二の三 クシクシ日々
クシクシという国の名は、その国の王や民に聞いた名ではない。他の国の者たちが「あそこはクシクシと呼ぶ」と言うのを、ユカリもそのままに採用したものだ。
クシクシに住まう者は非常に言葉少なで、何か言ったとしてもそれは口ごもり気味の早口であったりして、聞き取れることは少ない。聞き取れた場合は大概その者に向けて発した言葉であるので意味が分かるが、普段はどのような言語で話しているのかも定かではないという。大変に古い言葉で話したと言う話も、アムデンで遭った妖精たちが使うような言葉で話したという話も、ある。
彼らを、ヒタキたちユカリは見下ろしと呼ぶ。何処に居ようが、向かい合えば必ず見下ろしてくるからだ。
彼らはぬっとした、黒い毛むくじゃらだ。ぼうと光る目玉二つだけが付いた顔をしており、頭も首も胴も分からぬ寸胴で、背丈は必ず相対するものより高くなる。手らしきものは確かに横から伸びているが、背と同じでこれも長さが一定ではない。何処までも伸びる。足らしき部位は見えず、毛を引きずって歩いている。歩くが、何処からともなく出てくることがある。目が合うと、見下ろされている。
見下ろしは皆同じような外見をしているが、個性は実は豊かだ。年老いるごとに苔や蔦が体を覆うようになるし、頭頂を中心に体を様々に飾るのだ。
花や石ころ、茸や苔、ネズミの頭蓋骨に、人の落とした物や鳥の巣。
今ヒタキの前に居る見下ろしは、木を載せていた。熟れた林檎の実の紅色が、ヒタキの位置からはちらとだけ見えた。ヒタキとその竜たちはただ地面に立っているので相手の見下ろしも驚くほど大きいということはなく、多少背が高いという程度だ。
「素敵だな、前よりいいよ」
褒めれば喜ぶ、悪いことは言わないほうがいい。人間相手より純粋に、好意には好意が返ってくる。ただしそれは自分たち人間が喜ぶかたちとは限らない。ヒタキが先の渡りたちから教わり、異形たちと交流していく中でも学んだことだ。
薄白く光る眼が細くなり、はにかんだ気配がした。すうと腕を伸ばし、頭上の木で熟れた林檎を捥ぐ。彼の頭の上にあるからだろう、鳥に突かれた痕も虫食いも無い綺麗な果実は、ヒタキの眼前に差し出された。
「くれるって? ありがとう。いい弁当ができた」
ヒタキは微笑んで応じた。この静かさは、騒がしいアムデンを経た耳にはありがたかった。此処も長くいると結局疲れてしまうのだと、ヒタキは経験で知っていたが。
どうにか何事もなく二つほど山を越えてクシクシに入った後、ヒタキは竜たちを地に下ろして歩かせている。飛んでいて下を見て、目が合ったと思った瞬間には見下ろしが立ちはだかっていて衝突するから、空は危なくてかなわないのだ。下を見なければ大丈夫だが、今回は通りすぎるのではなく目的地、降りて動き回るときなどはそうもいかない。
ヒカタが石に躓き手綱が引かれる感覚に、ヒタキは後ろを向いた。ヒカタはヒタキの竜であるからすぐ後ろについて、その後ろにイナサを続けたのだが――歩くのはイナサのほうが大分上手く、気づけば横並びだった。獣道は窮屈そうだ。
林檎の木の見下ろしは、出迎え案内のつもりなのか、ヒタキが進む道の先を行っている。
ヒタキは貰い物の見事な赤をとっくり眺めて、腰の麻袋に押し込もうとして失敗した。何も掴めず空振った左手を開閉し、代わりを見繕わないとと思いながら右手に果実を持て余す。
そうして坂道を登っていった先、ふっと、開けた野原に出る。ユカリの里も思い出すような光景だった。しかしそこには――アムデンの鳥たちもそうしていたように客を迎える異形たちが大勢集って、不気味な雰囲気を醸していた。
青草と枯草が混ざる野に、見下ろしが輪を成している。羊歯を前髪のように垂らしたもの、種々のキノコを肩と思わしき箇所まで並べているもの、大きく見栄えのよい枝を鹿の角の如く据えたもの……様々な見下ろしたちが集っていた。その中でも一際背が高く胴回りもあるのが、この山の王だ。
蔦の冠を戴いた王の体は、その経てきた時間の長さを表すようにびっしりと苔むして種々の植物に塗れ、緑色をしていた。他の物がまだ斑模様程度であったりするのに比べ、なんとも風格がある。山の一部であるかのその姿は彼だけ見下ろしでないように見せるが、変わる背丈と伸び縮みする腕は同じで、その素性は変わらない。
「お久しゅうございます、王」
他の者たちと同じく王も静かに佇んでいたが、ヒタキが声をかけると待ちわびていたように寄ってきて、林檎を持たぬほうの手をとった。上に、小さな紅い粒を落す。
「……三日ですか。今回は随分短いですね。何か御座いましたか?」
三粒の苔桃。滞在許可証とも言うべき王賜の食物は、たったそれだけの量だった。
以前に来たときは、数えたものなのか適当に持った物なのだか、手に溢れんばかりに載せられたのを、ヒタキは覚えていた。苔桃に限らないが、その前も、更に前もそうだった。
客の問いかけに、王も臣下か民か知れぬ者たちも、黙ってじいっとヒタキを見つめた。睨んだわけではなかった。見つめていた。言葉よりも雄弁だった。
「失敬、仰りたくないなら結構です。三日、居させていただきます」
ヒタキは頷いて苔桃三粒を一口に放り込み、そこそこに噛んで飲み下した。疎まれているわけではなさそうで、それなら、早く帰れるのだからよかった。
ややあって、きらきらと日の光を撒く水晶のついた石をティアラのように飾ったなかなか緑色の面積が多い見下ろしが、赤地に白い斑入りの葉がついた白い枝を持って来る。斑の模様はよく見れば文字になっており、葉によってそれぞれ違う。「南の岬で大火事……」「ユシアの王子……」などと書かれていたりする。
クシクシで受け取るものは予言だ。どのような巫女や占い師が出すものよりも正確な予言が書かれた葉をつける枝を一つ。差し出される葉に浮かび上がる文字はちゃんとヒタキたちに理解のできるもので、自然にあるものなのか見下ろしたちが何らかの方法で準備しているのかは不明だ。葉の色が目立ちそうな冬場、この山を遠巻きに――見下ろしにぶつからない為に真上にはしなかった――一周したユカリも居るが、木そのものは見つけられたことがない。
今日渡された枝は十五枚も予言の葉が付いていた。滞在期間が短い割に、いつもより多い。
ヒタキにとっては大層ありがたかった。予言は規模も雰囲気も無秩序でたまにハズレもあるが、葉の一枚で値をつけて売るのだ。当然多いほうがよい。
「ありがとうございます。――ヒカタ、おいで」
恭しく、林檎を持つ手も添えて受け取ったヒタキはすぐに竜を呼んだ。
予言の葉は千切らぬ限り枝から落ちたことはなかったが、うっかり何かに引っかからぬとも限らない。用心して、アムデンで捕らえた蝶と同じように袋ですっかり包んで、鞍に括りつけておく。
林檎も荷に押し込んで、代わりに奥から引っ張り出すのは一冊の本だ。革装丁の表紙は古びて擦りきれ剥がれている部分さえあるが、そんなことは此処ではどうでもよい。イナサの手綱代わりの縄を外してやって、尾の魔除けはそのままに、ヒタキは辺りを見回す。
日没にはもう少し余裕がありそうな日の位置を確かめついで、丁度よい岩を見つけると一人で頷く。
「さて、まだ日は暮れないようですし、早速読みましょうか。今回は恋物語をお持ちしてみましたよ。北のほうの国で大層流行ったものです」
ヒタキが本を掲げて岩を示すと、見下ろしたちは揃ってそちらへと移動し始めた。黙って静かに動く様はやはり異様だ。
予言の対価は物語だ。人間が作った話を見下ろしの王は大層気に入っているようで、冒険譚でも神話でも、はたまた妖精や異形に関する物語や怪談、宗教の説教に至るまで分野は問わずに聞きたがる。
記憶を頼りに語っていた時期もあるが、見下ろしたちは一度聞いた話をちゃんと覚えていて二度目を許さないので、次以降は別の話を持ってくる必要があった。その為本を持って、これは読んだと記録しておくのが一番やりやすかった。勿論読む本がなくなってしまえば記憶頼りや即興の物語りをするしかなくなるのだが、滞在三日の今回はその心配はなさそうだ。
表面の滑らかな岩を椅子にして腰掛け、ヒタキは留め紐を緩めて頭巾を外した。汗ばんだ黒髪が涼しく心地良い風に遊ばれ、意識がすっとするように感じられる。
本を開き、紫の目でこの山の王を見遣る。他の見下ろしたちと同じく突っ立ったまま、ヒタキを見下ろしていた。これがこの読み聞かせの基本姿勢だ。読み手の他は誰も座ったりしない。読み手は立っても座っても、寝転がっても咎められることはない。ただ物語を聞かせさえすれば、それでよいのだ。
それでは、と呟いて、ヒタキは本を音読し始めた。
恋物語の始まりはありきたりなものだ。ある陽気な港町の祭で男女が出会い、恋に落ちる。女は貴族の若い娘で、男は年の近い旅の詩人――渡りだった。美しい二人の恋と愛は膨らみ燃え上がるが、身分差と周囲の環境が二人を阻む。浮かれた祭で出会った男とのふしだらな関係、しかもどこの者とも知れぬ渡りが相手では、貴族の当主が許すはずもない。
また男には夢があった。旅向かう遥か大国の宮廷で歌を披露し、詩人として最高の栄誉を手に入れるという夢が。また女には婚約者がいた。家の繁栄と自らの暮らしを約束する権力を持つ誠実な王子が。障害や問題はいくらでも、二人の未来の分だけ、百以上にありそうだった。
全てを取ることは到底叶いそうもない。けれど二人は出会ったが為に、愛し合わずには居られなかった。苦悩してでも。それが恋というものだ。
――というのを、紙とインクを尽くして書いてあるだけ、どこも省略や脚色をせずに、ヒタキは朗々と聞かせて語った。見下ろしたちは皆興味深そうにしているが、寡黙な彼らからは質問や意見は飛んでこない。驚く声も歓声も、溜息なども、何一つ。
子供に物語を聞かせるようなものだが、その時間の長さを除けばただ読み続ければよいのだからまだ楽なものだった。反応が大してなくてつまらない、とも言えるけれど。
「――あの金糸を手繰り、花の色をして香る肌に顔を寄せて眠る夜を思い起こすのだ。……今日はここまで」
差す日がすっかり橙色に変わった頃、二つ目の章の区切りに差し掛かり、ヒタキは僅かな余韻を持ってから告げて手近な枯草を引っこ抜いた。栞として挟んで本を閉じ、岩から降りると冷えて固まった腰から下を叩いて、背を逸らしたり肩を回したりして体を解す。
「また明日、天気がよければこの場で。雨が降ったら何処か雨が凌げる場所で。王がいらっしゃったら続きをお話しします」
明日この場で、と開けた場所で言ってしまったのでどうしようもなく雨に濡れながら物語りをしたことがあるとケリが伝えてから、ユカリたちの約束の文句は一層丁寧なものになっていた。
背の高い王を見上げて告げ、ヒタキは胸に手を当て恭しく一礼する。
「また明日」
夕焼けの原に佇む奇妙な杭か柱のような異形の影を見渡して繰り返し宣言すると、音も無く静かに解散と相成った。見下ろしたちはそれぞれ、方々に静々と歩いて行く。余所を見ていて振り向くと消えているものは、見ぬ間に地に溶け込みでもしたか。森に入っていけば木立の影に紛れてすぐに分からなくなる。
彼らが何処に帰るのか、何処から来るのかを、ヒタキたちは知らない。
「ヒカター、イナサー」
ヒタキはもう一度伸びをして、欠伸交じりに竜の名を呼んだ。丈のある草の繁ったほうががさがさと揺れて、二頭が飛び出して来る。ヒタキが見下ろしたちに読み聞かせをする間にうろついていたらしく、鞍や荷の表面は草の実や虫がついていた。
「お待たせするのはよくないと思ったが、先に解いておくべきだったかな……寝床はあっちにしようか、」
眉を寄せて払いながら竜たちを促す。また同じ場所でと宣言した以上あまり遠くに行くつもりはなく、あっちと示したのは草も短く平らで、天幕を張るのに手頃な木が並ぶ辺りだ。
クシクシの山は何人ものユカリが繰り返し訪れており、禁域もほぼなく、魔法で地形が変わることもないので地形の把握は済んでいる。少し東側に降りて行けば岩場と滝があって、水浴びや煮炊きなどもできることも知っていた。
手慣れた調子で縄を張って布をかけ、杭や錘をつけて端を固定すれば適当な天幕の完成だ。多少の雨風は凌げて、布を重ねて敷けば寝そべってもつらくない。もう一つ大きな布で屋根だけ作っておくのは竜の分だ。
竜を見張り番に盗まれる心配のない荷を置いて少し歩けば、記録と覚えのとおりに清水を湛えた滝壺に辿りつく。あまり大きな滝でもなく岸部の離れた所に構えれば飛沫は感じられないが、この季節だと寒く感じるほどに涼しい空気に満ちている。
澄んだ水を汲んで火を熾し、食事も天幕同様簡単に作ってしまう。今日は干し肉を戻して香草で風味づけした即席のスープに、表面を焙ったパンにチーズを挟んで食べる。温かい物が二つもあれば上等だ。
食べ始める頃には辺りは暗く、空気はより冷えた。人の国から見上げるものとも変わらぬ星を眺め、黙々とパンを噛んでスープを啜る。竜たちはその辺の草を食めばよいから放っておいて構わない。
スープとは別に湯を飲み食事を終えるとヒタキは紙を広げ、糖分補給の蜜人参の乾し物を齧りながら手早く記録を綴った。アムデンで妖精に襲われたこと、クシクシの様子が変わりないこと、また通り過ぎてきた山々の景色で気になったこと。その他、決まった事項や覚書。
それが終われば、ヒタキはすぐに火を崩して寝床と決めた場所へと戻った。クシクシは平和だが、暗くなると人は一層弱くなる。彷徨う妖精相手でも惑わされかねない。ちらちらと見える緑色の光は、高い木の梢から離れる気配はないけれど。
「遠くに行くのではないよ、ゆっくりお休み」
二頭の竜がちゃんと揃って天幕の下に居るのを確認し、四つの目が何かと問うように自分を見たのに笑ってヒタキは言った。狭い天幕の中に引っ込み荷を枕代わりにすれば、穏やかな呼吸が寝息に変わるのはすぐのことだった。
夕暮れにはどこかに帰っていく見下ろしたちが出てくるのは夜明けではなく、真昼過ぎ、日が天辺を過ぎる頃だ。それまでは何処に居るものだか知れず、渡りは特別にすることもない。山はただの山のようで、動物や虫の気配をたまに感じる程度、不思議なことも滅多に起こらないのだ。
だからのんびりと起きだしたヒタキは昨夜とは違い竜を連れて水場まで歩いた。顔を洗い、布と服をいくらか洗い、竜の体も濡らして拭う。その後昨日貰った林檎を食べて半分は竜たちにくれてやる。大したことのない労働と食事は、ようやく昼前と呼べる程度の時間には終わってしまった。
暇を持て余すが王賜の食物を口にした以上、外に出る選択はない。そもそも外に出ること自体が困難で――クシクシの王は三日間語り部を離す気は無いだろうから、離れただけで機嫌を損ねるかも知れない。逆に他の者に連れ去られそうになったりすれば守ってもくれるだろうが。その山の呪力が良くも悪くも効いているのが、今のヒタキの体だ。
仕方なく早すぎる昼寝を挟んで、そろそろ昼になろうかと言う頃再び起きだしたヒタキは頭巾を被らないまま原の約束した場所を目指した。読み途中で枯草を挟んだ本だけではなく、水嚢と小さく切った紙と鉛筆、中で物が触れ合って音を立てる布包みを持っていく。白地に赤の唐草模様の布は何かのシミも目立つ薄汚れた物だが、それは気にしない。
皆が集まり王が姿を現したところでヒタキは読み聞かせを始める。というのは宣言したとおりだが――王が来るまでは取引の時間だ。
ヒタキは岩に座らず、草が高々繁っていない所を選んで布包みの結び目を解いた。広げた中から現れるのは種々のガラクタ。何かの部品や小さな玩具、布の切れ端から某国の小銭、木製のビーズを通しただけの首飾りまで、大きさも価値も色も古さも何も纏まりなく無秩序だ。ヒタキはその横に座り込んだ。
灰金色に枯れた原で暫し、待つ。草の匂いと感触は寝ていた時よりも乾いて感じられ、日が高くなれば体は温かかった。胡坐を掻いた足の上に置いた本を撫でて、遠くで戯れる自分の竜の声や虫や鳥の鳴き声を聞いて、昼寝の続きのような微睡む時間を過ごす。クシクシはその住人の異様さとは裏腹に、何処か牧歌的だ。危険なこともそうない為、心地がのんびりとする。ヒカタとイナサも主から離れ、そこらで戯れたり日に当たって昼寝をしたりと、すっかり寛いでいる。ただしこの山での仕来りとして癖についているのか本能か、高く飛ぶことだけはしない。
ふと、気配を感じて振り向く。僅か傾いだ日を背に見下ろしが佇んでヒタキを俯瞰していた。待っていてもその姿にどきりとするのは否めない。危害を加えた例は聞かない彼らだが、ヒタキにとっては随分異質だ。向こうもそう思っているかも知れないが。
「さ、何かいい物があれば、交換しようじゃないか」
ヒタキは口角を上げて、いくらか持って来た人の国の、なんてことはないものを示した。
腹を模様のように苔で覆われただけで後は黒い、若い部類なのだろう見下ろしは頭に載せただけに見える木の葉を落とすことなく、器用に広げられた物を覗きこんだ。腕を伸ばして弄繰り回し、時に顔の前へと持っていったりする。
そうするうちに他からも見下ろしたちが集まってきた。そして最初の見下ろし同様、ガラクタに寄っては品定めを始める。彼らは気になった物があると手を伸ばして矯めつ眇めつ眺め、頭に載せて具合を確かめて、気に入ると代わりの何かを布の上に置いた。
頭に載せていた物を交換にすることもあれば、何処からか持ってくる物もあった。ヒタキは、その良し悪しに対して口出しをしない。持ちこんだのも元よりガラクタのようなものだ。価値は相手が決めればよい。予言の葉と同じく、偶に優れたものが混じってくれさえすれば、十分なのだ。ヒタキが持って帰ることに配慮しているのか、それともそうした物は渡したくないのか、岩や木の丸ごとなど、困る物が無いのは幸いだった。
十ばかりの見下ろしが入れ替わり立ち代わりに現れ、時に物々交換をし、時にしないで場所を変える。ヒタキはそれを興味深く眺めて、一応のメモを取る。
鉄釘と交換に胡桃の殻を、僅かながら朱色の糸が巻きっぱなしの十字糸巻きと交換に握り掌ほども大きさがある金を塗したかの煌めきを持つ赤い宝石を、青い釉薬がけの欠けた茶碗と交換に鹿の角を、片割れを失くした絵合わせの札の交換に何かの卵を。
どこが気に入ったのか交換の決め手なのかは、ヒタキにはさっぱりだ。時にはいつだか、ユカリたちが持ち込んだ物が戻ってくることもあった。今も、いつか誰かが荷物に詰め込んだ覚えのある筆の先がガラクタの山に落とされた。
「――ああいらっしゃった、それでは始めましょうか」
いくらか過ごし更に日が傾いた頃、他の見下ろしたちの背後からぬっと、深く苔生した大きな見下ろしが現れた。他ならぬ王の登場とヒタキの言葉に、皆顔を見合わせて少しずつ離れていく。ガラクタを見るのと読み聞かせの距離は違うようだ。
中身がいくらか変わった――人の目で見れば価値のありそうな物は増えたガラクタにおざなりに布の端をかけ、ヒタキは立ち上がり一度背筋を伸ばしてから岩に腰掛けた。
長い栞がはみ出す頁を迷わず開くと、物語の続きが日に晒される。古い紙は近頃の物より漂白が甘く、この野原にも似た色をしていた。章扉の挿絵に、背を向けた男女が立っている。
「それから七日、二人は互いの姿を見ることも、声を聞くこともなく過ごした。七日が七十日にも七百日にも感じられる――」
見下ろしたちが皆ぴたりと動きを止めて落ち着いたのを見計らい、深く息を吸ったヒタキの声が滑り出す。高からず低からずの落ち着いた声は原を満たすことはできずに、語る端から少しずつ風に流れていく。
物語は、両親に男との関係を勘付かれた女が部屋に閉じ込められ逢瀬も叶わない日々を繰り返し、貴族の女としての使命を説かれるところに入った。曰く、子を成すこと、家と家を繋ぐこと、一族の繁栄を願うこと、弁えること。父親は怒鳴り、母親はそれを宥めては静かに諭す。
「何も貴女が憎いから言うのではないわ。貴女の幸せを願わないわけではないわ。むしろ願うからこそ。母の言葉をお聞きなさい」
女の手を握り母親が言う台詞を読み上げるヒタキの頭に、早く子供を作れという親戚たちの言葉が頭に過ぎる。家の為を思え、それが自分の為にもよい――と繰り返す言葉が、一族の為にもお前の為にもという声と重なる。
せめて伴侶を連れてくるだけでも。此処に来る前にも言われたが、頭数を増やし跡継ぎを作るのは一族の存続に重要なのはヒタキも重々承知してはいる。何処にでも転がっている問題だ。しかし次世代はアイサともう一人が居るし、マトリもケリもまだ若い部類だ。シナヒとシトトも、勿論ヒタキも、まだ渡れる。人より長く生きられるだけに、まだよいだろうとヒタキは反発する。
まだ、そんなものを作って、大変な思いをしなくてもいい――……
「あの人に会えないままだと思うと、恐ろしくてたまらないのに? そうして過ごすのが幸せだと言うの、」
読み聞かせの為に声を出しているのは幸いだった。深く考える前に次へと進まなければいけない。見下ろしたちはその辺りに非常に寛容でたどたどしい朗読でも満足はするが、読み間違えや読み落としがなるべくないように、作業として没頭する。物語に移入するのではなく、こなしていく。
重苦しい場面が続き、女は女中が鍵をかけ忘れた窓を開いて灯台の火を眺める。男を想い家を思い煩悶し、いっそ海に身を投げてしまおうかとまで思い詰める。
「私の手は二つあるのに、二つを選ぶことはできない……」
長い女の独白。その果てに、彼女は男の歌う声を風に聞くのだが――そこに行く前に、ヒタキの声はふと、息継ぎや間を開けるのより長く途絶えた。夜にはまだ早いと思っていたのに暗くなって手元が翳るのに、すわ雨雲でも出たかと見上げ、ぎょっとする。
丸く見開かれた目には闇の色と小さな光が映ったが、それは夜空でも雨雲でもない。見下ろしたちがヒタキを取り囲み、空ばかりか周りがほとんど見えぬほどに、寄り添って背を伸ばしていたのだ。黒い体の上のほうで、ぽつぽつと、二つずつ揃った目玉が見える。
ヒタキが言葉を失い続けていると、彼らはゆら、ゆら、と体を揺らし始めた。そわそわしている、といってもよいかも知れない。
それで、何か怒らせでもしたかと背筋を冷やし考えていたヒタキは一つの可能性に行きついた。こんな異様な光景ではなかったが、こうした状況に覚えがあったのだ。
「……これでは暗くて読めないよ。空を見せておくれ」
ヒタキが本を読み上げるのではなく呼びかけると、見下ろしたちはぴたりと動きを止めた。覆いかぶさるようになっていた体をまっすぐに伸ばし、横との間隔を作るように少しずつ後ろに下がっていく。日は決まったとおりに傾いていたが、雲は少なくまだ明るい。
本に夢中になって身を乗り出してくる子供の姿を見下ろしたちに重ね、ヒタキは小さく笑った。誰も何も怒ってはいないようだ。王は何処か微笑ましげに見守って話の続きを待っているようにも見えた。油断してはならないのが東西だが、此処は本当に長閑で助かるとヒタキは思った。
苔桃三つ分の日は穏やかに過ぎた。静かすぎはするが三日なら堪えるほどでもなく、見下ろしたちはヒタキに随分優しかった。
ヒタキが声を出すのに疲れてくると、見下ろしの王は何処からともなく淡い蜜色の甘い飲み物が満ちた石の器を持ってきて手渡した。木の香が漂うそれは不思議な味わいで、一口飲むと喉の調子がよくなり、一杯も飲めば常より張りのあるよい声が出るようになる。ほとんど声を出さず喉も口も見えない見下ろしがそんな物を知っている理由が気になりはしたし、これを手に入れられたなら商売になるとも考えたヒタキだが、すぐに欲を出してもよいことにはならぬと考え直して、その効能だけを有り難く頂戴した。他の者たちも、何処からか新鮮な果実や魚を持ってきてはヒタキに与えてから帰って行ったので、二日目三日目のヒタキの食事は苦労もなく充実した。
恋した男を恋したままの姿で留めたい、と女が旅立つ男を見送り終わる恋物語を読み終え、子供に聞かせるような短い教訓話をいくつか収めた本からも話を取り出して。ヒタキのクシクシでの務めは無事に終わった。ついでのガラクタの交換では見たこともない桃色の種なども集まって、確かに利益が出たと言える結果になった。
「では此度のお話はこれで終いとさせていただきます。次はまたいずれ、私か他の誰かが」
そうして結んで、見下ろしたちが夕焼けの中何処かに失せるのを見送って。一晩寝て起き、冷たさを我慢しながら水を浴びて出立の支度を整えたヒタキを待っていたのは、林檎の木を載せたあの見下ろしだった。滞在の日が過ぎたことを教えるかの眼差しに頷き、ヒタキは乾いた髪の上にきっちりと頭巾を被った。
今度は見送りらしく、ヒタキがすっかり荷を纏めたのを見ると三日前に来た道を先導し始める。鞍や手綱、繋ぎの縄もしっかり据えた二頭の竜を連れ、ヒタキはその後ろに従った。
他の見下ろしの姿は見えなかった。気配を感じたように思っても、何処を見渡しても黒い姿は視界に入らない。進むべきほうを見遣れば、林檎の木を頭に載せその枝に首飾りを引っ掛けた見下ろしが歩いて行く姿があるだけ。クシクシの山は静まっていた。
「……見送りありがとう」
やがて山を大分下り、最初に会った辺りまで辿りついたようだ。立ち止まり振り返った見下ろしの横に並び、ヒタキは彼を見上げて言った。
返答は勿論期待せず、愛想笑いをしてヒカタとイナサを呼ぶ。鞍に跨りもう一度見上げ、それでは、と口を開きかける。
「キョーツケロ」
ヒタキの肌が粟立った。声は耳元で聞こえた気がした。若い娘が囁いた、そんな声だった。けっして聞き間違いではないはっきりとした響きで、ヒタキの耳を打った。
林檎の木の見下ろしは、じっとヒタキを見つめている。
気をつけろ。
そう言ったのだろう。労い、友好の為の挨拶と思えば有り難いが、不穏だった。何せ普段は一言も発さぬ異形の言葉だ。耳に残るその響きと言い、大変に重い感じがした。
「……どうも」
どういう意味か訊こうとしたが、視線に気圧されてその言葉を飲みこみ、ヒタキは笑顔を作りなおした。先程より随分不出来に強張ったのは仕方がないだろう。案の定、見下ろしは黙って帰る客を見つめ続けるだけだった。
ヒタキは落ち着かない気分になりながらも、ヒカタたちを空へと促した。上昇に従い、飛びあがる竜に少し身を引いていた見下ろしの背は伸びた。辺りの木々と変わらぬほどだ。
そうして彼――声音からすると彼女なのかも知れない――は、遠ざかるヒタキを暫く見送っていた。振り返る気にならないヒタキの背が遠ざかったところで、ぱっと消える。
別の山の上に差し掛かったところで、ようやくヒタキは気を取り直すような息を吐いた。
「さて――一っ飛びとはいかないものな、いくらお前たちでも」
見下ろしのあの声はまだ耳に残っているような気もするが、振り払うように。三日朗読を続けていた喉でも声はするりと出た。
アムデンを中継した片道はよかったが、帰りに寄れないとなると少し困る。クシクシからでは、一日、一晩飛び続けても人の国の側には出ないのだ。無理に飛び続けて疲れるよりも、一泊何処かで休むべきだった。
微妙に回らぬ頭で行き先の峰を眺めていたヒタキは、ややあって先程よりも短く、ほっと息を吐いた。受け入れてくれそうな心当たりを思い出したのだ。
行く手の南側に見えてきた岩山。青白い岩肌が多く覗き、三角形を重ねた模様が白い塗料で描かれている。ロガンという国だった。
あの山の王なら親しい部類の知り合いで、話が分かる。酒の一瓶で一晩くらいなら身を置かせてくれるだろう。