈍い音を響かせて、前腕で受けた神楽は頬に冷や汗を走らせつつもその腕を巻き取り沈み込むと背負い投げの体勢に入る。瞬時に理解したソラは手首を回して自ら跳ね神楽の正面に着地、互いに腕を掴まれたままの攻防の応酬が続き、最後の膝蹴りは同じく神楽の足に防がれて弾き飛ばされる。
ふぅ、と息を吸ったソラに間髪入れずに突っ込んだ神楽が独特のフットワークで迫る。ボクシングスタイルに切り替わった神楽のジャブを捌きつつ、攻撃のラインを予測してそこへ割り込む。巻き付くような弾きと共に胴体へと掌底を叩き込み、
「ゴホッ、やるねぇ赤いの……!」
酸素を吐き出した神楽の顔面に渾身の一撃。神楽は予測していたその攻撃に合わせてクロスカウンターを放った――――それを嘲笑うように身を翻したソラは懐に潜り込むと靠撃による当身、砲弾のような一撃が神楽を吹き飛ばす。
「ほんっとに、やりづれぇ……!」
「コッチの台詞だ赤いの、この馬鹿力め……!」
滑るように受け身を取った神楽が咳き込みながら笑みを浮かべた。ソラがやりづらいと言ってる理由は、神楽がとにかく巧いからだ。速いでも強いでもなく、巧い。今の一撃もインパクトの瞬間に身体を浮かせた事で衝撃を和らげたのだ。それでもソラの身体能力が僅かに上回り、ある程度のダメージが入った神楽は口から零れた血を拭い目の色を変えて本気の攻撃態勢に入る。
足を開き、何かを背負うように身を沈めた神楽は地面に手を付く低い姿勢を取ると豹を思わせる重厚な気配を漂わせた。
ソラとは違う、攻撃的な気配だ。正に獣を相手取ったかのような緊張感が周囲にまで広がり、二人を囲んでいた生徒達が距離を取る為に後退していく。
「ガキのじゃれ合いにしちゃあ、ちと派手過ぎるなオイ」
「お、おっちゃん!?いでっ!」
「後で説教だバカ息子、ついでにあのガキもな」
突然、割烹着姿のジゥが介入するとゴツン!とソラの頭に拳骨が落ちた。しかし一度目の色を変えた神楽は止まらない。止まらないと知っているジゥが懐からタバコを取り出すと一本口に咥え、ライターを取り出した。それを隙と見た次の瞬間、豹がその牙を剝く。
「若いってのは逸っていけねぇな。あからさまな隙に噛み付くんじゃねぇ」
「お……っ?」
瞬く間だった。先程までの遊びとは違う、神楽の本気の攻撃はソラでも躱せるか分からないの瞬足。傍目で見た状態からは右手で攻撃したのか左手で攻撃したのかも分からない無形の型は、次の瞬間にはジゥの後ろ側に倒れていたのだ。
周りの生徒達がザワめく中、しっかり冷や水を浴びせられた神楽とソラは面倒そうに頭を掻くジゥに目を向ける。
「わざとらしい気配で誘いやがって……ただの肉屋のおっさんに何を期待してんだ」
「ちぇ、お兄さんもそれなりに自信あったんだけどなぁ……ちなみに学院内で煙草吸うと鬼が飛んでくるから危ないゾ☆」
「あん?」
あてがったライターを口元から離し、視線を下げれば神楽の手元には一本の煙草が摘ままれていた。それはジゥが咥えていた筈の物で、楽しそうに笑みを零すとライターをしまう。
ソラが神楽を起こすと二人して頷きあい、笑みを浮かべてジゥへと構えた。拮抗した相手ではなく、遥かな高みにいる強敵に挑むのもまた心が躍る物だ。
「オイオイ、俺ぁ教員じゃねぇんだぞ……たまたま仕入れに来ただけなんだが」
「まぁまぁ、久しぶりに組手してくれよおっちゃん」
「それともおっさんだからギックリ腰が怖いのかい?負けても歳のせいって事にしとくから安心してくれよ」
ビキッ、と青筋がいきり立ったジゥは三角巾とエプロンを外した。煽り上手の神楽に見事に乗せられて、ゴキゴキと首を鳴らしたジゥが手首を曲げて挑発を返してくる。
ごくりと生唾を飲み込んだソラは一切構えないジゥに意識を集中させた。ロレナや咲夜、朝斗にすら感じ取れていた強者特有の空気、それが無いという異常。気配というものを完全に偽る目の前の肉屋の親父は余りにも歪過ぎて、改めて恐怖を覚える。
「煽っておいてアレだけど、この親父めちゃくちゃヤベェだろ赤いの」
「あぁ、多分……橘先生と同じくらい強いと思う。一発も当てたことねぇし」
「なんだ、ビビったのかガキ共。やめとくか?」
親父らしいニヒルな笑みで煽り返され、今度は二人が眉をヒクつかせた。覚悟を決めて足に力を込め踏み込もうとした瞬間、
「いい加減にしなよ、君達?」
轟ッ!と暴風が吹き荒れた。悲鳴に似たどよめきが体育館の中に広がり、あってはならない竜巻が二人の背後に出現するとその膨大な魔力の塊を目の当たりにしたジゥが青ざめる。恐る恐る背後に振り返った二人が見たものは、竜巻を従えて静かに怒る風吹だった。
「神楽くん、怪我したのにまだ続ける気なのかな?ソラもまだ完全には治ってないよね?それなのに誰彼構わず喧嘩売って、そんなに血の気が多いのなら少し抜いてあげようか」
ニッコリと笑う風吹の背後で竜巻に巻き込まれた木の葉が切り裂かれた。その様を見て顔を青くしていく神楽とソラの隙を見てこっそりとジゥが退却し、戦う相手すら失った二人が慌てて風吹に向き合うと弁明を始める。
「ご、ごめんなさい……ほら、強い人の胸を借りるのは男の性っていうか、なんというか」
「そんなに怒ると可愛い顔が台無しだゾ風吹ちゃん、深呼吸して一旦落ち着こうな?ほらヒッヒッフー、ヒッヒッフー」
「この状況でよくふざけられるなお前!?あっ、待ってマジで竜巻構えないで、加護ナシでそれはヤバ……あーーーーーーーーっ!!」
かくして、男達の熱き戦いは舞台に立つことすら出来ずに幕を閉じた。授業後に騒ぎを起こした張本人の二人は朝斗の前に連行され、お説教が始まったのは言うまでもない。
そして、説教されている神楽とソラを待つのは二人と一匹。風吹と優華はムートとじゃれ合いながら教室で談笑していた。
「むふふん、もっと撫でるがいいギャ!お前は中々良いヤツだギャ風吹!」
「ふふ、ありがとう。ムートちゃんも鱗ツヤツヤで偉いねぇ」
「毎日ちゃんと洗ってるからギャ!偉大なる龍であるあちしは身だしなみにも気を抜かないのギャ!」
「そうだねぇ、偉い偉い」
ニコニコと笑顔で撫で続ける風吹と、風吹の膝の上で上機嫌なムートが自信満々に言えばこれも笑顔で肯定される。赤子をあやすような対応をされている事に気付いていない、というよりは意味が分かっていないムートはべた褒めしてくれる風吹が大層気に入ったようで、ソラがいないと風吹の方へとくっ付くようになった。
それを恨めしそうに、ハンカチを咥えて羨ましそうに見つめる少女が一人。
「ぐぎぎぎぎ……っ!」
「えっと……優華ちゃん、撫でる?」
「ギャ~……?」
「もちろん!!」
嫌そうにジト目で睨むムートに負けじと声を張り上げた優華は噛んでいたハンカチをポケットにしまうと嬉々として風吹達に近付く。大好物を前にした肉食獣のようなギラギラした目と卑猥な指の動きで詰め寄られてたじろいだムートが縋るように風吹に密着する。正に大好物のムートを目の前にしてるのだから仕方ない、とはいえ傍から見れば完全に変態である。
「はい、よしよし~」
「違う、そうじゃない!!!」
「えっ?」
ムートを撫でられると思っていたら風吹に撫でられた優華は見た事もないような顔で叫ぶと崩れ落ちた。女子らしからぬ体勢で悔しさを現わしたその姿で床を殴りつけると、
「私が!撫でて欲しいんじゃないの!私が!ムートちゃんをナデナデスリスリしたいの!!あわよくば人型のムートちゃんをッ!!」
「き、気持ち悪いギャ……」
むせび泣きながら血を吐くような告白に本気で引いたムートは身の危険を感じたのか、小さな羽を羽ばたかせて窓から飛んで行ってしまった。その後ろ姿を求めて手を伸ばした優華と、どうしたらいいのか分からない風吹だけが教室に取り残される。
例えるならば、猫好きの人ほど猫が寄ってこない現象だろうか。異常な好意を見せる優華に苦笑いしながら、風吹はふと思った事を口にしてみる。
「優華ちゃんは本当にムートちゃんが好きなんだね。どうして?」
「うぐっ、純粋な目で真っ直ぐに突いてくるわね貴方……普通、そういうのは聞きづらいでしょ」
「そうなの?周りの人から似たようなこと、僕は結構聞かれるよ?」
首を傾げながらあっけらかんと答えた風吹に優華は再び言葉を詰まらせた。あの事件以降、風吹の加護がかの有名な西風の神ゼピュロスの物だと判明したせいで質問攻めにあっていた風吹を知っているからだ。
風属性の加護、それ単体でなら加護としてはありふれている。風の精霊シルフや樹精霊、日本で言えば天狗や鎌鼬など風にまつわるものは世界中で多く見られるのだ。加護という特殊な力の中でも広く知れ渡り、一般的とも言えるだろう。
しかし、風吹の持つ加護は神の加護だ。その汎用性は大きく、その気になれば一日中宙に浮いていられると本人が言っていたのを聞いた。
風を生み出し、束ね、操り、武器と化すゼピュロスの加護は同じ風属性の加護でも最上級に位置する。そして何より、ロレナの物かと思っていた膨大な魔力量は風吹自身の物であったのだから尚更驚きだ。正しく、魔術師の金の卵と呼べる存在である。となれば魔術師の性質上、質問攻めにされるのは自明の理だ。
「……例えば?」
「どういう人が好き?とか、種族違っても好きになれる?とか、ソラと神楽君ならどっちが好き?とか、今日の下着何色?とか」
「これだから魔術師ってやつは…………ちょっと待ちなさい、最後の質問なによ?」
「下着の色?今日は黒だけど……」
「だからそうじゃない!!!」
友人が純真無垢過ぎてツライ。とライトノベルのタイトルのような感想を抱いて戸惑うことなど普通あるだろうか、いやない。よく分かっていない本人は項垂れる優華を心配そうにのぞき込むだけで、軽い変態に出会っていたなど微塵も気にしていないようだ。むしろ変態の見分けも付いてないのではないだろうか。
確かに、風吹の常識は随分と遅れている……というより、幼少期から成長していないのだ。外見は高校生、中身は小学校高学年くらいというギャップがある意味で魅力なのかもしれないがそれはそれ。このままでは変態の毒牙にかかってしまう。
友人として、それは見過ごせない。ていうか風吹も風吹でとても好みな顔立ちなので放っておきたくないのが優華の本音である。
「――――決めたわ」
「えっ?」
「風吹、私が貴方を教育してあげる。まずは……そこに座りなさい」
言われるがままに椅子に座ると優華が近付いてくる。近付いてくるので反射的に両手を広げて迎え入れる準備をすれば、「ゔっ」と息を詰まらせてまたも崩れ落ちてしまった。先程から気持ち悪いほど不審な挙動に最早どうすればいいのか分からない風吹は手を広げたまま首を傾げる。
「うぅっ、顔が良い上になにその反応……なんでこんな少女漫画みたいな人間が存在するのよぉ!」
「えっと、ありがとう……?」
少女漫画を愛読していた面食い少女、優華にクリーンヒットするらしい風吹はとりあえずお礼を言うと、ゴホンと咳払いした優華が気を取り直して立ち上がりノートを取り出し、一ペ-ジ目に大きな文字でタイトルをつける。
風吹に足りていないのは常識だが、特に男女間の情緒や距離感だろう。仮にも男女が同じ寮に入り混じっている学院であり、少なからず変態が潜んでいるかと思うと身の保全として覚えていかなければならない。風吹から手を出すことは万に一つもないだろうが、風吹が襲われた場合、最悪抵抗出来ないだろう。
「人間ノート……」
「手始めに、距離感を見つめなおしてみましょう。貴方は近過ぎるのよ……特にソラとか、すぐに手を繋いだり抱き合ったりするじゃない」
「そうなの?仲が良いならスキンシップは普通だって言われたんだけど……三年の白百合先輩に」
「学園で一番相談しちゃいけない先輩じゃないそれ……なんでよりによって本物に聞いたのよ」
「僕から聞いたんじゃなくて、神楽君が紹介してくれたんだ。人と仲良くなりたいなら白百合先輩に聞くのが一番だって」
「あのド変態……ッ!」
学院で有名な百合の伝道師、白百合先輩。彼女に捕まった少女は数知れず、ソラと優華が中庭で見たあの女性カップルも片方が白百合先輩である。透き通るような白い髪にお嬢様な立ち振る舞い、お姉様気質な性格によって学院の女子の憧れだとかなんとか。
兎にも角にも、良い意味でも悪い意味でも引っ掻き回してくれやがる神楽に苛立ちを募らせつつ優華は心を落ち着けるように大きな溜息を吐き出した。
「いい?私達学生は非常に多感な時期なの。正しい知識を持たないと間違いが起きてしまうこともあるわ」
「間違いって?」
「ま……ま、間違いは間違いよ!」
まさか性知識すらないのでは、と思い始めた優華はげんなりとした表情で肩を落とした。想像以上に長いお勉強になりそうだが、決めたからにはやり遂げなければ女が廃る。妙に男気がある優華は意気込んで話を進めるのであった。
「…………で、どういう状況?」
「あ、あああああなた男男男……その顔で男って男って……」
「なんか、僕に胸が無いのがショックだったみたいで……お疲れ様ソラ。大丈夫?ぎゅうってする?」
満面の笑みで両手を広げてスタンバイしている風吹に遠慮して、ソラは机に置かれたノートに注目する。「人間ノート」と書かれたそのノートを捲ると同時に顔を真っ赤にした優華がふんだくっていった。
状況がまるで分からないが、大方優華が要らぬ知識を吹き込もうとしていたのだろうと推測。この数週間で優華の事を部分的に危ない奴であると認識しているソラは頭の上のムートに呼びかける。
「ほら、ムート。風吹にあげたい物があるんだろ」
「ギャウ……ふ、風吹」
「うん?どうしたのムートちゃん」
ソラの頭の上から差し出された小さな手には、ムートの大好物のおやつであるクッキーがあった。首を傾げた風吹は一瞬の後理解して、笑顔で受け取ると恥ずかしさを隠すようにふんぞり返る。
「風吹はあちしの家来だギャ!これは正当な報酬なのギャ!」
「俺からも、ムートに構ってくれてありがとうな風吹。おかげで助かったぜ」
「…………ふふふっ、こちらこそ!」
何気ない日常、ただ笑って過ごしていただけの日々に感謝されるという温かい幸せ。意識が戻ってから初めてのありふれた感謝に、心が震えた風吹は思わずソラの胸に飛び込んだ。
ロレナの事を認めてくれて、友達だと言ってくれたからと言って引け目がなかったワケじゃなかった。彼等の優しさに報いようと気を張っていたのも事実だ。だけどそれでも、彼等は些細な事で感謝してくれて、風吹の存在をしっかりと認めて対等に扱ってくれる。
「ソラ、ありがとう」
「へっ?なにが?」
「ふふ、なんでもないよ。今日の晩御飯はジゥさん家のお肉使ってるんだって、早く行こうっ!」
急に上機嫌になった風吹に手を引かれて、ムートとソラが慌てて付いて行く。その様子を尻目に、ノートを脇に挟んだ優華は改めてページを開いた。
書かれている内容は、「友達といえど距離感を大事にする事」だ。だが、先程の彼等を見て無粋な事だと考えた優華はノートを閉じて、夕暮れの窓を見上げる。
「友達が出来たばっかりの子供に、アレコレ言うのは駄目よね」
「優華ちゃんも、早くおいで!」
「早くしないとムートが全部喰っちゃうぞ橘!」
「はいはい、今行くわよ」
人間ノート。このノートが埋まる頃には素敵な関係が築けているだろうと妙な確信を持って、優華は彼等の後を追った。何のことはない、ただの日常の一ページを胸に刻んで彼等は明るい未来を夢見て歩き出す。
まずは、腹ごしらえからだ。