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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
西山章‐山々渡り
7/17

二の四 ロガンの娘たちⅰ

 ロガンに近づき門に向かううちに、辺りには濃い霧が漂い始めた。山ではよくあることだが嫌な雰囲気だった。ナリュムで出遭う霧や雨は魔法を帯びていることが多々あり――霧そのものが何か命を持ったものであることさえも有り得た。

 見下ろしからの忠告もある。降りてしまうべきかむしろ飛び続けるべきかと悩むヒタキの鼻に、何かとてもよい香りが触れた。確信したヒタキの眉間に皺が寄った。

 ただの霧ではない。何者かの魔法に違いない。

 花の香りは大抵、精霊の幻術の類だ。飛び続けていては落ちるかも知れない。下が降りられそうな場所であることを確認し、ヒタキは降下の指示を出した。ヒカタもイナサもまだ平常で、すんなりと従い下を見据えて地に降り立った。硬く青白い岩盤を踏みしめ、ヒタキとイナサは立ちつくした。共にヒタキを見て、指示を窺う顔つきだ。ヒタキは近いヒカタの首元を撫でて、息を潜めて辺りを見回した。

 竜からは離れない。むしろ寄り添うようにして、様子を見る。

「イナサ、もっと近く」

 声をかけて繋ぐ縄を引く。片足が地面につく――その瞬間ぐらりと身が傾ぐ。踏んだと思った地は、布を張った上のように捉えどころのない不安定なものに変わっていた。

 更に、足首を誰かが掴んで引いた。均衡を失っていた体は容易く竜から落ちる。

「っ」

 慌てて手綱を掴む手に力を込めるが、恐ろしいほどの力に引かれてヒカタも共に体勢を崩した。共に倒れ込むところを、いくつもの腕が柔いが有無を言わさぬ手つきで絡み引き剥がす。そのひんやりとした感触に手は緩み、手綱を離す。

 ぐるりと天地を逆様にされ、激しく頭を揺すられたような気持ち悪さに襲わたヒタキは思わず目を閉じた。霧に白く覆われていた視界が一転して暗くなるのはその為だけではなく、意識が、急な眠気じみたものに引っ張られる。体は地に――地より深い何処かへ落ちていく。何か、重たい布の幕をいくつも越えたような感触もあったが、最早定かではない。確認の目が開かない

 花の香りが濃くなると共にキンと耳鳴りに似た音がして、頭痛がした。瞼だけではなく体全体が鈍く重く、動かなくなってくる。指先さえも強張り、小さく跳ねさせるのが精一杯だ。意識は時間が経つほど暗くなり、己が仰向けなのか俯せなのかさえ分からなくなる。倒れ込んだ先が外より冷たく、寒いのだけが辛うじて感じ取れた。

 抵抗として、しかし弱く掠れた呻き声を漏らすヒタキの頬に手が触れた。柔らかく細い指の、女の手だ。引き寄せて助け起こす手は六本。三人分の掌が、ヒタキの体を撫でた。頭を抱えて膝に載せられているのが分かったが、目はまだ開けない。

「飲んで。飲んだらよくなるわ」

 耳鳴りに混じり、やけに響く声が言う。意味も確かに理解できた。促すと共に、ヒタキの唇に冷たく濡れた感触がある。噎せ返るような花の香りの中する清らな水の匂いが、呼吸をしやすくするようだった。

 飲みたい。いけない。飲んでは駄目だ。いいや酷く喉が渇いた。気分が悪い。飲めばよくなると言うではないか。駄目だ。澄んだ甘い水だ。これを飲んでは大変なことになる。しかし――

 ぐるぐると巡る、己の中での問答がまたヒタキの気分を悪くした。

「飲んだら楽になるわ。飲むのよ」

 繰り返される言葉は水の一滴が波紋を広げるようにヒタキの意識を揺らした。唇が濡れ、顎まで雫が伝う。

 水が喉に滑りこみ、ヒタキの喉が動いた。

 魔術の心得があっても、人は弱者だ。強力な呪いに嵌り込んでしまえば、その力には抗えない。詰まり気味だった息が穏やかになるのはむしろ、癒しの術を施されたようでもあった。

「――何口飲んだ?」

「三口」

「なら三度日が沈んでも居られるわ」

 弾んだ娘の声が青く薄暗い洞に響く。ヒタキの喉が三度動いたのを確かめた彼女たちは、幼気に悪戯っぽい笑みを浮かべた顔を見合わせた。

 銀の艶やかな髪に白く澄んだ頬、灰銀の瞳の美しい乙女。よく似た雰囲気の三人は、冷え冷えとした空間に不釣り合いに薄絹だけを纏っていた。長い髪や肌の上は水晶の粒の如き水滴が飾っている。その姿が仄かに光を帯びて、暗い洞穴の中で眠るヒタキの顔をはっきりとさせていた。

 人間が水の精と呼ぶ、その名のとおり水に親しむ精霊たちだ。皆美しく、大半が女の姿をして、旅人を惑わす。

「それまでにこの子をちゃんと仲間にしなくっちゃあね」

 水晶の杯を横に転がし、ヒタキに膝を貸した女が水と同じ温度の手を頬に宛がう。濡れた顎から唇までを拭い、笑みを深める。

「そんなの、すぐよ。皆で輪になって踊れば楽しいもの。旅をしてることなんてすぐにどうでもよくなってしまうわ」

 ヒタキの手を握り擦っている、銀の髪の娘が言った。踊りの調子を取るように、手を揺らして見せる。その前にすっと、別の手が伸びた。

「ねえねえ、この黒い髪、どんな花で飾ったら楽しいかしら? やっぱり白菊?」

 頭巾の端から零れる波打つ黒髪を取り出したのは、三人の中でもどこか幼い雰囲気の、髪を編んだ娘だった。好奇心いっぱいにぱちぱちと瞬かせる瞼の上、睫毛から水滴が零れてヒタキの上着に染みる。

「それを考える前に、まずこのキノコみたいなのを外さないと駄目よ。物事には順序があるんだから――ああっ!」

 楽しげな言葉を受けて頭巾を取り払おうとした精霊の指に痛みが走った。悲鳴と共に術が途絶え、ヒタキは貼りついたような目を開け飛び起きた。這い、無理矢理に立ち上がって足を縺れさせながらも走って逃げだす。走っているのは、確かに先程降り立ったはずの岩盤の上だった。女たちの姿は見当たらない。

 ただ、声はした。

「やだわあの子針を仕込んでるんだわ!」

「痛い? 縫い針? 釣り針?」

 洞に響いていたのと同じ、壁に跳ねた声がヒタキにも聞こえる。非難がましいがさして慌てた様子もない、調子の変わらない声だ。

 女の姿と共に、ヒタキの竜も忽然と姿を消していた。白い岩の上に居るのはただ一人だけ。

「ヒカタ、……ヒカタ!」

 絡む息を吐き出し、吸って、もう一度吐き出して、ヒタキはやっと声を絞り出す。竜の名を呼ぶ声はヒタキ自身が思うより随分小さい。走っているつもりでも足は上手く動かず、歩くほどの早さしか出ない。それもまっすぐにとはいかず、左に行っては右にと爪先がぶれる。

「ねえ逃げちゃったわよ。折角遊ぼうと思ったのに」

「大丈夫よ、逃げられないわ。だって泉の水を飲んだもの、大丈夫よ、そのうち遊べばいいんだわ……」

「それよりちょっと蜂蜜でも舐めて……」

 それでも。声はまだ聞こえるが、確かに遠ざかって背のほうからになった。

 その幾らかの距離がヒタキに僅かばかりの冷静さを戻させ、手を懐へと向かわせた。覚束ない手も短剣に触れればしっかりと働くようになり、懐から取り出した魔除けの鞘を払う。光を弾き、おぼろげながら顔を映すほどに磨かれた刀身が露わになる。

 鋼の抜き身を心臓と額に当てると、途端、乱れている意識がすっとした。肩や足にも刃を当て見えない糸――蜘蛛の巣でも払って切るように手を動かすと精霊の術が解け、体の強張りや息苦しさも失せる。

 落ち着いてよく見れば立っているのは崖の手前だ。転げていてはただでは済まない高さにぞっとして、ヒタキは一層に強く剣を握りしめた。

「――ヒカタぁ!」

 深く息を吸い、改めて呼ぶ大声が岩壁に跳ねて返る。

「ヒカタぁ!」「ヒカタぁ」「ヒカタ?」「ひかた。呪文?」「名前?」「ヒカタぁー……」「おいでこっちよ!」

 精霊がヒタキの声を真似る。出所が分からなくなるほどに増え、ヒタキの声と思えたものはやがてくすくすと笑い混じりの女たちの声になる。山に居るのはあの三人だけではない。もっと多くの水の精が住んでいるのだ。

「とんだ悪戯娘たちだ……」

 そこらから聞こえる声に顔を引き攣らせながら呟いたヒタキは刃を胸に宛てたまま、空いた手を口元に構えた。

 指を咥えて吹く音はそれなりに響くが、鳥の鳴き声にも似る為か精霊たちは真似をしない。息が切れるほど吹くと眩暈がしたが、その甲斐はあったようだ。木立を突っ切ってくる影がある。

 駆け寄る間に近くの木にぶつかり、幹から枝まで揺らして地に倒れ込んだ。ヒタキは一段と、目が覚めた気がした。

「お前酔っているな――はあ、でも助かった」

 抱え起こしたヒカタの口元からは甘い酒のような匂いが漂っていた。暫く使い物にならぬようにと蜜酒や熟れすぎた果物を食べさせられたのだ。しかし手早く確認したところ、それ以外は大丈夫そうだ。頑丈な竜は多少ぶつかったくらいではなんともない。まだ荷も解かれていなかった。

「……イナサはどうした。はぐれたか」

 酔いもそのうち醒めるだろうが。問題があるならば、イナサが見当たらないことだ。鞍に繋がる縄は解けたのか解かれたのか、少なくともその先には何もいない。

 ヒカタはどこか焦点の定まらぬ目をしてクルルと短く鳴いた。イナサについて言っているのかは、ヒタキにはよく分からない。ヒタキは手綱を握った片手をヒカタの首にがっしりと回しながら、荷を漁って水嚢を取り出した。ヒカタの口に突っ込んで水を飲ませてやる。

 イナサのことは心配だが――とりあえず自らのことだけ考えてしまえば、ヒカタ一頭いれば山を出て帰る翼には足りている。現状はよくないが、最悪ではない。

「しかし三日だと。長いな」

 最悪ではなくとも、溜息は出る。

 本当ならすぐにでもこの山から逃げ出したいところだが、先程飲まされた水はロガンの王賜の食物だった。三口飲んだから三晩、と言っていたから日数も間違いがないだろう。

 飲めばこうなると分かっていながら水の精に言われるまま飲みこんでしまった己が、ヒタキは恨めしかった。すっかり声も聞こえなくなったあたり、気紛れな精霊たちの興味ははどうやら他に移っているようだが――精霊がその気になって見つけられてしまえば、また術にかけられる。

 そうして彼女たちと遊んで約束などしようものなら、二度とこの山から出られなくなるのだ。分かっていても三日間は逃げ出せない。山の中で逃げ回り、どうにか何事もなく過ごしきるしかない。

「夜が来る。まず一晩だ。……王が見つけてくださればきっと助かるのだが」

 己にも言い聞かせるよう、ヒタキは竜に言う。どれほど水の精の膝元で寝ていたのだか、辺りは暗く翳っていた。

 特に何の印もない――精霊の持ち物ではない木を探し、その根元に灰を撒いて地からの術を防いで。抱き寄せる竜の額にも灰を擦りつけ、最後に自分の額も汚す。頭巾も汚れたが構いはしなかった。今度こそ離れることの無いよう竜を抱えた不自由な姿勢のまま火を灯し僅かな水と食事を口にしたヒタキは、マンネンロウの葉を口に含みながらじっと火を見つめていた。剣は抜き身のまま膝に乗っている。

 ロガンの山は、騒がしかったアムデンや静寂に満たされていたクシクシとはまた違う。耳は時折人の――精霊の声らしきものを捉え、そちらを向いた目も薄く白い光を見たりする。何者かの気配がそこかしこで動いていた。

 ヒタキのほうを窺っている者も、無関心な者もいた。話しかけてくる者はまだ居なかった。

 最初は秩序なく動いていた者たちだが、夜が深まってくると皆同じほうへと動き、集まり始めた。人型をしたものが遊びのように崖へと飛び込んでいく。崖を降りた先、その向こうに何があるのか、ヒタキは知っていた。これから精霊たちの集会が始まるのだとも。

 そうしていくつもの精霊が通りすぎ気配が途絶えた頃、人の言語ではない歌声と手を打ち鳴らす音が聞こえてきた。一人のものではなく、大勢のものと聞こえた。とても美しく楽しそうな、甘美な歌だった。歌を辿って行けばきっとよいものがあるのだと、誘うような。

「駄目だ。あれに捕まると帰れなくなる。入るのは簡単だが、抜け出すのは難い」

 首を擡げたヒカタを押さえつけ、ヒタキは囁いた。口元から漂う強い香りに驚いたヒカタが身震いすると口を抑えて笑う。

「これも魔除けだから我慢しておくれ」

 眠気覚ましにもなるその匂いに助けられながら、ヒタキはまた火を見つめた。絶やさず、薪を足していく。そうしてまんじりともせず朝陽を待った。


 朝陽が差し込むのと同時、ヒタキは微睡む竜を起こして空へと上がった。よく晴れて風も穏やか、天候は申し分ないが、今日の空は帰路にはならない。灰で薄汚れた顔が憂鬱に歪むのを擦って、ヒタキは眼下へと視線を滑らせた。

 重なり並ぶ青白い岩肌を、色を変え始めた木々が飾る。壁や地に這う光っているものは水だ。壁の至る所から湧き出て落ち、小さな川を成して何処かへと流れていく。見えるものの他、岩の下にも水は流れている。水の精はそれを道として不意に現れて見せたり、人を引きこんだりするのだ。

 至る所で白布を閃かせる精霊たちが仲間や獣と共に駆けて遊んでいる姿が見えるのは以前にも見たロガンと変わらないが、何処か雰囲気が違った。以前より奔放に、のびのびとして見える。山全体の雰囲気、気配が少し変わったように思える。

 白い娘たちの姿、獣の姿はいくつか見えたが、竜の影はない。

「イナサ、出てこい!」

 ヒタキが叫ぶとヒカタも喉を鳴らして仲間を呼ぶ。答える声は返ってこなかった。ヒタキは一層に眉を寄せ、続けて何度も名前を呼びながら、山の裏へ回るべく手綱を引いた。

 ちらほらと見える精霊は誰を見ても遊んだり寝転がったりして笑い、暗いヒタキとは大違いで暢気なものだ。

 ゆっくりと羽ばたく竜の翼が生み出す空気の流れに風が戯れる。落とすような激しさのないその一筋は、慰めるようにヒタキの頬も撫でて行った。

「イナサ……」

 何度名を繰り返した頃か。じっと目を凝らしていたヒタキは、銀の髪ではない人の姿を見つけて瞬いた。日当たりのよい岩盤に固まって寝転がっているのは、精霊や異形――山の者たちではない。白い布だけではなく、色も形も様々な服を纏った人間だった。

 子供から老人まで、男も女も問わず。肌や髪の色、服を見ても何処の国のものとも揃っていない。数えてみれば十一人居た彼らは下に何も敷かず、重なり合うようにして横たわっていた。倒れ込んでいると言ってもよい見た目だ。

 ヒタキが降りていくと一人の子供が目を開けた。金の髪に緑色の目をしている、可愛らしい男児だった。竜に乗った旅人の姿を見上げて、ぼんやりと寝惚けた顔をする。

「……こんにちは」

「ああ、どうも。これと同じ竜を、どこかで見なかったか?」

 欠伸が混じったような声で子供が言ったのに答え、ヒタキは問うてみる。他の者が起きる気配はない。――否、よく見れば目を開けている者も居たが、焦点を結んでは居らず、とてもまともには見えなかった。

 子供も、うっそりと笑って緩慢に首を振る。もう一度目を閉じることはなかったが、口は半開きの間の抜けた風だった。

「何処から来た?」

「……わすれちゃった。けど、ここは気持ちいいから、いいよ」

「蜻蛉じゃ駄目か?」

 辛うじて噛み合う会話の横合いから不意に飛んできたのは、子供の声ではなく低くしわがれた男の声だった。ヒタキが顔を上げると、こちらを見てはいない男が起きあがらないまま手だけひらひらと振っていた。

「蜻蛉じゃ駄目なのか?」

 上を飛んでいく虫を示して言う。自分に訊いているのだと思い至って、ヒタキは首を振った。

「駄目だね、竜じゃないと。私の竜が迷子なんだ」

「そうか、竜は知らん」

 こちらは酔っ払いの受け答えのようだ。声も酒で嗄れたようだったが、実態は違うだろうとヒタキは思う。彼らは皆――男も子供も含めて皆――酒ではなく精霊の術で痴れているのだ。

 頭の働きは鈍く、しかし心地良く幸福。満たされていて気分がよい。いくら滑らかになっていようと硬い岩の上、しかし羽根布団に包まれて眠るようだ。

「あっちにも何人かいるから、聞いてみたら?」

 割合まともな子供が、二段ほど下がった位置の林を指差す。赤毛の娘が精霊と睦まじく抱き合う様子が見えた。娘は満面の笑みで実に幸せそうだった。

「――そうする。ありがとう、二人とも」

 ヒタキはそちらへは下りずに、再び空へと上がった。こんなところで人間に会うとは思っていなかったが、会って嬉しいものでもなかった。自分の三日後を教えるような光景にむしろ重苦しい気持ちになる。

 夜を明かした場所の逆側に回って見れば、子供の言っていたとおり何人か人の姿もあった。精霊と一緒になって花を摘んでいる子供、若い精霊を抱えて純白の大鹿に跨っている男。一人きりで崖の上に腰掛けて歌っている者も居た。大層美しい、青い絹織物に金刺繍をしたドレスを身に纏っている老婆だった。

 空の上から、時に警戒しながらも降り立ち木立を抜けて、ヒタキはイナサを呼んだ。今日の精霊たちはヒタキの声を真似しなかったが、呼ぶほかに指笛も吹いてはみた。応じる竜の姿はなく、ヒカタが反応してヒタキを窺っただけに終わった。ヒカタの体力を気遣い時折休憩を挟みながらも諦めきれずに飛び回り、山の端から端までを見て回る。

 もう少しあちらまで、と谷のほうへと飛ぶと裾を引かれるような感触があった。ヒカタも何かを感じて下を見ている。見ても何もないが、気の所為かと飛び続けるとまた裾に、袖に、頭巾に、誰かが摘まんで引いたような感触があった。思わず身を捩り払おうとすると、その手を掴まれる。

 強い力で引いたりはしないが、縄か鎖がぴんと張ったようだった。

「……戻ろう、ヒカタ。繋がれている」

 王賜の食物の呪縛をまざまざと感じ、ヒタキは呟いて竜を地上へと向かわせた。

 およそ平らな岩盤に足を置くと帰ってきたような、安心するような気さえするのが、また逆に恐ろしい。此処にいるのが正しいのだと、たった三口飲んだ水が山に体を馴染ませる。

 灰に汚れた靴底は精霊の接触を遠ざけるが、ヒタキは警戒してヒカタに身を寄せながら歩いた。昨晩と同じ木の近くで焚火を熾し、食事を摂り水を飲み、竜を抱えて休む。

 さすがに二日目となると疲れと眠気が襲ってきて、ヒタキの瞼を下げた。荷を漁り、袋から香草を取り出し火に寄せて煙を立たせ簡易の魔除けとして、束の間こくりと微睡む。代わりに起きているヒカタが辺りを見ていてくれる分は安心できた。うとうととしては意識を引き上げ辺りを見回し、耳を澄ましながらまた顔を下げる。その繰り返し、休まりきらない中で、最低限の体力回復を図る。

 時間が経ち、火を使うヒタキの周辺を除いて、辺りはすっかり青い闇に包まれる。虫の声と夜鳥の声が林から響いて、水が動く音がやけにはっきりと、山肌の形を伝えるように立体的に聞こえる。どうしても眠気に抗えず薪を足すのを怠った火は細り、静かに灰になっていく。

 寒さと、ヒカタの小さな鳴き声に揺り起こされたヒタキの瞼が僅かに持ち上がる。

 白い裸足の爪先が横に見えて、紫色の目が見開かれた。

「眠っている? 起きているわね」

「今起きた。何か御用だろうか」

 楽しげな娘の声が問うのに、ヒタキは淡々と応じる。心臓が早鐘を打っているのを抑え、剣の柄を握っておく。

 揺れた肩で見抜いて笑っている精霊は、ヒタキを一度捕まえた三人よりも幼い――十二前後の少女の姿をしていた。膝のあたりまで広がるまっすぐな髪には、水晶のような水滴が火の色を映して煌めいている。

「もうすぐ踊りの時間よ。あなたは踊らないの?」

「ああ、踊らない」

「そお。楽しいのに」

 精霊は見た目より幼い風の口振りで問い、にべもない渡りの返事にも調子を変えずに言った。

 言った途端、水を零したようにぱしゃりと地面に溶け落ちて――一段下がった岩の割れ目からすっと出てくる。見た目は人のようだが、その性状はまったく違う。

 辺りを見渡せば昨夜と同じく、淡く仄かに白く光る者たちが一定の方向へと動き始めていた。もう深夜なのだ。丸く肥えた白銀の月が天頂に近づいている。

 さすがに眠気が飛んだヒタキは、火に燃料を継ぎ足した。息も吹きこみ、また火が赤く膨らんで闇を押しやるのを見てから木の幹に背を押しつけて溜息を吐く。

「ね、顔が汚れているわ」

 次の声には、あまり驚かずに済んだ。一人歩み寄ってくるのが見えていたからだ。

 珍しいことに髪を短く刈っている水の精は、白い己の頬を撫でて示して首を傾げた。薄絹から覗く鎖骨も傾いて、その上からきらきらと輝く水が零れ落ちる。

「元からこんなものだ。ところで今、王は居られないのかな」

 精霊への対応自体は慣れたものの東西の渡りは、中身はともかく丁寧に一問一答受け答えをして、代わりに問いを投げた。水の精は今度は両手で頬を撫でまわしながら、少し考える素振りを見せる。

「今お出かけしているのよ。ウェンデヌのお山に居るわ」

 国の名まではっきりした返答に、ヒタキは大いに落胆した。精霊は隠し事こそしても、嘘は吐かない。

「……ああ、そうなのか……もうすぐお帰りになるだろうか?」

「多分すぐよ。だからそんな顔しないで。抱き締めてあげましょうか? その顔は洗ってからにしてほしいけど」

 せめてもと態度と声は保って重ねた問いへの返答は、まだ幸いとも思えたが。

 ヒタキは自分がどんな顔をしているか分からなかったが、目の前の美女がよほど悲しそうな顔をしてまったく悪意のない振舞いで手を広げてみせたのに、思わず笑った。

「いや結構、ありがとう。踊りを楽しんで来てくれ」

 ヒタキが笑ったのに笑みを返した彼女は、ちらと窺いながらも他の精霊たちの列に戻っていく。はーっと、ヒタキはまた長い息を吐いた。

 彼女たちは気まぐれで、まるで興味がないのかと思えば質問責めにしたりもするし、興味を持ったかと思えばすぐに癇癪起こして話しかけても答えてくれなくなったりもするものだ。純真で、人にとって恐ろしいことをしたりもするが、楽しんでいるだけで悪意はないことが多い。どれも同じような姿に見えるので身構えるが、誰もがヒタキをどうにかしたいわけではないし――あの三人の精霊ももうそういう気は失せているに違いないなんて、ヒタキは願っていた。

 また、歌声が聞こえ始めた。手を打ち鳴らす音と共に木霊する。旋律は繰り返し、繰り返し、途切れなく終わりなく続いていく。女たちがしなやかに肢体を逸らせて踊る様が、ヒタキには想像できた。

 一度見たことがあるのだ。その時はこのような一歩間違えば危険な状態ではなく、王の庇護ある、王の傍らで眺めていた。

 高台から見下ろす下にある、星に似た形をした澄んだ湖。その静謐な湖面に居並ぶ大勢の水の精。誰からともなく歌い始め、ステップを踏み、手を取り合い輪になっていく。そして何回も歌を繰り返し、何周も踊り回るのだ。時折、両手や片手同士を合わせて鳴らしながら。

 毎夜の宴だが、満月の夜は一層に楽しい。すべての精霊が集い、彼女たちの古の言語で山と王を讃え、自然を讃えて笑う。今、湖の上で事も無げに立つ水の精たちの中には人も交ざっている。精霊に招待を受けた彼らは何も困ることがない。鏡の如き舞踏会場の床を素足で踏みしめ、精霊たちと共に踊るのだ。

 人々は皆夢見心地で、その美しさと心地良さに酔い痴れる。他のことは何も、考えることはない。閉じた円環の中にこそ永遠がある。精霊の合唱は呪文の如く、水面に映った月を囲み回るほどに笑い声と歌声が混ざりあい、世にも美しい旋律になって山を満たしていく。

 ヒタキを攫った三人が、屈託のない長い髪の少女が、慰めた短髪の娘が歌い。ヒタキが竜の居場所を尋ねた男児と男が、精霊と抱き合っていた娘が、歌っていた老婆が手を鳴らす。皆一様に輪になって踊り明かす。

 やがて――水の精が伸ばした腕を互いに絡ませる。弛ませ柔らかく体と共に揺らすうち、細くしなやかな腕は骨が抜けたように波打ち始めた。

 精霊の娘は人間たちを抱えながら、白蛇へと転じていく。銀の髪も白い肌も、纏う薄絹さえもすべて濡れた鱗の肌に変わる。何匹もの白蛇が絡み合い、輪の形を保って月光と水と夜の色をその鱗に移し、青白く光を放ちながらうねる。

 それは花冠のようでもあったし、内に据えた丸い月と共に、大きな蛇の目が開いたようでもあった。蛇の口からでも歌声は絶えず、のんびりと動く月を追い掛けながら、輪は回り続けた。

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