穴の中
何がなんでも帰らなければならない。
何がなんでも生きなければならない。
僕は今まで、周りと同調して生きてきた。周りが怠ければ怠けるし、周りが働き始めたら僕も働き始める。そこに自分の意思はなく、ただひとりの女の為に周りの奴らとともに汗を流す。そんな時に怠けてるやつを見ていると無性に腹が立つ。そんな風に意識の変化が出てきて、一人前の男になってきたと思ってきた今日。僕は大きな落とし穴にはまってしまった。
どれだけ自分が出たくても出られないほどの大きく深い穴。誰もが陥ることのある大きな穴。そこから出れるものは大きく成長できると言われている深い穴。真っ暗な、恐怖心を煽る穴。
そんな穴に僕ははまった。
体は闇に飲み込まれるように引きずり込まれ、もがけばもがくほど深くはまっていくように感じる。
だが、僕にできることはただただもがくことだけだった。だから僕はもがいた。全身を使い、手で体を支え、足で体を持ち上げる。時には周りの奴らを穴の底に蹴落とし、反動を使い穴から這い出ようともした。
底から聞こえる元仲間の声、悲痛な叫び声。恨めしい声。
心は痛んだ。先程まで一緒にご飯を食べ、仕事をし、一人の女の話で盛り上がった仲間だ。それを僕は絶望の底へと落とした。自分が生きるために。ほかが死のうが構わない。
約三十分間ほどたっただろう。僕の体は限界に達していた。足には力が入らず、手は痺れてきた。すぐ後ろには闇が迫っている。
だめだ。嫌だ。諦めるな。こんなところで死んでたまるか。生きる。俺は生きるぞ。
突然、体が軽くなった。何が起きたかわからなかった。
上を見るとそこには弟の姿があった。僕の手を握っている。そして闇の底から僕を救い出そうと、懸命に引き上げようとしている。
これで僕は出れる。自由がやってきたのだ!生きるぞ!
僕は手に力を込め、一気に光の方へ這い出た。
その瞬間、僕の横を黒い影が通り過ぎた。なにかが闇に向かって落ちていった。なにが落ちていったのかは分からないが、僕には関係ない。
穴を見下ろしながら、僕は弟に感謝の言葉を掛けたいがために周りを見渡した。だが周りには誰もいない。弟がいないのだ。先に帰ってしまったのだろうか。薄情なやつだ。家に帰ったら好きなものを食べさせてやろう。トンボでも食べさせてやろうかな。どんな顔をするだろうか。
僕は穴から出るために仲間を何人も見捨てた。僕のことを恨んでいる仲間はたくさんいるのだろう。仕方ないのだ。生きなければならない。僕はあの女を守る使命があるんだ。絶対にこんなところで死んではいけない。
早く家に帰ろう。弟にも会いたいし、あの女にも早く会いたい。元気にしてるだろうか。思い切り抱きしめたい。
久しぶりに穴の外に出たからか、家の方向がわからない。周りに誰もいないので聞くことも出来ない。まあいいか。ゆっくり帰ればいい。僕には待ってくれる仲間がいるから。
一歩踏み出した瞬間、僕の頭上に大きな楕円形の影ができ、僕はその影に踏まれた。
嘘だろ。やっと穴から出たのに?嫌だよ。俺は帰りたいんだ!生きたいんだ!死にたくない!
だが、大きな影に踏まれた体は大きなダメージを受け、僕は瀕死状態になっていた。体が全く動かない。
死にかけの体で僕は思った。
そうか。僕は所詮こうなる運命だったのか。いくらあの穴にはまらなくても、いくら仲間を犠牲にしても、生きる希望をいくら持っていても。全く意味なんてなかったのか。
―僕は所詮、ただの1匹の蟻にすぎないのだ。蟻地獄から出たところで、僕はただ人間に踏まれるという未来が待っているだけだった。