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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
2/17

一 ユカリの里

 ヒタキとヒカタは風も穏やかで慣れた空を飛び、港町を含むいくつかの人里と森を越えた。その頃には太陽はすべての姿を空に現して真上に座し、大地を明るく照らしていた。見下ろす陸地は青々と、繁った木々や草原の色に染まっている。所々には花の色も見えた。

 ユカリ一族は他の人間たちの近寄らぬある深い森の奥に、呪術で身と家々を守って暮らしている。木立と水路で作られた結界は他者を拒み、門を知る一族の仲間と客人だけを招き入れるものだ。海から半日も飛び続けて、辿りつく。

 より濃く繁る樺の木の森へと翼を広げたヒカタが器用に滑りこむと、空からは見えなかった開けた原が現れる。木に遮られずに明るく、広々と空を見渡して延々走り回っていられるだけの広い野原だ。そこに在る石積みの平屋がヒタキたち東西の渡りの生家だった。家と呼べるほど大きな建物は五つあり、小屋としか呼べないものは七つある。うち一つは家畜を飼うものだ。まったく別に、竜を飼う為の平屋も存在していた。どれもが頑丈で、数は少ないながら豊かな村の様相だった。

 此処には今、ヒタキを合わせて十二人の渡り、十頭の竜が住んでいる。とはいえ、老いたりして体の付いていかなくなった者以外は渡りとして他の国々に赴いている時間も長いので、一同に会することなど百年単位で無い話だが。

 眼下、井戸から水を汲んでいる女にヒタキが気づいた直後、女も竜の姿に気づき俄かに明るく華やいだ顔をした。顔立ちは特に似ていないが、髪から肌から薄明のような淡い紫の瞳まで色の合わせが同じなので、繋がりを他者に感じさせる見目だった。

 水桶を置き、降りてくる竜に駆け寄る彼女はヒタキと同じく東西の渡り、従姉に当たるケリだ。二十歳頃の見目で未だ引退はしていないが、子育ての為に家に留まって長い。ここ数年、ヒタキは帰る度に顔を合わせていた。

「お疲れ様、そろそろ帰って来る頃だと思ったわ」

 偶然にも出迎えとなった彼女は、着地が不得手な竜の大分手前で一度立ち止まった。短い足を地面につけたヒカタは数度無駄に足踏みをしてようやく止まり、動かし続けていた強靭な翼を畳む。それから近づいたケリが顎を撫でると、クルルと喉が鳴る。

 ヒタキは頷きながら頭巾の留め紐を解き、刺繍で飾られた額の辺りを鷲掴みにして乱雑に外した。結い纏められてなお豊かに膨らんだ黒髪が背へと広がる。鞍から降りて頭を掻くと湿っぽい感触がするのは、汗の所為か海に居た為か。

「何日経った?」

「ヒタキが帰ったよ! ――こっちじゃまだ十五日ばかり」

 ケリは家の内へと叫んでから、早口にヒタキの問いに応じる。言いながらもその手は竜の体に括られた荷にかかり、解くのを手伝い始めている。

「サウーラには三月くらい居たことになってるから、大体見立てどおりだな、結構結構」

 ヒタキはやっと、何の気がかりもなく、無事帰ってきたという心地になった。

 人々が住まう土地と東西では、時の流れが違う。何年も過ごしたと思ったのに七日しか過ぎていないこともあれば、ほんの一晩だけ居たはずなのに戻ってくると百年経っていたという伝承もある。彼の地は人の身にとって常若の国に近く老いることはあまりないが、その代わりに、そうして何かを奪い去ることがあるのだ。

 ユカリの一族は東西に渡る際、このずれた時の流れを読むことによって様々な問題を避けている。たとえば、帰ってきたら一族が絶えていた、というようなことのないように。そうした調整の術を知っているのもまた、東西の渡りであるユカリゆえだ。

 しかし体感、過ごした時間と戻って来たこの地での年月の差そのものは避けられない。その為に、一族の者たちの見目と精神の成熟や老化は一致しない。ヒタキの見目は十代の半ばほどだが、東や西で過ごした時を思えば実際にはもっと歳をとっているはずだったし、生まれてから経った年を人の暦に当てはめて数えると相当のものだ。

 ヒタキはよく渡る。生まれる前でさえ母親が身籠ったのに気づくのが遅れた為に胎に入った状態で共に渡っていたのだからまったく何歳と数えるのか分かったものではないと、本人も一族の者も皆笑う。

 これが東西の渡りにとっての日常だった。当然のものとして育っていれば大抵、何ということはない。

「海の底って嫌よねえ、大体ずっと暗くってさ、何日経ったのか記録つけてないとわかんなくなっちゃう」

「ケリはずぼらだからな」

「まあ酷いこと言う」

 解いた荷の開きかけた袋の中にそうした記録の類を見つけて呟くケリに、ヒタキが笑って言う。こうした気の抜けるやりとりもヒタキにとっては三月ぶりだ。

 適当な荷物を引っ掴み歩き出すと、小さな影が扉の内から飛び出してくる。ヒタキは目を細めた。

「やあアイサ。いい子にしてたか」

 影は少女――手伝いに出てきたケリの娘アイサだ。髪はヒタキやケリに比べてやや明るい色で、顔は勿論ケリのほうに近い。

 してた、と小さな声が返り、ヒタキの笑みは深まった。一時荷を放り出し、子供好きの慣れた手つきで、七つになる体を抱え上げる。歓声はもっと大きな声だった。

「おうヒタキ、恙ないか?」

 追って出てきたのがマトリ――ヒタキの従兄にしてケリの夫だ。彼は少し、目元がヒタキに似ていた。

「おうとも。生臭い以外は」

「それの所為だろう。たんまり持たされたな」

 三人の後ろでケリが丁度持ち上げた重たい籠の中身は貝だ。普通の市で求めたならば大層値が張るだろう、肉厚に肥えた身を殻に隠したホタテ貝。何の魔法も不思議もないが美味な、サウーラからの手土産だ。

「向こうもいつもどおり、大差ないね。会いたがっていたから次はお前が行くといい」

「あれはおべっかかなんかだ。誰が行っても居ない奴のことを言うんだから」

 海の国の大公について言う声は、親戚か単なる知り合いについて話すように軽い。海で物を言うのは用心しなければならないが、此処では誰も、会話を聞きとることはない。川で水に流すと危ないかもしれないが。

 ヒタキに降ろされたアイサは、小走りに母と竜の元へと寄って、軽そうな荷を選んで抱え込む。

「きっとそういう作法なのよ、サウーラ流なの。貴方も話は後にして、荷物運んでちょうだいな」

「分かった分かった。爺さんたちに持ってくから、紙は全部寄越せ」

 ケリが声を飛ばした。マトリは肩を竦めて、また娘に倣うように歩いていく。ヒタキも放っていた荷を持ちなおして、改めて家の中へと向かった。

「腹が減ったから何か出してくれ。卵とパンがいい」

 旅の後で疲れている体には眠気もあったが、ヒタキは何より空腹だった。何か、と言いながらもしっかり要望を伝えつつ、小さく振り向く。

「今から作るところなの。洗濯に沸かしているから、お湯貰って先に風呂にしてらっしゃい」

 用意してある、なんて希望どおりの反応はなく、貝を煮炊き場へと運ぶケリは首を振って返した。ヒタキは隠すこともなく溜息を吐く。

「風呂か。入りたいが、しんどいなあ――全部運んだら、ヒカタも休ませてやっておくれ。鞍は庭に干しておけ」

「うん」

 ぼやきながら広々とした居間の隅に荷を置く姿は帰ってきた直後よりも気だるげになったが、横に来たアイサに頼むのは忘れない。

 渡りを生業とする者たちは東西に限らず、多くの竜を飼っている。大きな体に反しておっとりとして従順な彼らの相手は、子供の仕事の一つだった。アイサもこの歳ながら、竜を何頭も引き連れ世話するのは慣れたものだ。乗って飛んだり泳いだりというのは、まだまだ技術が不足しているけれど。

 ブーツを脱ぎながら頭巾と上着も放りだし懐刀なども荷の近くに並べたヒタキは板張りの間を大股で進み、風呂よりも先に奥の間へと向かった。扉だけがあり奥行のないそこには、白くすべらかな杖が飾り置かれている。

 それは先祖クグイの持ち物――渡りたちの崇拝対象だ。柄の頭が水鳥の首のようにすらりとしている。海を漂う流木で作ったものであるとか、山の中で見つけた手頃な木で作ったものであるとか、はたまた人の街で拵えられたものだと言う話もあるが、重要なのはクグイの持ち物だったというただ一点だ。

「クグイ様、無事戻りました。此度もお守りくださりありがとうございました」

 ユカリの一族はどの地の神も崇めず、祖だけを祀り、杖を拝んで導とする。朝夕、そして渡りに行き帰るたびに、手を合わせて加護を願い、感謝するのだ。

 きっと元はクグイ本人にそうしていたのだろうと、ヒタキはたまに思うことがある。クグイはとても力のある人だったとの言い伝えを幼い頃から聞いていたせいかも知れない。

 その後、やはり食事にはしばらくかかりそうなので、ヒタキは仕方なく風呂場に向かった。洗い物の為に湯を沸かしていた婆にも帰還の報告をして、湯を分けてもらって浴室に入る。東でも散々水に浸かっていたはずが、真水の湯の感覚は肌には全く違い、海底で芯から冷やされた異形になりかけの体を人に戻すようだった。

 大儀だの疲れただのと、帰ってきた後はいつも面倒になるが、結局風呂は心地が良い。うっかり湯でも張ろうものなら、空腹も誤魔化されてそのまま眠ってしまいかねない。ゆえに被っては擦るだけして、ヒタキは潮の匂いと汗を流した。

 外へと出れば、拭く布も着替えも用意されていた。食事もこうしてくれればよいのにと鳴る腹を押さえつつ、長い髪の水気をとって、垢を落した分か少し軽い足を居間へと向ける。

 よく働く従兄姪アイサが山に盛られた平焼きパンと取り皿を手に卓へと歩くのを見つけると、ヒタキは後ろから忍び寄り、擦れ違いざまに一枚くすねて口に運んだ。

「ああー」

「あー、うまい」

「座って食べて。外じゃあないんだから」

 アイサの笑い混じりの非難の声と共に小麦の旨味を噛みしめしみじみ呟いたヒタキの背を、鉄鍋と鍋敷き片手のケリが引っ叩く。

「胃がなくなりそうなほど腹が減ってるんだ、許してくれ」

 言われずとも、食事があるとなればヒタキの行き先は決まっていた。卓の端に腰を下ろしてまたパンを齧りつつ、アイサが置いた皿を一枚手に取って己の前に置く。

 鉄鍋の形に丸く焼いた卵を、ケリがへらで切っていく端から攫う。所々に緑色が見えるそれをパンに載せて大口で頬張ると薄い塩気がして、ネギと香草の香りが抜けた。野菜など混ぜて焼く円形の卵焼きは何処でも――人の国なら――見られるものだがだが、この組み合わせはヒタキの好みのものだ。魚のほぐし身を混ぜた物も好きだが、散々海の中に居た身では、そうした風味は飽いていた。

 料理上手の女が焼いた焼きたてのパンも香ばしく柔らかく、こうした物を久しく口にしていなかったヒタキを喜ばせた。

 そうしてヒタキが希望どおりの卵とパンにありついている間に残りの卵焼きも切り分け終えて飯炊き場に戻ったケリが、仕上げのように兎肉と蕪を煮つけた物の大皿を置いた。共に持って来た手鍋から茶を注いで差し出してやる。

 卓の隅で三人で固まって食事を始めて暫く経ち、ヒタキがパンの三枚目を平らげ、それなりに腹が膨らみ眠気がまた重みを増してきた頃。ぞろぞろと、マトリが老人たちが連れてやってくる。ヒタキにとって祖父、叔父叔母になる、渡りの実業は退いた者たちだ。

 彼らはこの家で竜の世話をしたり、国からの使いを含む客を持て成したり、まだ仕事のできない子供たちの面倒を見たりする。暦を繰って、山海との時間のズレを読んだりもするのも年長の彼らの役目だ。

「お帰りヒタキ」

「海のご機嫌はどうだった? 真珠は貰えたか。貝はたんまりだったらしいな。晩の飯が豪華になる」

 広々とした部屋で卓も余裕があるのに皆が向かいに座ったので、ヒタキは嫌な予感がした。渡って戻ったヒタキが話すべきことは確かに催促されるだけあるのだが、それは追々でもよいはずだった。

 ヒタキはとうに一人前で、大事があれば開口一番に伝える程度には真面目な性質だと皆知っている。マトリが持っていったサウーラでの手記に目を通せば、特別なことがなかったことも知れる。

 東西に行かなくなり皺が増え髪も白くなった老爺たちが特に懸念されることもないのにこのように世間話のように言い始めるのは、別の会話に持っていくための前座であることが多い。

 口に入れていたものをゆっくり噛んで時間を稼ぎつつ、ヒタキはマトリを窺った。

「ケリ、お茶をおくれ」

「はい母様。お食事は?」

「私はまだ要らないわ」

「俺にはくれ」

 のんびりと語りかけた婆――タヅはいつもどおりだが、その横の彼が目を逸らして食事を要求したので、これは間違いなく面倒事だとヒタキは確信した。

 お決まりになってきた結婚の催促か、それとも。

「ところでシナヒはまだ帰って来ないんだがな、アムデンとクシクシから来てほしいって話が出てる」

 ゆっくり噛んで時間稼ぎをしていたヒタキに飽いたらしく、最長老のシギがあからさまに話を向けた。並んだ二つは国の名で、西のナリュムに属する内でも北方に位置する山だ。ヒタキもそれぞれ何度か赴いたことがある。

 山も海も広い。一度の渡りで全域での仕事がこなせることはそうそうない。行き違いや追加で、二人三人と立て続けに山や海に入ることも少なくはなかった。

 ヒタキより若いが見目は同じくらいの若手シナヒは、ヒタキがサウーラに向かった後に発った。予定では、こちらの時間でも二十日は帰って来ない。

 結婚の話ではないようだが、非常に怠い話だと察したヒタキは、気構えしながら噛みすぎた肉を飲みこんだ。

「……へえ」

「がな、シトトが足を挫いていて行かれないんだ。お前が行ってくれ」

「あの馬鹿また怪我したのか? ……待って、私は帰ってきたばかりだ、分かってるでしょう爺様?」

 あからさまに話を嫌がっているぼやけた相槌にも、長老は容赦しない。案の定来た要望とその仕事が自分に回されるわけに、ヒタキはくっきりとした眉をぐっと眉間に寄せ心底嫌そうな声を上げた。ケリを窺うと、彼女も呆れた調子で肩を竦めている。

 シトトはシナヒの双子の弟だが、兄に比べて落ち着きがなく、事あるごとに怪我をしている。それで渡りの回数が比較的に少ない為に、どことなくシナヒよりも顔が大人びてきてさえいるユカリの問題児だ。間が悪く割を食うのは大抵がヒタキだった。

「何もすぐ行けとは言わん。休んでから出ろ。持っていく物は揃えてある」

「マトリかケリに行かせればいい」

「アイサはまだ小さいのよ。あんまり離してやるのも可哀そうだわ」

 ヒタキは決定事項のように告げるシギに見目相応の態度で反発するが、孫娘に甘い婆が頼み込む調子で言葉を添えるとぐっと詰まった。

 横で見上げてくるまだ幼い娘は、ヒタキにとっても可愛い。時の流れを読む術を身に着けているとはいえ、ユカリの一族にとって家族と過ごす時間がいかに貴重なものか、ヒタキはよくよく知っていた。

 如何に身が老いずとも、時は戻らない。

「お前も子供の一人や二人こさえてくれれば少し考えるんだが。いっそ――」

「ああ分かった、分かりました。でもまず休むし、その次は絶対に、南北に行かせてもらう」

 ついでの嫌な話題の畳み掛けを遮り、ヒタキは言いきって茶を煽る。濃く出された茶は一層に苦く感じられた。

「ええ、ええ。勿論海も山も行ったらその後はしばらくいいわ。本当、あなたが一番よく働くわ。助かるわね」

「アイサがもう少し大きくなるまで、頼むわ。その後はきっと代わるから」

「悪いなヒタキ」

 宥める風の言葉も誠実に頼み込む姿勢も、そ知らぬふりをしたくせに頷いた後はしおらしい男も、既に了承してしまったヒタキには気に食わない。任せたぞ、という調子で長老が茶を啜るのなんてもっての外だ。けれど、もう他には渡りをできる者は残っていない。

 老いたか、若すぎるか、その親か。または病の床か。どれも理由として納得はできる。怪我をした大馬鹿には、勿論後で文句も嫌味も言ってやるつもりだったが。

「ヒタキ、ごめんね?」

「……お前の所為なもんか」

 アイサまでが小さな声で言ったのに、ヒタキは溜息吐いてゆるゆると首を振った。

「お前は何も気にしないで、私が居ぬ間もちゃんと育って学んでおけ」

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