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義民の末裔 その十一 完結  作者: 三坂淳一
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義民の末裔 その十一 完結

風の音で目を覚ました。いつの間にか、石碑の台に凭れて、私は眠っていたようだ。

私は石碑を離れ、山頂を下り始めた。その時、不意に、或る記憶が甦ってきた。

 十年ほど前に死んだ母の記憶だった。母は私の記憶の中で、仏壇の前に正座して、両手を合わせ、何か呟きながら祈っていた。お盆もとうに過ぎ、九月も末の頃だったと思う。

年に一度の母の行事であった。普段はさほど、信仰心があるようには見えない母であったが、秋の或る日の午後はこのように仏壇の前にきちんと座り、呪文を唱えながらお祈りをするのであった。私は学校から帰り、仏壇のある室の畳にごろりと寝そべり、漫画の雑誌を見ながら、そんな母の姿を見ていた。何年も聞いていると、母の呪文もいつしか耳に馴染み、自然と覚えるものだ。今でも、冒頭の文句だけははっきりと覚えている。

 それは、このような言葉から始まっていた。

 「おそれながら、かきつけをもって、もうしあげたてまつりそうろう」

 冒頭の一節を口ずさみながら、私は愕然としていた。何ということはない、これは、元文磐城一揆で百姓たちが藩の役人に差し出した一揆の趣意書、一揆請願書の冒頭の言葉ではないか。母は、その言葉に続き、「一、このたび、おおせつかれそうろう、ぶやくきん、ごめんこうむりたく、ねがいたてまつりそうろう、・・・」と長々と呟いていたのだ。

 秋に入った或る日、というのは、処刑がなされた九月二十五日では無かったのか。九月二十五日は旧暦で言えば、処刑日の八月二十三日にあたる。そう言えば、母の旧姓は小野であったが、昔の先祖の姓は高田であったと何かの折、母の実家に夏休みに遊びに行った際、実家の伯母さんから聞いたことがある。高田、と言えば、平久保村の与惣治の苗字ではないか。与惣治は二十六歳の青年名主であった。私はふと、土佐の中岡慎太郎のことを思い出した。中岡慎太郎は、元々は土佐の大庄屋の倅であると、昔、坂本龍馬に夢中になっていた頃、何かの本で読んだ記憶がある。西国では庄屋、東国では一般的に名主と呼んでいるが、この階級は富農で学問をする余裕が持てる階級であり、村役人を務める中で、いろいろと社会の仕組み、或いは、封建体制の問題を考える機会があったのであろう。この元文磐城一揆でも首謀者として斬られた者はほとんど全てと言ってよいほど、名主階級であった。逆に言えば、水呑み百姓、小作人はおろか、本百姓と雖も、名主階級以外は一揆の指導者とはなれなかったのである。

 封建の世の中の矛盾、問題点を敏感に感じて、恐れながら、と問題提起をした階級は無産階級では無く、一般的には裕福と見られる、農村の名主という富裕階級であったことは現実的な皮肉としか言いようが無い。私は二十六歳で死んだ与惣治の姿に、中岡慎太郎の風貌を重ね合わせていた。時には、人懐っこい笑顔をするが、普段はいたって謹厳実直で正義感溢れる真面目な若者であったに違いない。私の勝手な想像は続く。与惣治にはおそらく妻子がいたであろう。そして、鎌田河原での処刑の際も、乳飲み子を抱えた妻が与惣治の最期を見届けたに違いない。首斬り同心の刀が一閃し、与惣治の肩から首がふいに消えるまで見詰めていたかどうか、まではとても想像出来ない。その後、藩及び同じ村の百姓たちから受けた迫害、弾圧にもめげず、与惣治の妻は顔を挙げて真っ直ぐに正面を見詰めて生きていった、とは信じたい。そして、囲炉裏端に座って、子供に父親の思い出を静かに語る与惣治の妻の姿も想像したい。その後、二百七十年ほど過ぎ、年に一度、与惣治という先祖の霊を慰めるため、与惣治が或いは考案・起草したかも知れない一揆の請願書を、念仏代わりに唱える母の姿を、その子が遥か昔の追憶として、今思い出しているのだ。

山頂から続く、石の階段を下りながら、父のことも思い出していた。

父は酒が好きで、夕飯の後、炬燵に座り、ちびりちびりと酒を呑みながら、いろいろと先祖のことを話してくれたものだ。今でも、はっきりと覚えている逸話がある。

 それは、このような話であった。

 昔、磐城で百姓一揆があった。武藤の先祖、七郎左衛門常春は湯長谷藩の武士であった。

 馬に乗り、槍を抱えて、一揆衆が集まっているところに行き、静まれ、と叫んだ。さしもの一揆衆も武藤七郎左衛門の激しい剣幕に押され、静まり返ったと云う。そんな話を父は酒に酔って赤い顔をしながら、私たち子供に話してくれた。傍らで、小さな弟が炬燵から這い出て、近くにあったハタキを槍のように小脇に抱え、左手で馬の手綱を扱いながら、パッカパッカと馬を奔らすような格好をしてバタバタと室内を駆け巡った。その弟も、五十歳をとうに越し、この間、孫が出来たと喜ぶような年齢になっている。

そんな話を思い出しながら、気付いたことがある。磐城では、百姓一揆は二件しか発生していない。その内、湯長谷藩が絡んだ一揆は一件しか無い。言うまでもなく、この元文の一揆だ。この時の湯長谷藩が果たした役割は、籠城して食うものにも事欠いた磐城平藩に当座の食糧として米百俵を届けた、というその役割しか無い筈だ。してみると、父の話に出て来る武藤七郎左衛門が果たした役割は、平藩への米の移送時の警護であったかも知れない。槍の指南役もしていたと云う話であるから、警護役なら、まさに打ってつけの役目であったろう。ふと、父が酔ってその話をしていた時、母はどこに居たのだろう、と思った。どうも、記憶の中で、母はその場に居なかったように思われるのだ。きっと、炬燵には座っておらず、台所で食事の後片付けでもしていたのだろう。一揆を鎮圧したとする父の先祖の話を平静に聴いていたとは到底思われないのである。また、父も、母が年に一度、仏壇の前に座り、長時間念仏を唱えるということを知らなかったかも知れない。父も母も死んでしまっている今となっては、どうにも確かめようがない話であるが。母が高田与惣治の子孫であるかどうかは、今度母の実家にお線香上げに行った時、確かめることにしよう。私はぶらぶらと平の中心市街の方に向かって歩き始めた。夏井川を左右に見ながら、平神橋の歩道を歩いた。季節はすっかり秋となり、涼しい風が橋を急ぎ足で通り過ぎて行く。今日は、十月の初旬。順序は逆とはなるが、首謀者に対する処刑は済み、一揆が勃発する前の頃となる。新暦で言えば、千七百三十八年十月二十九日に元文磐城百姓一揆の幕が上がり、翌一七三九年九月二十五日に首謀者八名に対する処刑でこの百姓たちの叛逆の幕は下ろされた。

鎌田山山頂、元文義民碑は、松籟を聴きながら、黙然と建っている。

風は松の梢をかすめ、鋭い葉を揺らし、通り過ぎていくばかり。


― 完 ―


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