第一章14話 風の吹く空
――――…
薄暗い闇の中に、一人の少女が居た。赤い燐光を纏うその少女は長い赤髪を床に垂らして座り込み、まるで夜空の星々を眺めるように上を見上げていた。その少女を認識したソラはようやく自分が傍に立っている事を理解して、同じように上を見上げる。
どこまでも続く薄い闇の向こうに、一つだけ輝く赤い星。隕石なのか流れ星なのか分からないがその星は赤い軌跡を残してゆっくり、ゆっくりと遥か上空から下へと降りていく。
「……暗い暗い空に、紅の星が廻る。あの軌跡は、かつてあった星達が紡いだ足跡なの」
どういう意味か聞こうと口を開くが、声は出ない。確かに喋っているのに、音として出ていかない声に驚きながら赤い少女に目を向けるが、少女は依然として上を見上げたまま呟くように語り始める。
「昔の空は、数は少ないけど色とりどりの星に囲まれて幸せそうだった。太陽のような眩しい星を抱えて、慈しみ、星と太陽が寄り添うように……」
どこか寂しそうに紡いだ少女は目を伏せる。代わりにソラが上を見上げれば、緑色に輝く星と黄色の小さな星が見えた。その周りには真っ白な小さな星がほんの少しだけ広がっていて、星空とはとても呼べたものじゃない。
「あなたは、どうかな?」
「――――」
ソラを見上げるように首を傾げた少女に目を合わせる。合わせた筈だったのに、少女の顔が見えない。口から上だけが暗く隠されていて、ソラは目を擦る。傍から見れば挙動不審にしか見えないだろう。そこに居るのに誰か認識できない無理解に謎の焦燥感を駆り立てられながら、声にならない声で少女に呼びかける。
少女が、儚げに笑った気がした。
「あなたは、どんな夜空を描くのかな」
――――…
意識が戻った、という感覚があった。目を開ける前から瞼の中で目を開けたような不思議な感覚に襲われながら、ソラはズレた感覚を戻すように目をゆっくりと開く。
鼻腔をくすぐるアルコール消毒液の臭い、ヒビ割れのような模様の天井。左には仕切られた薄緑色のカーテンがあり、その向こうから話し合うような声が聞こえる。
「あ、起きた……?」
ゾクリ、と耳に息が掛かった。甘い声色で鼓膜を撫でた声の方へと首を回せば、薄茶色の綺麗な瞳が飛び込んでくる。視線を下げれば制服に身を包んだ中性的な人物が隣に寝ている。
カーディガンは歪み、長い栗色の髪が淫らにシーツの上を散らばって、すらりと伸びた手足はソラの身体を抱き締めて端正な顔立ちがキスでもするのかというほど間近にあった。先程まで寝ていたのか、ほんのりと汗を掻いた額と上気した頬、熱に潤んだ瞳が煽情的で、耐性のあるはずのソラでさえもゴクリと唾を飲み込んでしまう。
「えっと、芦屋 風吹……?」
「風吹でいいよ。僕も君のこと……ソラって呼んでいいかな?」
「あ、あぁ……そりゃいいけど、なにコレ。どういう状況?」
首を向けただけで悲鳴を上げる筋肉、動かそうとした足は鉛のように重く、指を開くことすら億劫だ。それらを踏まえて、余りにも近すぎる距離感の風吹に問いかければきょとんとした表情のまま応えてくれた。
「君はあれから三日間、保健室で寝たきりだったんだ。日南先生によれば身体中の筋肉がボロボロ、特に右腕の骨にヒビが入ってて熱にもうなされていた。僕が看病させて貰っていたんだけど……」
「あー…なるほど、身体中バキバキで痛いワケだ。にしても近過ぎない?」
ギシッ、とベッドが軋んだ。柔らかく微笑んだ風吹が馬乗りになり、ソラの腰の部分に乗った風吹はソラの首元に手を掛ける。いつの間にか着替えさせられていたシャツが、ゆっくりと一つ一つ丁寧に外されていく。
突然の展開に頭が回らないソラは疑問符を大量に浮かべて、脱がしていく風吹を見上げるが、微笑むだけだ。加えて抵抗しようにも身体中が悲鳴を上げていて出来ない。
「ロレナの事も、僕自身のことも……全部含めて、これは僕の気持ちだ。受け取ってほしい」
はっ、と風吹の熱い吐息が零れる。シャツがはだけられソラの筋肉質な身体が汗で滲み、肌を滑り落ちていく。風吹がカーディガンを脱ぎ捨てれば、長い髪が巻き上げられて良い匂いが充満した。ソラと同じように汗で滲んだシャツは透けており肌色が薄っすらと覗かれる。
いくら耐性があろうとも、耐性はあくまでも普通より耐えられるだけであって許容量を超えればパンクするのである。今のソラのように。
「え、えっ、あの、まてまてまて、なんでいきなり脱ぎだしとるん落ち着けってそういうのはまだ早いっていうか、俺にはムートが……」
「んっ…僕じゃ、イヤかな?」
白くて細い指が腹筋をなぞり、落ちてきた髪を耳に掛けた風吹が上から覗き込んできた。非常に整った顔立ちと、桜色の唇が形を変えるだけで目を奪われてしまう。
何をしようとしているのか、そこは思春期真っ盛りの男なので当然理解している。ナニをしようとしているのだと分かっていても身体が動かないので抵抗出来ず、止める事はできない。
まずいまずい非常にまずい、いやまずいどころか極上なのだろうがそうではなく状況が危ないというかまさか保健室でこんな事になるとは思っていなかった。
どうしようどうしようどうしよう、と必死に脳みそを回転させていると風吹が動いた。
「寝ている時の相手はシていたけど、起きている時はちょっと……恥ずかしいね」
「寝てる時もシたんどぇすか!?」
「苦しそうだったから……その、恥ずかしいから、目を瞑ってくれないかな?」
つい反射的に目を閉じてしまい、ソラは後悔する。これではもう受け入れたようなものではないか。
だがしかし子供とはいずれ大人になるもの。それが早いか遅いかの違いだ。大人への階段を上らせてくれるのが風吹のような超美人なのであれば男としては本望だし、据え膳食わぬは男の恥とも言う。そう考えればこれは仕方ないのだ。風吹はお礼と言っていたのだから甘んじて身を委ねることもやぶさかではなく……
「じゃあ、いくよ……?」
「ひゃ、ひゃいぃ……!」
頭の中がピンク色に染まっていき、風吹の手がソラの腰当たりに触れる。これから起こる事を想像して緊張で身体を強張らせていると、シャッ!とカーテンの開く音がした。思わず目を開けて見れば、ジト目で睨んでいる優華とその奥に笑いを必死で堪えている神楽がいる。
「…………貴方達、さっきからナニしてんのよ」
「え、いや、その……えっと」
きょとんとした顔で首を傾げた風吹の手にはタオルが握られており、風吹と優華を交互に見たソラはようやく理解する。勝手に盛り上がって妄想していただけで、風吹は汗を拭いてくれようとしていたのだと。
「ぷくく……鼻の下伸びてんぞ赤いの。イイことされるとでも思ったのかい?これだから思春期の学生は怖いわー、あんな事こんな事いっぱいする気だったんですかぁ??」
「ばっ、ち、ちげぇよ!別にそんなこと考えて……」
「イイこと……?誰かに身体を拭いてもらうのは気持ち良いよね?あっ、せっかく起きれたんだし、タオルで拭くよりもお風呂に入った方が良かったかな?」
ソラの額をタオルで拭いながらぽやぽやとした雰囲気で言い切った風吹に、全員が呆然と一時停止する。きょとんとした顔で三人を見渡す風吹に毒気を抜かれて、大きな溜息を吐いたソラは上から降りるように促し、痛む身体を引きずるようにベッドの端に座った。
「色々聞きたいことがあるんだけど、何から聞けばいいのか……」
「大丈夫よ、文字通り嵐は去ったから。それに時間もたっぷりあるわ」
「続きは食事しながら」と言って、優華と神楽が背を向ける。申し訳なさそうに目を伏せる風吹に手を引かれて立ち上がり、身支度を整えて貰うと肩を借りて軋む身体で歩き出した。全身を襲うのは怪我などの痛みではなく、酷く重い筋肉痛のようなものだ。骨にヒビが入っているとまで言われた右腕だが特に異常はなく、包帯すら巻いていないのは何故だか分からない。
「大丈夫?どこか痛むところはないかな?おんぶしよっか?」
「おんぶは結構です。全身が筋肉痛みたいで重い……ってことくらいかな。右腕もヒビ入ってる割には全然痛くもないし……」
「それは……あとで説明するよ。それよりも君は怪我人なんだ、もっと僕に身体を預けてくれてもいいんだよ?ほらほら」
「お、おう……んえっ?」
ぐいっ!と身体を引き寄せられて密着すれば、朗らかな笑みで顔を近付けてきた。まるで性別の壁がないようなスキンシップに驚きながら、どっちにしろまともに動けないソラは身を委ねることにする。
見た目は中性的だが幼さのある超が付く美少女。日南先生とはまた違う穏やかなカワイイ系と言ったところか。ソラよりも背が低いのに身長が高く見えるのは足が長いモデル体型だからだろう。ちょっとだけ羨ましいと思うソラである。
保健室の外で待っていた神楽と優華の二人と合流して、道すがらに眠っていた事の顛末を聞いた。どうやら、無事収束に向かっているようだが事後処理に苦戦しているようだ。
「訓練場は粉々、学院も暴風に煽られて少しばかりだけど被害があったらしいわ。修復業者や事後処理、学会とかへの報告……まぁ大人の事情ってヤツでニ週間くらい学院はお休みになったのよ」
「皆には申し訳ないことしたよね。特に、君達には……」
神楽曰く、今回の件については例の二人組による計画的犯行として、風吹は被害者側にカウントされているらしい。ロレナに身体の主導権を渡している間の記憶が曖昧で、本人によると三年前からそんな状態だったという。
学院側としては建前上、監察処分という形で終わっている。膨大な魔力を内包していたロレナの魂を受け入れられる器であり、風の神ゼピュロスの加護も健在である風吹は学院側としても手放すには惜しい存在だからだそうだ。
唯一、橘 咲夜だけは「精神が軟弱すぎる」と北部学院に送ろうとしていたらしいが教師陣が全力で止めて事なきを得たのだとか。
「風吹ちゃんのせいじゃないって何度も言ったろうに……可愛い顔が台無しだゾ?優華ちゃんを見習えよ、寮長にトドメ刺したのに平然としてんだぜ?」
「刺してないわよ!……出血のワリに傷が全部浅かったのが幸いね。ロレナが踏みとどまってくれたおかげよ」
茶化してフォローしてくれた神楽に風吹は微笑み、とばっちりに合った優華が嘆息する。そして一番身体を張った我らが寮長であるウィルは現在この境界内にはいない。現行世界の方の病院に搬送されたらしいのだ。
ソラと風吹が運び込まれた時には既に向かっていたらしく、疲弊して戻ってくればボロボロの生徒達が増えていて日南は悲鳴を上げたらしい。
それでもキッチリと治療してくれたのだから、日南には頭が上がらない。今度何かお礼をしなければ……と考えていたら神楽が訝し気にソラ達を眺めていた。
「ところで、赤いの」
「言いたい事は分かる。だけど言うな……頼むから言わないでくれ」
「お姫様だっこされるのってどんな気分だい?ねぇねぇ、今どんな気持ち?ねぇねぇ」
「言うな!煽るなぁ!!」
「わわっ、暴れちゃダメだよ」
いつの間にやら姫抱きにされていたソラが羞恥にもがく。手練手管というべきか、それとも元来の技なのか分からないが気付けば女の子のように扱われていた。落としかけた風吹が慌てて持ち直せば端正な顔が頬を膨らませて寄せられ、コツンと額と額が重なり合う。
「めっ、だよ。いっぱい頑張ったんだから、身体を労わってあげないと」
そう言って可愛い笑顔を浮かべた風吹に、ソラは無意識に耳が赤くなっていく。
例えるならば、超が付く世話焼きお姉ちゃんと女子が夢見る王子様を掛け合わせたような意味不明なポテンシャル。天然の人タラシだ。タラシた後にどこまでも駄目にしてしまうほどの包容力を持っているのだから手に負えない。
「君が治るまで、全てを僕に任せて……ね?ちゃんとお世話してあげるから」
「ば、ばぶぅ……」
「ふふっ、甘えたくなっちゃったのかな?後でお風呂入ろうね」
冗談で赤ちゃん言葉を使ってみれば、満面の笑みで包み込んでくれる風吹に逆に負い目を感じさせられてしまい大人しくする事にした。それを眺めていた優華の心底気持ち悪い物を見る目に心を抉られながら、やっとの思いで食堂へと辿り着く。
食堂はやはりというべきか、閑散としていた。全クラスの一年生が丸ごと入る巨大な食堂も今は閑古鳥が鳴きそうなほど空いており、奥の方に一人と仕入れ業者の人が食堂のおばちゃんと談笑している。
「おっ、功労者組がお揃いだな」
「朝斗先生!」
箸を振って手招きされ、促されるまま相席すると丁度食べ終わったのかラーメンどんぶりに箸を置き、朝斗は紙パックのいちごオレに口を付ける。意味不明な組み合わせにソラ達がげんなりしていると、ドンッ!と唐突にテーブルの上に大量の肉料理が置かれた。
人数分の分厚いステーキに唐揚げやハンバーグ、テーブルを埋め尽くさん限りの肉料理が次々に置かれていき、見覚えのある光景にソラはもしかしてと勢い良く顔をあげる。
「お、おっちゃん!?」
「おう、元気にしてたかソラ坊!相変わらず良くボロボロになんなぁオマエは」
黒髪の短髪、武骨な体格とヒゲの生えた強面にサングラス、明らかにヤの付く人が可愛いウサギ柄エプロンを身に纏って痛快な笑みを見せる。ソラがお世話になっていた肉屋の店主、咲 就。見た目に反して人情家の熱い人である。
本来なら保護者であろうとも学院に立ち入ることはできないのが学院のルールだが、どうして此処にいるのだろうか。
「生徒が怪我したんだから親御さんに連絡入れるのが筋だろ?そしたらジゥさんが……」
「あのバカは肉喰わせておきゃあなんとかなります、ってな。何なら肉の仕入れはどうだって交渉したら、喜んで引き受けてくれたぜ」
「息子の怪我で商売すんなよ!?」
ニヤリとニヒルな笑みを浮かべる商魂逞しい親父は肉料理を並べ終わると、トレイを脇に挟んでポンッ、とソラの頭を撫でた。思わず見上げれば安堵したような表情で厨房の方へと去っていってしまう。
口ではああ言っていても、やはり心配を掛けてしまったようだ。不甲斐なさを噛み締めてソラは目を伏せると、首を傾げた風吹がジゥとソラを交互に見て、
「親子なのに、あんまり似てないんだね。あっ、気を悪くしたらごめんね?」
「あー……いや、別にいいんだ。そう思うのも無理ないし」
「なにやらワケ有りって感じだな赤いの。まぁ見た目通りなら察しはつくけどよ」
そう言いつつ踏み込んでこないのは神楽の優しさだろうか。チラリと後ろを向けば食堂のおばちゃんと談笑しているジゥがジェスチャーで「喰え喰え」と煽ってくる。それを見て、ナイフとフォークを持ったソラは「いただきます」と呟いて手を付け始めた。
久しぶりの肉処理、しかもソラにとっては実家の味だ。肉厚のソレを噛み締めれば流した血が戻ってくるような充足感に満たされ、口の中を幸せが蹂躙していく。余りにも旨そうに食べるソラに釣られて皆が「いただきます」と声を上げると、直後に驚愕の声が響き渡った。
「やだ、なにコレ……口の中でとろける!」
「本当だ……こっちはお肉の味がすっごい詰まってて美味しい……!」
「やふぇにゃこるぇ、てふぁとまらへぇ」
「飲み込んでから喋れぇ!」
ソラのツッコミをスルーして口一杯に肉を頬張った神楽はジゥにサムズアップ。歯が輝いたような笑顔で応えたジゥもサムズアップして応えると鉢巻きをして厨房に立ち追加の肉料理を焼き始める。
「そういや先生、ムート知らないッスか?起きたら傍にいなかったんスけど……ていうか風吹が居てめちゃくちゃビビッた」
「いつも誰かと寝てるって?食事中にえっちな事言うなよ、赤いの」
「言い方ぁ!変な解釈して言い方変えんな!」
「ほら、口元汚れちゃってるよソラ。せっかちなんだからもう」
「むがもごむぐっ」
落ち着かない食卓に笑みを零した朝斗は咥えていたストローを離すと、くいっと親指を自分の隣に向ける。訝し気に覗き込めばとテーブルの端っこで屍のようになって突っ伏しているムートがいた。何故か人型になって。呪詛のように呟かれる言葉と呪いにでも掛かったような状態に思わず吹き出したソラは慌ててムートに駆け寄り、
「咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい咲夜コワい……もう悪さしないギャ、あちしは良い子になるギャ、だからもうお仕置きはイヤだギャ……」
「お前がぶっ倒れてから食堂の食い物を根こそぎ喰い尽くしやがってな、橘先生にコッテリ絞られてあのザマだ。まぁそのおかげで良質な肉の仕入れが決まったんだが」
「マジですんませんしたぁああああああっ!」
全力の土下座にビクッと身体を跳ね上げた朝斗は気まずそうに頭を掻いて目を泳がせる。大きな溜息を零して、「いいからどうにかしてやれ」と促すとソラがムートを抱えて元の席に戻り、いたたまれなくなった皆がムートの目の前に料理をズラしていく。
もそもそとゆっくり食べ始めたムートに温かい目を向けて、流れを締めるようにパン!と朝斗が手を叩いて注目を集める。
「当事者のお前達には説明の義務があるよな?正直、魔女との話は東雲と橘から聞いた情報で俺達教師は納得することにした」
神楽と優華が話した内容としてはこうだ。数年前から肉体を奪われ、あの二人組の男と魔女を含めた三人が計画的襲撃を行った。辛うじて意識が残っていた風吹は最後の力を振り絞って自身の加護であるゼピュロスに助けを求め、駆け付けたがゼピュロスもまた魔女に攻撃され逃れた先に居たソラ達に助力を求めた。長い時間、肉体の主導権を奪われていた上にそれでも懸命に抵抗してみせた事により、風吹の意思は介在していないと判断されたのだ。
あくまでも被害者である、と主張して事を収めるのが一番良いと風吹も分かっているからこそ、こうして上手く演技をしてくれた。本音で言えば、未だにロレナの事を想っている筈なのに。
「それはそれで一件落着という事で、もっとデカイ問題がある」
「Black.Box……あの二人組の事ですよね」
「……っ」
机の下で拳を握り締めたソラを見て、風吹が目を伏せる。心を開いたロレナを殺し、どこまでも冷めきった態度をしていた男を思い出して悔しさに打ち震える。
何も出来なかった。否、させて貰えなかったのだ。魔装を纏った状態ですら赤子の手をひねるように簡単に、圧倒的な実力差で捻じ伏せられた。魔術は論外、恐らく体術ですら勝てるイメージが湧いてこない。
「金髪の方は見たことも無い魔術で移動してきました。転移の魔術……だとしても、そんな高等魔術をあんな簡単に使えるのはおかしいです」
「俺達も転移は確認してる。学院の門ように、特定の場所を繋げる術式を持っていたとしてもポンポン使えていい術式じゃない。それこそ魔神レベルか、特殊なカラクリがあるだろうな。神楽、お前はどうだ?」
あぐっ、と肉を頬張った神楽は不意の問いかけに片目を瞑った。咀嚼しながらあらぬ方向を見て、記憶の海を遡っていく神楽は飲み込むと同時にフォークを振って答える。
「お兄さんの情報網でもあの組織の事は全くわからないゾ。つまりは手詰まり……と思いきや、奴等は情報をくれたんだなぁ」
「……お前、こないだはそんな事言ってなかったよな。また俺達に高く売る気か?」
ロレナと激突する前、神楽自身が言っていた教師陣の契約者とは朝斗の事だろうか。鋭い視線で神楽を見るも、何食わぬ顔で最後の一切れを咀嚼する神楽は充分に味わったあと飲み込んで、満足気な息を吐き出しながら笑う。
「今この状況だからこそ条件が揃ったから言うんだ。【四聖】の橘 咲夜がいないっていう条件をクリアしたから出てきた追加要素ってワケ」
神楽の視線が周囲を走る。何を見ているのか分からないがすぐにあっけらかんとした態度に切り替えた神楽は見計らったように風吹が手拭いで拭おうとしてくるので丁重にお断りし、深いため息を吐いた朝斗を見下ろすようにふんぞり返る。
「その前に、先生には敬語を使っとけ東雲。俺はともかく他の先生にはな」
「あの一大事に、一人も駆け付けなかった無能教師達に敬語は使えないなぁ。だって敬語は敬う人に使うもんだろう?なぁセンセー?」
「言い訳みたいで心苦しいんだが……駆け付けたくても教師陣は全員あの二人組とやりあってる真っ最中だったんだなコレが」
思わぬ所で奮闘していたという朝斗をよく見てみれば、確かに傷だらけだった。今は新品の白衣で身を隠しているが、その下に覗き見えるのは痛々しい包帯や傷の跡だ。本人は自身が傷付いている事はどうでもいいのか、「それで?」と改めて神楽に続きを促した。素直な態度を気に入ったのか神楽はニヤリと笑うと、テーブルに肘をついてちらりとソラを流し見る。
「んじゃま、気兼ねなく。あの二人組の正体……片方は、現代の【剣聖】だ」
全員が驚愕に目を見開く中、言い放った神楽本人はというと自分の言葉に不服なのか眉間に皺を寄せていた。言葉と表情の合っていない神楽を訝し気に見れば、頭の中で整理が終わったのかゆっくりと根拠となる理由を告げる。
「まず、魔力とはつまり何らかのエネルギー、動力源だ。炎に魔力を持たせれば燃料となり燃え続け、水に魔力を持たせれば流れを自由に変え、土に魔力を持たせれば形を作り、風に魔力を持たせれば好きな場所に吹かせる事ができる」
「俺でも知ってる基礎の基礎だな。それがどうしたんだ?」
「むしろお前さんはそれくらいしか知らないんじゃないか赤いの?それはそれとして、魔術の常識ってのは幾星霜変わらない。ただし一部の極致に至った者、伝説の武具なんかは常識に当てはまらない」
サラリと罵倒されたソラは神楽の言葉通り、それくらいしか知らない。知らないので素直にしゅんとしていたら風吹に頭を撫でられて慰められた。
一部の極致に至った者、という言葉に片目を瞑りながら神楽は人差し指を立てる。
「お兄さんが知ってる中だとまず一人は橘 咲夜。【拳王】とまで呼ばれた格闘術の極致はその拳で魔力を粉砕する究極の脳筋……」
「それ、橘先生には絶対言うんじゃないわよ。文字通り粉砕されるから」
「……お兄さん股間がヒュンってしたから次から気を付けるわ。そして二人目、さっき話した【剣聖】もその一人だが、こっちは伝説の武具の方だな。ちょっとしたコネで会った時にちょっかい出したら、見事に斬り捨てられちまった。『太陽の前に立ちしもの』ですら紙のように」
二人目を示すように中指も立てると、鋏のように開いたり閉じたりしている。つまりはそれほど容易く斬られたという事だ。神楽の言った名称はソラの守ってくれた盾であり、その強度は魔力が続けば如何なる物も弾き返すだろうと身を持って味わったのだが、それを斬り捨てる【剣聖】とはどれだけ規格外なのだろうか。
イマイチ分かっていないソラと風吹が簡素な声を上げると、優華が腕を組んで椅子に寄りかかって続ける。
「サキ・アーシェ・プルガシオン。伝説の剣を携えた世界最強の剣士って言われているわ。先代【剣聖】が捨て子だった彼女を救い、証である剣と共に正式に継承された今代の【剣聖】よ。使う魔術は基本的な光魔術で、治癒と強化……らしい」
「……らしい、の?」
「橘が言い淀むなんて珍しいじゃん。いつもスラスラと電子辞書みたいに出てく……ぐへぇっ!?」
肘で脇腹を突き刺されたソラが悲鳴を上げる。ただでさえ病み上がりというか死に体なのに容赦のない一撃は身体中に響き渡り、痛みに呻き声を上げるが周囲の人達は慣れたのか無視された。唯一風吹だけが慌てて様子を見てくれて、その良心にほろりと涙を流す。
どうやら他の皆はその理由を知っているようなのだが、無知なソラと知識の大半をロレナが保有していた風吹には分からない。一息ついて、優華は話を続ける。
「【剣聖】は代々、世界の均衡を保つ為に最前線へと送られるのよ。魔界に存在するのは友好的な亜人だけじゃない……むしろ悪意を持った悪魔や侵略思想の高い種族が半分は居る。それらを追い払う為に、単独で魔界へと召喚されるの」
「そ、そんな危ない事を一人で?」
「一人で成し遂げられるから【剣聖】なのよ、風吹。世界の調停者……バランサーの役割を担うが故に、ほとんどの年月を魔界で過ごすから彼女の事はほぼあやふやな状態で知れ渡っているの」
吐き捨てるように言い切った優華は口を曲げてそっぽを向いてしまった。彼女なりに知識への自信があったようだが、痛いところを突かれてヘソを曲げてしまったようだ。本当に痛い目にあったのはソラだが。その様子が面白いのか神楽がニヤニヤと笑みを浮かべながら、
「【剣聖】の証である剣、それはかつてブリテンを治めた誰もが知っている王の剣……聖剣エクスカリバー。アーサー王が湖の乙女から授かった、星々が紡いだとされる希望の剣だ。その性質はあらゆる物を切断する絶対両断、他にも水の上を走ったりとか色んなオプション満載のチート武器ってワケ」
「マジで存在するのかよ、そんな武器……」
「そりゃあお兄さんは一度見せて貰ってるからなぁ。ていうかレプリカとか玩具とか普通に出回ってるゾ?今代の【剣聖】は放浪癖があるらしくてなぁ、仕事の時以外は世界各地を点々としてるってよ。どっかで国が救われたらそこに居るかもな?」
「軽いな!?そんな簡単に国を救っちゃうとかどんだけスゲェんだよ!?」
それだけ規格外なんだよ、とケラケラ笑う神楽と頷く皆の姿に開いた口が塞がらない。正に生きる伝説、英雄と言われる存在だろう。尚更あの二人組の内の一人がその英雄だなんて思えない。本音を言えばそんな化け物じみた存在が相手だなんて思いたくないのだ。
だが、そもそも性別が違う。ソラが倒された相手は線は細かったが間違いなく男だった。発した声色も若々しく青年のソレだったのだから。
「さてさて、前置きはここまで……じゃあ何故あの男が【剣聖】なのか?それは……」
「――――サキ・アーシェ・プルガシオンから奪った聖剣を持っているからだ」
声が飛び掛かってきたような感覚に全員が入口の方へと目を向けた一瞬、ポンッと神楽の肩を叩く者がいた。くすんだ金髪を一纏めにした顔に傷のある長身の女性、【四聖】の一人である世界最強の教師――――橘 咲夜だ。
「(洒落にならねぇゾ……なんつう速さだ。認識すらさせて貰えねぇとか)」
「我々【四聖】しか知り得ない情報を持っている以上、貴様もサキの友人だろう。彼女は信用できる人間にしか口を割らないからな」
しかしペラペラと喋る神楽には苛立っているのか、肩を掴む手がミシミシと骨を軋ませる。激痛に顔を歪める神楽を見かねて、注意を引くように手を上げた朝斗が睨むように咲夜を見つめれば、数秒の視線の鍔迫り合いを咲夜から放棄した。ふん、と鼻を鳴らして神楽から離れ、背後のテーブルの椅子を引いてドッカリと座ると足を組み、「さぁ話せ」と言わんばかりにふんぞり返った咲夜に全員が気まずそうに顔をしかめる。
「おう、どうしたガキ共。急に静かになりやがって……ガキは元気なくらいが丁度い、い……」
気まずい雰囲気など露知らず、ジゥが満面の笑みで追加の肉料理をテーブルに置いた。良いタイミングでの介入にソラが心から感謝したのも束の間、ジゥは咲夜と目が合うと一瞬にして固まってしまった。咲夜も同じく、幽霊でも見たかのように目を見開いてジゥの顔を見つめ、数秒してようやく口を開く。
「咲 就……っ!貴様、どこをほっつき歩いているのかと思えば……っ!」
「ま、待て待て咲夜!話せば分かる!な?だから落ち着け……」
「そう言って貴様はまた逃げるだろう!今度こそ貴様の顔を踏み潰してくれる……っ!!」
言うが早く咲夜の長い足がジゥの顔面目掛けて振るわれるが、間一髪の所で避けたジゥがトレイを投げると上に振り上げられた足が角度を変えて振り下ろされ、投げられたトレイが真っ二つに焼き切れた。ひぃっ、と悲鳴を上げて一目散に逃げていくジゥを咲夜は鬼の形相で追っていってしまい、誰もいない学院を駆けずり回って徐々に悲鳴が遠のいていく。
「…………ソラ、助けなくていいの?」
「おっちゃんの遊び癖は知ってるからなぁ……自業自得ってやつだと思うから助けません」
「あの肉屋のおっさん、タダ者じゃねぇな……色んな意味で」
すっかり興が削がれてしまった場の空気に溜息を零して、朝斗が椅子を引いて立ち上がる。こちらに顔を向けながら煙草を吸う所作をしている事から、とりあえずは小休止といったところだろうか。意図を察した神楽が立ち上がり、朝斗の後を追って歩いていく。
追いかけようとしたソラに目線を投げた神楽はこめかみの所をトントンと叩く所作をした。恐らくは「頭の中を整理しておけ」ということだろう。確かに、ここまでの話からすると色々なと見えてきそうではある。
「あはは……皆物知りなんだね。僕にはちょっと難しかったよ」
「大丈夫、正直俺もチンプンカンプンだ」
「そうなの?なら僕と一緒だね……ふふっ」
ぽやぽやした雰囲気で微笑む風吹にこっちまで癒されてしまう。改めて、思考を纏めることにしたソラは飲み物を買いに立ち上がろうとすると、何を言うでもなく風吹が先に立ち上がり手を貸してくれた。
連れ添って貰いながら炭酸ジュースを紙コップに注いでいると、風吹は泡立つ黒い液体に首を傾げて興味深そうに見ていた。もしかして、知らないのだろうか。
「コーラ、飲んだことねぇの?」
「こーらって言うんだ?肌に良いからってロレナは薬草茶しか飲んでなかったから……」
「薬草茶って……エルフみたいに森にでも住んでた?」
「うん」
冗談のつもりで言った筈が思わぬ肯定を貰ってしまい、しばし固まる。本人は気にしていないようで、コーラからシュワシュワと音が鳴っているのが不思議なようだ。風吹の分も注いで渡してあげると、匂いを嗅いだ瞬間何とも言えない苦い顔をしていた。
「風吹が育ったのは日本一大きな山の麓にあるゼ・ショルドの森。魔界と現行世界を繋ぐ扉がある古の森よ」
隣でティーカップに紅茶を注ぐ優華がサラリと言ってのけた。風吹自身は自分が何処に居たのかも分かってなかったようだが、知っている優華も優華でどうやって調べたのか疑問である。
「ロレナは真面目だったのよ。入学届にもしっかり出身が書いてあったし、面接の時もどうしてあの森出身なのか答えてたみたい。じゃなきゃ身元も分からない生徒なんて学院でも流石に手放すわよ」
「ロレナが面接かぁ……ちょっと面白そうな絵面だな」
「ふふっ、ロレナは頑張り屋さんだからきっと凄い緊張してたかも」
優華、風吹、ソラの順で揃ってテーブルに座り直すと、初体験のコーラに目を輝かせながら風吹は匂いを嗅ぐ。炭酸が逆襲をしてきたのかすぐに鼻をつまんで渋い顔をして、それを見守っているとついに口を付けた。
「うっ、ぶふ……うぐっ。しゅ、しゅわしゅわして口の中が落ち着かない……」
「クエン酸に重曹、コーラなら砂糖たっぷりのジャンクな飲み物よ。私はあんまりオススメはしないわ」
「そうなんだ?優華ちゃんは本当に物知りだね……まるで博士みたいだ」
「ま、まぁ……これくらいはね?そこのバカと違って勉強してるから当たり前よ」
可愛らしく笑う風吹に絆されて、優華は気恥ずかしそうにそっぽを向くと誤魔化すように紅茶を啜り、勢いの付いたお茶が喉に詰まってむせた。優しく背中を叩く風吹に礼を言いながら、調子が出てきたのか色々な話を始める。照れ隠しに罵倒されたソラは傷付き損なのだが。
それを尻目に、ソラは思考の海へと没入していく。
「(あいつは【剣聖】から聖剣を奪った……?神楽の話通りなら俺の炎もあの剣に斬られたってことだ。だけどそれ以上に地力の差が半端ねぇ。今のままじゃ勝てるイメージが全然湧いてこねぇ)」
【剣聖】の証である聖剣を持った世界的犯罪組織の二人組の一人。相対したソラを一蹴せしめたあの実力は話に聞いた【剣聖】よりは弱いと思うが、それでもソラと漆黒の男の実力差は計り知れない。
もう一人の金髪の男は正直未知数だ。皆の話からは出てこなかったが、あの男は黒い穴を空けて転移してきた。つまりはこの学院にも転移出来るという事であり、いつまた攻めて来るか分からないのだからこっちの方が厄介だ。
「Black box……全世界でお尋ね者の組織……奴等は目的のモノは見つけたと言っていた。最後に俺に期待してるとも……」
心当たりがないワケではなく、まず最たる例としてムートの存在だ。
ムートの本当の名前は神竜バハムート。かつて御伽噺のクレナイと共に在ったという最古の龍にして七大天竜の内の一龍……と歴史ではそうなっているが、当の本人が全く覚えていないという記憶喪失である。
チラリとムートを流し見れば、未だに屍のようになっており世話焼きの風吹が喜んでお世話をしていた。見ての通り、誉れ高き龍の姿がどこにも見えないせいで分かりづらいが、過去の伝承を知っている魔術師であれば全ての者が殺してでも奪いにくる存在である。
「あぐっ、あぐ……喉乾いたギャ……」
「はい、ジュース。自分で飲める?飲ませてあげるよ?」
「ちょ、ちょっと!ムートちゃんは私のいもうゲフンゲフン……ど、同室のパートナーなんだから私がお世話するわよ!ジュース渡しなさいっ!」
間違いなく妹と言おうとした妄想系電撃少女はぽやぽやしたお世話焼き係からコップをふんだくり、赤ちゃん言葉を使いながらムートにジュースを飲ませようとしている。果たして半ば放心状態で飲ませる事が出来るのか甚だ疑問だが、あの二人に任せておけばいいだろう。
再び思考の海へと潜ろうとした瞬間、食堂の入口から大きな声が飛んできた。
「お前らぁ、今日は一旦終わりだ。学院に残る奴は好きにしていいが、帰省する奴は今日の門限までに申請書出しておけよー」
「「「はーい」」」
やれやれ、といった様子で頭を掻きながら去っていく朝斗を見送って、ソラは立ち上がる。結局神楽は戻ってこないし、ジゥも咲夜に追われてそのままだ。そしてムートの取り合いで二人が一触即発な雰囲気も合わさって、考察は後にしようと一度自室に戻る事にした。
優華がムートを背負い、ソラは風吹の肩を借りながら自室へと戻り、扉を開けるとそこには――――
「おぉう……忘れてたよコレ……」
部屋に散らばった鳥の羽根と血痕、ゼピュロスの居た痕跡がそっくりそのまま乾いてしまったカーペットを見て優華がガクンと膝から崩れ落ち、ある意味で自分のせいである風吹が謝りながら優華に手を差し伸べて、三人は余りにも散らかされた部屋に同時に溜息を吐き出した。
「まずは、片付けからだな……」
覚悟を決めて吐露すれば、凄まじくやる気のない返事が返ってくる。なんて平和で心にクるのだろうと泣きそうになりながら、戦いの後始末を始めた。