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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
西山章‐山々渡り
8/17

二の五 ロガンの娘たちⅱ

「貴方、貴方は人間ですね! 外から来た!」

 ヒタキが足音に気づいて目を開け顔を上げると同時、男の声が言った。その背に朝日が見える。

 声の主は声に違わず若い男で、茶色の髪に青い目の取り合わせ。日に焼けた肌を見ても精霊ではないのは明白だった。リボンで束ねた長髪としっかりした作りの上着はヒタキにも覚えがある、南方の国の上流階級の装いだ。腰には剣も吊っている。

「ああ、そうだとも、貴方は?」

 諸々を確かめてからヒタキは言葉を返す。灰に汚れた渡りの顔を緊張した面持ちで見つめていた男は、それを聞いて震える息を吐いた。安堵と感激の滲んだそれだった。

「昨日飛んでいる貴方をお見かけして、探していたのです。見つかってよかった。――私はサンクタイドの騎士、タリアンと申します。見聞の旅に出ていたのですが、精霊に惑わされこんな所まで……何度も帰ろうとしているのですが、帰れないのです。私は馬しか連れていませんし」

 胸を撫で下ろし笑みを浮かべ、男は確かに人の国の名を出して名乗った。落ち着きには欠けているが昨日会った人間よりしっかりした態度で、目も確かにヒタキを見ている。ヒタキはそれで言いたいことをすべて察し――物言いたげに口を開けたが、言葉を見つけられず、暫しそのまま黙っていた。視線が余所へと彷徨い、手は目覚めた竜の首を撫でる。

「此処に来る者の大半はぼんやりとして、話もまともにできないのです。少しずつ良くなってくる者も居ますが……」

 それを何と思ったか、騎士タリアンはまた話し始めた。まともに話のできる相手、それも移動の手段を持った者が現れたことに喜びを隠せず、興奮した調子だった。

 そうだろうな、と昨日見た光景も思い出しながらヒタキは頷いて、手を前に出す。制止の仕草だ。タリアンは言うのを止めてヒタキを窺った。

「精霊たちは貴方に優しいか?」

「……ええ。酷いことは特にされません。むしろ歓迎されているようで酒も果物もたんまりと出るし、よい服も与えてくれます。時折とても馬鹿げたことをされたり、こちらの言うことを理解しないで笑っているばかりだったりで、腹立たしくはなりますが……」

 静かに問うヒタキに、彼は首を傾げながらも答える。途中で服の襟を引っ張って示しもした。ヒタキは相手が今正常な思考を保っていることを認めて、溜息を吐く。

 ヒカタを軽く叩いて、腹の辺りに置いていた剣を片手に立ち上がる。至る所が灰などに汚れた旅装束はタリアンと比べて見劣りするどころではないが、ヒタキはそれを羞じたりはしない。

 微かな風が頭巾の端を揺らす。こびりついた灰は落ちずにいた。

「なら、このまま此処に居たほうが楽しくやれるぞ。外に出ようなどと考えないほうが、きっと」

 二人の上に広がる明け空の色に似た紫の瞳で男を見据えて、ヒタキははっきりと言い放った。タリアンは一瞬呆けて、すぐに狼狽え始める。

「わ、私には主君も妻も居るのです。もう半年近くも此処にいる。さすがに帰らねば。ご助力いただければ勿論、お礼は弾みますし」

 精霊たちは帰りたいと言っても聞いてはくれず、他の人間はまともではなく頼りにならない。ここで竜を持つ旅人に助けてもらってどうにか帰らねばと、タリアンは必死だった。そろそろ国に帰らなくては、色々なものを失ってしまうだろう。

 だが、続ける言葉にも東西の渡りは無情だった。

「もうどちらも待ってはいないよ。サンクタイドは滅びている。貴方の話は半年じゃなく八十年くらい前だろう」

「何を――」

 南に興ったサンクタイド王国は豊かな国だったが、二百余年の歴史の末、内乱で分裂した。現在では何処も同じ国号は名乗っていない。正確には七十五年ほど前の話だ。

 ヒタキもマトリやケリと共に何度か訪れたことがあり、その顛末は耳にしていた。だからこそ目の前の騎士がどういう悲劇の只中にあるか、すぐに分かったのだ。

「精霊にさっきみたいに名乗って、美しい女の姿と庭にうつつを抜かしていただろう。言われるままに水など飲んで、踊って、それで半年ばかり楽しくやって。そろそろ愛想を尽かされそうだから帰らないとなんて――考えが甘いんだ。此処での一晩は、向こうでの何年だったのだろうな。時には子が生まれて老いるほどの時間だって経つぞ。そういうものなんだ」

 タリアンは不帰の者だ。精霊の術に嵌り、時の流れの差異も知らず、時には一月を一日のことだったように感じさせられながら過ごしてきた。一見は正常に見えるがこれもこの機に偶然そうだっただけで、いつもはあの子供たちと同じように呆けて寝転がっていたり、戻る国のことなど微塵も考えずに精霊と遊んでいたりもする。

 哀れな、水の精たちの遊び相手。王賜の食物で繋がれるロガンの賓客。自分もこうなっていたかもしれないと、ヒタキは恐ろしい異形を前にしたときと同じ心地で騎士を見る。

 ヒタキも顔色が悪いが、タリアンは哀れなほどに蒼白な顔をしていた。

「嘘だ、そんなこと。貴方までそうやって私を化かそうと言うんですか……」

「……元の国のことは忘れて楽しくやればいい」

 細った声に、ヒタキは独り言のように応じた。竜が一頭帰ってこない今、もう一人を連れる余裕はないと言ってよいし――そうでなくとも、このまま彼が帰ってよいことになるとは到底思えなかった。

 とうとう言葉を失うタリアンの横に、水が湧くように三人の女たちが現れる。

「そうよ、ずうっと忘れていた騎士の誇りや奥様のことなんて、そのまんま、忘れてしまいなさいな」

「私たちと遊びましょう。ずっとよ、タリアン」

「花冠を編んであげるわ。服だって、新しいのがいいならちゃんと持ってきてあげる。今度は何色がいいかしら?」

 三人分の甘い囁き。冷たい女の指が頬を撫でるや否や、タリアンは悲鳴を上げて逃げ出した。精霊たちはわっと笑ってその背を見送る。どうせ逃げられまいと、追いかけはしない。ヒタキのときと同じだ。

 笑みに細くなった双眸がヒタキを向いた。顔や手元を確かめて、どこか身構えている竜にも微笑みかける。

「お前は一緒になる気がないのねえ、残念だわ。そんな顔して……」

 悪戯っぽく肩を竦める様は蠱惑的だ。細い指先が唇を辿りヒタキのほうへと伸びるが――躊躇って引かれる。その場しのぎとはいえ、魔除けを重ねた旅人の体は触れづらいものになっているのだ。

「今まで忘れていたくせに。人里でも拐しなんてやってると分かったら尚更に、お仲間になる気は起きないね」

 ヒタキは笑みを作って、余る手でヒカタを抱き寄せながら言った。

 この精霊たちは山に懇々と沸く清水。ナリュムの一国ロガンの民だが、人がナリュムに入ってくるのを待つでもなく、もっと人々に近い山へと水を伝って移動しては術で惑わし連れ帰っている、人の側からしてみれば非常に迷惑な存在だとヒタキには分かっていた。そうでなければあんなに大勢が此処に居るわけはないのだ。

 三人は揃って唇を尖らせた。ヒタキに触れない代わりに三人で寄り掛かったりして、顔を突き合わせて小声で算段をする。

「ね。貴方も、その汚れた肌を水に浸したくはない? その黒い髪を解いて、水の中に広げてみたくはない? ここの水はとても気持ちがよいのよ。ちょっとくらい、どう?」

「生憎と、先日三月ばかり頭から爪先まで海の中だったんだ。濡れてないのが心地良くて堪らない」

 その末の諦めの悪い誘い文句に、つれない旅人は剣を揺らしながら言い返す。精霊たちは今度はまあと口を丸くしてまた顔を見合わせた。

「貴方もしかしてサウラに居たの?」

「ただの旅人じゃないのね?」

「そりゃあ、そうね、考えれば、そうよ。普通の旅人はこっちには来ないんだもの!」

 早口に言ったので海の国の名は縮んで聞こえた。ようやっとヒタキの異質さに気づいた彼女たちは、またじっとその格好を見て身を寄せ合う。

 今までとは違う反応にヒタキは分があると見た。すっかり明るくなった中を一歩踏み出し――ヒカタのことも剣も離さないまでも、胸に手を当てて一礼する。

「申し遅れた。私は東西の渡り、人の国と山海を渡る者。以前この国にも来て――王と酒を酌み交わしたことのある仲なのだが、王は貴女たちのこの振舞いをどうお思いなのだろうか」

「お客さまだったの?」

「言いつけるというの?」

「脅しなのね?」

 三人の精霊は皆、ヒタキの言葉の示すところを正しく受け取った。順番に言って、さあどうしようとばかり、慌てた風で旅人と同胞を交互に見る。

 ついには余所にも探るような銀の目が向いたので、ヒタキは外出中だという王が帰還したか、する頃なのではないかと勘繰った。自由奔放な水の精も、さすがに自らが住む山の王相手では態度が違う。

「待って二人とも、嘘かもしれないわ。はったりかも」

「王はこれも見ておられるのではないかな。よくよく見通される方だからな。何せ十も目をお持ちだ」

 一人が他の二人に耳打ちするのが聞こえたので、ヒタキは一言足しておいた。さらりと出される王の特徴に、三人はいよいよ、相手の言い分を信じざるをえなくなった。叱られる前の子供の顔になって、口籠る。

「……まずいわ」

「これはまずいわね」

「ねえちゃんと返してあげるから、告げ口なんてしては駄目よ」

 これまでのはしゃいだ調子が一転して鈍いものになり――幼い雰囲気の一人が声を上げたとき。朝の光に照らされる白い岩盤が水面のように波打ち隆起した。誰もがはっとした顔をする。

「――お前たち、何を話しているの? 楽しい話かしら?」

 別の声が響く頃には、先程三人が現れた時と同じく、湧水が形作るようにして女が立っている。

 萎縮した三人の精霊とは別の意味で、ヒタキは言葉を失って呆けた。

 女は背が高く、山に入って見たどの精霊よりも美しく、朝の空気の中でも分かるほどに光を讃えていた。綺麗に磨かれた白銀の鏡のような長い髪は薄絹の裾と共に地に広がり溶け込んでいる。手を持ち上げ髪を掻き上げると、清らな雫が光と共に落ちて弾けた。

 整いひやりとした雰囲気を持つ顔の上、頭は水を編んだ、揺れ動く水晶細工の如き冠が飾っている。

 彼女はヒタキを見て笑った。それだけで鳥肌が立つほどの美人だった。

「久しいわね、渡り殿。私は呼んではいないけれど……本当は何処を訪ねたの?」

 縮こまる小娘たち――彼女たちも美しかったが、この女王を前にしてはそう呼ぶのが適当と思えるほどだ――を後ろに、腕を伸ばして問う。

 掌は額に触れて、その汚れを容易く拭ってしまった。刃も灰も煙として染みていた魔除けも大した意味を持たぬのは、彼女の力自体が強いのに加え、ヒタキの中にこの山の水が流れているからだ。王にとって今のヒタキは山の者、仲間だ。

「アムデンとクシクシの王に呼ばれて参りました。……此処の王は蛇の姿をしておいでではありませんでしたか」

 その掌の冷たさに身震いし、ヒタキは一度余分に息を吸ってから答えた。

 目の前の水の精は見るからに王だったが、ヒタキが記憶するロガンの王とは違っていた。人はおろか村を丸ごと呑み込みそうな見目の、何千と脱皮を繰り返した大蛇。酒好きで穏やかな、どこか祖母のような雰囲気を醸し出す女王。元はといえば彼女を頼ってヒタキはこの山に来たのだ。

 にこやかだが引き込まれるような雰囲気が恐ろしい精霊然とした女は、その蛇の傍仕えに居たのではなかったか。

「あの方が衰えた為に譲られたのよ。他の山の王は教えてくれなかったのね。私としては、娘たちから遊び相手を奪う気はないのだけれど――貴方はあの方の友人だし、やはり渡り。山の民にしてしまうのは得策ではないわね」

 大した障害にはならずとも多少不快感の残る手を振りながら笑って、事も無げに新しい王は言い放った。ヒタキは緩く首を振る。

 教えてなどくれなかった、と思ったが、忠告はされた気がする。たった一言、何のことかも分からなかったが、もっと、いつも以上に警戒すべきだったのだ。

 しかし、ともかくこれで安心だ。王がヒタキを客分として招き好きにさせる気がないなら、いつ何をされるかと怯えなくてもよい。身の安全は保障された。

「丁度持っていってほしいものもあるわ」

「私に運べるものならば喜んでお受けいたしましょう、陛下」

 続いた言葉に、ヒタキは麗しい女王を見上げて頷く。隣で固まっている竜を暫くぶりに解放し守りの剣を鞘に納めて礼の姿勢をとると、何処から取り出した物か、すぐに小さな箱を差し出された。

 鏡張りにも見える銀を帯びた水晶で出来た、片手で握りこめそうなほどの小さな小さな箱。やはり見た目のとおりひやりとする水の温度で手に触れる。

「これを帰り道、人の国シーナの最初の王子に届けて。栗毛の子よ、金の髪じゃないわ。絶対に届けてね。開けては駄目よ」

 女王が耳元で囁く。どこかぞっとする呪いの響きに、ヒタキは気づかぬふりをした。

「分かりました。お届けします」

 自身も知る人の国、サンクタイドとは違い今もナリュムとの境付近に栄える土地の名と忠告に頷き、ヒタキは竜に括った荷から布を一枚取りだした。精霊の姿を映したように美しく、魅入られそうな箱を覆い隠す。

 ヒタキが酷く真剣な面持ちでそれを荷の内に押し込むのを見届け、女王はまた笑った。

「怖がらせてしまったのね、私が出かけていなければすぐにどうにかしたのだけれど、ごめんなさいね。もう一夜明けたら、貴方のいつもどおりにお帰りなさい」

「……竜がもう一頭いるはずなのです。返して頂けませんか」

 過ぎたことをごねても仕方がないとヒタキはもう一つ頷き――唯一の心残りを口にする。女王はすぐに、配下の娘たちを向いて視線で問うた。

「飛んで逃げてしまったの。それから見てないわ」

「大婆様のお客だなんて知らなかったのよ」

「ごめんなさい」

「……困った娘たちね」

 小声で答え言い訳するのに窘める王の眼差しに三人はたじろぎ、身を崩してぱしゃんと音を立てて地の下に逃げてしまう。女王はやれと、帰ってきたばかりの自国の問題に少し困った顔をした。

「探してはみるわ。お詫びも持たせましょう。――ああ、前の君にも挨拶をしていかれたらいいわ。湖の畔にいらっしゃる」

 彼女はヒタキにしたようにヒカタの額も撫でて、灰色の体色に紛れていた汚れを拭って言った。

 慰め半分の言葉にまた頷いたヒタキは躊躇いなく、それまでは見ることもしないようにしていた湖に向かって飛んだ。疲れが失せたわけではないが、怯えていなくてよいだけ随分気が楽だった。そんな主人の心情が伝わるのか、ヒカタもどこかのびのびと飛んでいる。

 畔と女王は言ったが、上から見えるところにその姿は無く――岩壁に空いた大きな穴の近くに精霊たちが集まっているのを見つけ、ヒタキはヒカタの首をそちらへと向ける。

「王――ハクタ様、」

 降りて覗いた洞の中は、日も差し込まぬのに薄らと明るい。それは住む主が精霊たちと同じ光を帯びているからだ。

 洞穴の中長い体を横たえていたのは、白い大蛇だ。湖の上で踊っていた娘たち全てを合わせたあの輪と比べても叶わない、ヒタキが知る限りこの世で最も大きい蛇。大きく避けた口の横、途切れ途切れに切れ込みが続いているのは瞼で――この蛇は十も目を持っているのだった。

 そのうちの、手前の二つがゆっくりと開いた。水の精たちと同じ銀色をした蛇の目がヒタキを映す。

「久しいな渡り殿。うちの小娘たちが迷惑をかけてすまないね。もうずっとは起きていられなくなってね、今さっきようやく目が覚めたところだ……」

 這うように低い女の声が言う。二つの目はヒタキだけを映して、残りの目はロガンの隅々までを見ている。ロガンの先王は千里眼の蛇なのだ。

 ヒカタを伏せさせ、ヒタキもまた硬い地に膝をついた。そうでなくとも大きな頭は見上げるような高さがあったが、その姿勢で見上げと更に高くに来る銀の目は月のようだ。

「お久しゅうございます。貴方様の威光が健在で助かりましたが……王位を退いたそうで。お体を病まれているのですか?」

「何、老いたのさ。老いを病というのならば、そうだろうがね」

「左様ですか……」

 問いかけに、蛇の王ハクタはあっさりと軽く答えた。若者を笑うような口調だった。

 ナリュムの異形や精霊でさえ、永遠の命など持っていない。いずれ死ぬか絶えるか、何かしらの終わりがやってくる。人、ヒタキたちにとっては永遠に近い時を経てでも、いつかは。

 東や西に渡り時を飛び越えるように過ごせば、戻った人の地は様変わりしていることも多い。以前に会った宿の主人が代替わりしていたり――ユカリの一族の中でさえ誰かが老いて、場合によっては死人が出る。

 けれど山や海は、そうしたことには縁遠いのだとヒタキは思っていた。誰かがそう言ったわけでも決めつけるほどの確かさを持っていたわけでもないが、漠然とそのように。何せ百年経ってもまったく変わらぬ姿の子供が出迎えることがある場所だから、自分が生きて渡るうちに何かが変わるとは到底思えなかったのだ。しかし、よく知るこの王は老いて王の座を譲りさえしたと言う。

 変わらないものなどありはしないと、教えるようだ。

 戦に飛びまわるアムデンの鳥たちも思い出し据わりの悪い顔をした旅人を見下ろし、蛇は目を細めた。それがどこか孫でも見る風だったので、ヒタキは曖昧に笑い返した。

 そうするうちに水の精が杯を持って現れる。何処からともなく湧いて出るのも、王の前であればさして驚かずに済んだ。

 水晶で作られた両手で持つほどの見事な盃は王ではなく、客のヒタキへと差し出された。中を満たすのは水ではなく、淡い檸檬色をした薄い蜜酒だ。

「疲れが取れるから、竜と分けて飲みなさい。そしてその辺りで休むといい。一雨来るからね。今竜を探してやっているよ。出るまでに見つかるといいがな……」

「ありがとうございます。ロガンの外に出ていないといいのですが」

 労わる王の言葉に、ヒタキは今度こそ相好を崩して、精霊にも礼を言って杯を受け取った。

 水を飲まされた時とは違い抗う必要は何処にもなかった。ヒカタには指で掬った分を舐めさせながら水割りの飲みやすい一杯を乾せば、すぐに堪えがたい睡魔が襲ってくる。ヒタキは洞穴の隅でヒカタと共に横たわり、目を閉じた。雨が湖面を打つ涼やかな音が心地良く響いた。

 大蛇が見守る中、夜更けの精霊たちの歌さえも子守唄に。ヒタキは今までの分を取り戻すかのようにそのまま翌朝まで眠り続けた。

 ロガンの外に出てしまったのか誰かに捕まってしまったのか、結局イナサは見つからず、ヒタキは一頭の竜だけ連れて帰ることになった。代わりのように上等の水晶で出来た皿が用意されたが、ヒタキの顔は商売人めいた作り笑いにしかならなかった。

 卵から育てて躾けた竜だ。どんなに素晴らしい宝物を見せられても、気落ちはする。

「竜、見つかったら連れて行くから」

 朝陽と共に山を出るヒタキの見送りに並んだ白銀色の精霊の中から、あの三人が出てきて言った。悄然としているのは、蛇の先王か精霊の女王に叱られた為に違いない。普段が奔放なだけに、こうなるとヒタキなどより余程分かりやすく悲しそうだ。

「あの子はイナサというんだ。見つかったら優しくしてやっておくれ」

 ヒタキは娘たちの顔を眺めて息を吐き、それだけを努めて柔らかな声で言った。責めたところで仕方がないし、後々拗れるだけだ。一族の為にも不毛なことはする気にならなかった。

 こくこくと頷いた彼女たち、先の王と今の王、その眷属たちに深々と礼をして。ヒタキはいつもどおりとはいえ寂しい雰囲気の一頭だけの竜に跨る。こうして逸れた場合に備えて大切な荷はすべてヒカタに括ってあるから、今回手に入れた物は揃っているのが幸いだった。

「またいらっしゃいね、待ってるわ」

 女王がにこやかに言う。もう結構、と言いたい言葉は呑み込んで、ヒタキはもう一度頭を下げた。ヒカタの強靭な翼が風を掴んで舞い上がる。

 一晩休むだけのつもりが、酷い目に遭った。ようやくの帰路は雨上がりの秋晴れで、澄んだ空気が心地良い。ガルオン山はいつもよりはっきりと見えたし、東方を見遣れば人の国の姿もおぼろげながら見えた。

 見通しは常よりいいが――遠ざかる青白い岩山を振り返り他の山も見渡してみたが、灰色の竜の影は何処にも見当たらなかった。残念だが探し回っても居られない。如何に今東西のほうが時の流れが早いとはいえ、予定を狂わせると他の渡りとの兼ね合いに影響が出る。探すにしても一度帰ってからだ。

 折角早く帰れると思ったのにこれだ。とのぼやきも声には出さず押し込んで、ヒタキは目を細め頭巾を下げながら日が昇るほうへと向かった。日暮れ頃にはナリュムを抜けることができるだろう。

「ねえ、タリアンを見なかった? 一緒に泳ごうと思ったのにいないのよ」

「お前があんまりしつこいから隠れているのでなくて?」

「私しつこくなんてしないわ」

 若い娘たちの声が重なるそんな会話も既に遠く、耳に入ることはついに無いのだ。

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