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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
東海章‐波下を往く
17/17

八の一 エネンスク宮の歓待

 精霊の一派が治めるロブト領という名の静かな海域は海底がせり上がって浅く、足を底につけても光の差し込む深さで明るい青に満たされている。人魚など異形の姿はまだ見えず、人が見知った普通の海にも近い。

 ヒタキが目指すのは更に東、南。ユカリたちが定期的に顔を出すと約束しているある海の者の住処だった。途中、手頃な岩陰を見つけて身を寄せ再びの休憩もとりながら、ヒカタは上手く海流を掴み、二又の尾を揺らしながらすいすいと進んだ。予定ではヒタキの体感で二日ほど、こうして過ごすことになる。

 岩場で蠢く植物のようなかたちの者たち、群れで大きな生き物を模り泳ぐ魚の群れ、眼下の水底を走る姿、砂場から飛び出して小さな魚を喰らう何か。どれもが訪れた渡りに関さず過ごす中、今回最初にヒタキに接触してきたのは、決まった領地に住まない異形の類だった。

 宙――ではなく水中なのだが――の何もないところ、少し深く暗い場所で白くぼやけた光が泡に似た動きでふわふわと揺れ動いているのを、ヒタキは前方に見つけていた。じっと息を詰め目を凝らして見ると知らぬ存在ではなかったのでヒタキは安心して、ヒカタと共に特に警戒せずに海底に近いところを泳いで進み続けた。

 それは茂みの如く集った、白いくらげの群れだった。魔女よりも淡い光を宿し存在を主張する中、人と竜が進んでくる流れを受け、泡が解けて水面を目指すように散り散りに動き出す。

 その中央に子供の姿がある。

 ゆらゆらと揺蕩う髪、貴族の寝巻めいたゆったり広がる着衣の袖や裾も、肌や目鼻と見えるところさえもまったく同じ透明感を持つ白色で統一された体。ドレスを着ている娘のように見えるが、それは服ではなく、娘でもなく、そう見えるかたちなのだ。

 人クラゲ、クラゲの姫、などとヒタキたちは呼んでいたが。人魚たち同様足は無く、手もなく、レースの服のような白の内には細い物がゆらゆらとするだけ。何故だか人の姿を借りているが声も持たず、意思の疎通は叶わない。

 以前に人魚たちが話すのをヒタキが聞いたことには、この姫は一見一人だが寄り集まってできている。大魚のふりをした小魚の群れとそう変わりはないのだそうだ。どうして人に似せた姿を作っているのかまでは、彼らは知らなかったが。

 ゆらゆらと揺れる人クラゲは、近づいてみると幼げな見目に反してヒカタより二回りほども大きい。臆せず渡りへと近づいて、水の流れを作る竜の体にまとわりついて遊び始めた。実際遊んでいるのかは分からなかったがそういう動きだった。害はないが邪魔くさい。ヒタキが困ったような顔をして見せても、ヒカタが迷惑そうでもお構いなしの気侭さだ。

 彼女がユカリたちに何かをしたという話は未だかつてなく、その点では安心できたが――思わぬ道連れは話し相手にもならない。

 ちらちらと視界に入る白い物を煩わしく思いながらも進み続けると海は深くなり、風景が変わってくる。平らに近かった岩肌はごつごつとしたものになり、独特の形をして森の木々の影のようにも見える。下手にぶつかると怪我をしかねない岩場に、ヒタキはヒカタの手綱を軽く引いて速度を落とし浮上させた。横を泳いでいた人クラゲはその変化についていけず、行き過ぎたところで振り返って待っていた。少し置いてゆうらりと、竜に合わせて上がってくる。

「……まだついてくるのか、貴方?」

 顔、目のように見えるかたちから注がれる意識。どこを、何を見ているのかはまるで分らないが、関心を寄せられていることだけは間違いなさそうだった。

 問いかけても当たり前のように答えは無く、唇らしき場所が形だけでも動く兆しさえない。ヒタキは溜息を吐いて口元の塩水を揺らし、諦めてヒカタを先へと促した。

「渡り殿ー、渡り人殿ー!」

 そこで突如聞こえた声にヒタキとヒカタは驚いて振り向いた。その動きを受けた人クラゲは鞠のように上へと跳ねたが、水の中で揺れている以上勢いはつかなかった。

 しわがれた声で呼びかけ渡りの右手から、クラゲとはまるで違う素早さですっ飛ぶように泳いでやってきたのは海老エビの伝令だ。緑色に銀の縞模様の体、立派な白いヒゲを持ち、大きさはヒタキの腕ほど。此処よりさらに南東、エネンスク領の領主に仕える者だ。

「おや久しいな」

「先刻サウーラに入られたと知って参りました。大公様がお会いしたいと仰っております」

 海老はヒタキの顔の前で止まって言った。海の住人はどうにも表情に乏しくつぶらな瞳が見つめてくるばかりだったが、クラゲとは違い発せられる言葉からは十分に歓迎の意図が察せられた。それに何より、彼らはユカリたちの得意先だった。

「ああ、それはこちらとしても是非。お目通りしよう」

 エネンスク領はまだ遠いというのに、離れた場所の出来事をどうやって知ったのだなどと聞くことはない。この海老が仕えているのは大公――サウーラでも屈指の大魔法使い。海に入りたいヒタキが呼ばずとも魔女が出迎えてくれるように、これが魔法使いの平常であった。以前に聞いたところによれば、水ですべてが繋がるサウーラにおいては、水に訊ねれば大抵のことは知れるらしい。隠し事の難しい世界だといくつか顔を使い分ける渡りとしては少々気まずい思いもしたものだった。

「ではこちらを潜られませ。すぐに宮に出ますよ、さあさ」

 そして名のある魔法使いたちを相手にしてありがたいのは、こういうところだった。人が長い時間と多大な労力をかけて岩山を貫き向こうの空を拝むようなことを、彼ら魔法使いはいとも簡単にやってのける。そこの木の間を抜ければ、その泉に飛びこめば、と魔法の近道を作り出すのだ。余程偏屈な者でなければ、招いた以上はこうして気を回してくる。呼ばれたからには従わなければ後が怖い渡りにとっては随分楽ができる。

 しかも今回、ヒタキが訪うべく目指しているのは彼の領にも程近い場所だった。挨拶ついで、楽して目的地に辿りつける。こんな僥倖は無い。

 海老が放り投げた小さな黒い二枚貝がぱくりと口を開くと、勢いよく泡が湧き出て先程のクラゲの集いのように白い茂みを作り出す。どんどん広がって、竜も難なく包めるほどとなった。

「ではお言葉に甘えて失礼」

 胸に手を当て一礼して、ヒタキは竜を促した。ヒカタも慣れたもので――顔に当たるぶくぶくとした幕に少し嫌そうにはしたが、普通に泳ぐのと違いない気軽さで泡を潜った。ヒタキはその動きに合わせて一時口と目を閉じるだけでよかった。

 温かさを感じて目を開くと、水の色がまた違う。一段明るくなったように見えた。そして辺りは一転して、鮮やかなサンゴやイソギンチャクの森へと様変わりしていた。

 南の海、エネンスク領。

 美しい青灰色の地、転がる丸石が影成す海底に、アウースでの物語りにも登場したエネンスクの宮殿は構えていた。

 すべては見えぬほどに広範囲に、数えられぬほどに並ぶ、青珊瑚の列柱。家を建てる下準備のように柱ばかりが並んでいる。水だけで縄張りの主張をし、此処は誰の領域だからと区切ることのできる彼らだが、底までも領地としたい場合はこうすることが多い。

「皆の衆、お客が参られたぞ!」

 伝令の声はどこまで届くものか。柱の陰から、上から、下の岩や砂の合間から。色とりどりの小魚たちがわっと、歓待の花弁を注ぐように湧いて出た。ひらひらと舞い泳いで整列し客の進むべき道を示す。その先、目印の如く貝殻瓦で屋根を作った入口の門扉は、以前ヒタキが訪れた時には朽ちかけた沈没船の甲板を用いていたが、今回は三つ子の巨大なエイが門番と兼ねて務めていた。

 ヒタキが振り返ってみると自分たちが出てきたところは泡ではなくオレンジ色の海藻の茂みで、人クラゲが相変わらずの無表情でこちらを覗きこんでいるのが見えた。竜より大きな身では通れぬ狭さだったか他に事情があるのか、魔法の通り道をこちらへと泳いでは来なかった。

 それを確かめて気をとり直し、ヒタキは出迎え道を開けた彼らににこやかに挨拶して、塀無く横からでも入れそうな門を竜と共にちゃんと潜り抜ける。その後も海老が案内するとおりに、いくつかの柱を右へ、左へと回りこむ。壁無くまっすぐにでも進める場所では無駄な動きにも思えるが、魔法使いの居処ではこういう作法が大事だった。此処は既に魔法の中で、道を外れれば迷いかねないのだ。招いた客であるからには無下にはされぬだろうが、勝手に屋敷の中を歩いて迷子、というような失態は旅慣れた渡りとしては当然避けるべきことだ。

 結界の縄張りの仕事も思い出す動きをヒタキと共に繰り返したヒタキは、やがて柱の絶えた広々とした空間に出た。容易く日の光が届かぬ深さのはずが、魔法によって明るい水の中。滑らかな岩が重なり合う広間の上座に、彼は身を置いていた。

「ようこそ渡り。急に呼び立ててすまぬな」

 海の大公にして偉大な魔法使い。水の流れにひらひらと揺れるフリルを二枚重ねて形のよい白ヒトデがボタン役を務める襟をつけた大魚は、今日は目覚めるような朱色の鱗だった。

 頭上には青く煌めく石を抱いた黄金の光を編んだかの冠。ヒタキの先祖が櫛と引き換えに運んだ、件の岩塩の結晶が形を保ってそこにあった。あの物語りの続きに、ヒタキは居た。

「ご機嫌麗しゅうございます、大公。お招きいただき光栄です」

「君が来るのは久しぶりだな。その辺にでも居てくれ」

 竜から降り見上げたヒタキの顔を円い目でよくよく確かめて、低く落ち着いた声の大公は応じた。

 仕事を終えた海老が岩穴の中に消えていくのを見送ったヒタキは、ではと重なり合う岩の適当に盛り上がっていたところに腰を下ろした。座ったふり、のようになって浮つくのは、サウーラでは仕方のないことだった。数日も海に居れば慣れる。足元にヒカタを伏せさせて、結構な距離のある大公との会話の姿勢を作る。

 この場は大公が客を招く客間であり、大公の常の部屋でもあり――大公が集めた物を飾った蒐集部屋でもあった。辺りには様々な物が並んでいる。帆がカーテンのように揺らいでいる沈没船は見える範囲で三隻。その中にも恐らく何か、蒐集品が入っているだろう。立てて飾られた小舟も二艘ある。

 宝物らしい金貨や銀貨、宝石に宝飾品の類は、魔法の流れに沿って並び鎖のように大魚の周りに輪を成していた。大きな石像から小さな玩具まで、流れ着いた置物の類は見事な一枚岩の岩盤の上に並べられ、装飾の施された美しい箱も酒が抜けた樽も気に入った物は一緒くた。魔法で封じられた岩の窪みに並ぶ生き物や草木は骸もあれば、まだ生かされているものもあった。幸いというべきか、大公のお眼鏡には敵わず人間の姿は無い。巨人の足や妖精の剥製はあったが。

 海の物は勿論、人の国の物、山の国ナリュムの物もあった。どれもこれもが大魚の周りでは小さく見えた。

「まあ休みがてら聞いておくれ。ついこの間な、珍しい物を捕らえてきたのよ。ほら御覧」

 そんな物を横目にしていたヒタキは、ほらきた、と思いながら首を傾げて笑みを浮かべた。

 このサウーラの大公は、客人に自分の蒐集品を見せて話を聞かせるのが大好きだ。渡りのする物語りのように客を楽しませる為のものでもあるのだが、なにより自分が楽しくて仕方がない、宴の席を設けるからどうぞ付き合ってくれと言うだけ道理を弁えてはいるが、何せ自慢の品が多くあるので大層時間がかかるのだ。

 大公の言う珍品は魔法で水の中を進み、ヒタキの顔の前へと向かってくる。ヒタキは最初、宝石か硝子の類かと思った。ヒタキの頭ほどの大きさがあったが、見た目は水晶玉のようだったのだ。

「その中に居るからようく見てみよ。――ああ、直に触れるでないぞ、少し凍るからな」

 しかしそれは入れ物、水槽で、見るべきはその中にある。近づけた鼻先がひやりとしてヒタキが驚く頃に忠告が飛ぶ。器は魔法で作った氷なのだという。

 紫の双眸が数秒がかりでちらちらと動くいくつかのものを捉えた。何かの屑かとも思える小さなそれは、ふっくりとした十字形で白っぽい半透明の体をした奇妙な生き物だった。鳥が羽ばたくように動き、水を掻いて動き回っている。頭と体の芯の部分は赤い色が見えた。

 眉間に皺寄るほど目を凝らしたヒタキの前で、それが大きくなる。実際に膨らんだのではなく、大公が見えやすいようにと入れ物に魔法を重ね掛けしたのだ。

 そこに、やはり小さな何か――餌を魔法で送り落とす。直後、泳ぎを急にした珍品の頭が八つに割れて食らいついた。ヒタキが目を丸くする。その反応に気をよくして、大公は(えら)を膨らませた。

(はて)の海にしかおらぬものたちをいくらか無理をして連れてきた。海のものにしては、儂にも面白いと思えたのだよ。それは口がまた変わっておるだろう」

「……口と言いますかね、これは。何と申しますか、面妖ですね。妖精ですか?」

 得意になって自慢する声に、これは確かに見たことがないとヒタキは感心した。ヒタキも様々なところへと渡るが、ユカリの知る海など広大な王国の一握りにすぎず、北や南の果ての極海には行ったことがないし、誰かからこんなものを聞いた覚えもなかった。演技するでもなく驚く渡りの反応に満足して、あたりの水の流れが変わるほどに大公の(ひれ)が揺れる。

「いや、妖精でもなければ霊でもない、魚たちと同じで身がある。これはこう見えて貝なのだ」

 解説する声も実に得意気だ。

「へえ。クラゲあたりの親戚に見えますけれど、貝のほうですか。殻も無いのに?」

「殻を体の中に入れている」

「この赤いのがそうでしょうか? 本当に面妖だ」

 先程の人くらげのことも思い出しながらヒタキが言い、大公が説明を足していく間にも、それは水槽の底で餌を頭に呑み込んでいる。透けた体、海の中ではいくらか見るその肉は触れるとどんな具合だろうかと、ヒタキはぼんやり考えた。

「さて、こっちはどうだね」

 暫し餌やりなどして遊んだあと、同じような水槽がもう一つ寄越される。今度は目を凝らすまでもなく、鍋洗いのブラシのような物が身を捩って泳いでいるのが見えた。体の横に生える金色の毛は本当に毛か、それとも脚か、黒っぽい鱗のついた毛虫のようなこれまた珍妙で気味の悪い生き物だった。

「これも極海(はて)の?」

「そうだ。ゴカイであるが、こいつはそこらの者よりも見栄えがするな。やはり遠い海はよい、儂でさえまだ見通せなんだ」

 それにも餌をやって、素早く激しくなる動きと大きな横顎が開くのを見る。すべて金物のようなものがそうして柔軟に動いて生きているのはまた不思議な光景だった。

 数多ある珍しい物の中でも近頃は極海の住人たちが気に入りで、暇があればこうして眺め、誰かに見せてその反応を楽しんでいるのだそうだ。

 この大公が身一つで大船を上回るように、海での序列は大概その大きさに比例する。此処では大きいものほど多く流れを生み出せるからだ。どちらが先というのではなく、大きくなれば力と畏怖を得て、そうすればより一層に大きくなれる。大抵は長く生きたものだ。

 その前では、水槽に納まるほどの生き物たちはなすがままだ。庇護の下、海老は伝令をし、ヒトデは飾り襟を留めたりする。その頂点は、すべてを抱く潮の流れ、海そのものであるという。

 暫くして寛大な領主の前で渡りの竜が眠り始めた頃、ようやく自慢は一旦終わりの気配を見せ、大公は水の流れを作りヒタキの傍から大小十数個の氷の水槽を引き上げた。十字の裏返り貝、ブラシ虫、くるくると回り明滅する六角形、大きな目を飛びだしている癖に閉じている魚、はたまた体中口だらけの猫ナマコ……中の蒐集品たちは物言わず、人クラゲとも大差なく何を考えているかも分からぬ顔で、遠ざかりヒタキの目に泡のように映る水槽で泳ぎつづけていた。

「渡りは珍しい物も見慣れておるから、珍しがらせる甲斐があるな。今度はまたそちらが珍しい物を持って、驚かせに来てほしいものだが……」

 他者を驚かせるのも楽しいが、何より自分が驚き楽しみたい。ヒタキではなくヒタキの先祖たちもこうして相手をしていた長寿の魚の、その気持ちを示すように頭上の冠が煌めいた。

「何かあれば必ずお目にかけますよ。ただ、大公様ほどの蒐集家となると、なかなか」

 極海を模した温度が遠ざかり南の温かさに戻ってきた水の中、ヒタキは笑って肩を竦めた。

 これまで、物ではなく話で、と物語りをして面白がらせたユカリの者は何人かいたが、話の合間合間で「ああそれはあれだな」とむしろこちらより詳しい説明を挟んでくるのだからまったくなかなか、敵わぬ相手だ。

 その代わり、こうして訪問するだけでも人の国でする物語りの種には困らぬのだが。

「期待しておるよ。――ああ、そうだそうだ、大事な話もせねばなるまいな。渡り殿、オスダナという人の国は知っておるか」

 しかし今回の本題は自慢ではなかったらしい。問う彼に居直り、オスダナ、と聞こえた名を反芻して、少し考えてからヒタキは聞き返した。

「もう一度お聞きしても?」

「オスダナ。君のところでは発音が違うかね。南のほうの、ケイレの入り江の……」

「ああ! モスダニアかと。行ったことが御座いますよ」

 海の者たちもなかなか訛りが強い。これも魔法の力か、普通に会話する分にはどうにでもなるが、向こうがそうと捉えている地名などは耳慣れぬ響きのままだ。場合によってはまったく別の名がつけられていることさえある。

 今回はヒタキにも覚えがある名前であったし、以前に商いをしに行ったこともあった。海に面した、漁業も盛んに栄えた商業国だ。

「あの国の王に文を届けてほしくてな。欲しい物があるゆえ」

 それならば道案内は不要と話を進めた大公に、ヒタキは瞬いた。

「おや。勿論請け負いますが、何か私どもより早く見つけた珍しい物があの国におありで?」

「いやなに、奥方様に頼まれてな。あの国の船が欲しいのだが……あの国のかつての王とは親交もあるゆえ、勝手に沈めてしまうのは些かよくないと思うてな。ならば一隻、向こうに用意してもらおうと」

「よい積荷でもございましたか? それなら我々が運んでまいりますが……」

 奥方様と大公が言うのは、この場、エネンスク領より更に東の先、海底の骨の館に住むという女人のことだった。海神と言って過言ではない大層な力を持った者の妻だったが今は未亡人で、あまり表には出ないという。ヒタキたちも会ったことはないが、方々でこうして名を聞き、誰もが敬っていることを踏まえればその格が知れるというものだ。

 自然に不穏な言葉が混ざってくるのは、サウーラではよくあることだ。気を利かせる渡りに大公は緩く頭振った。

「いや、船自体がな、彫刻が素晴らしいのだ。渡り殿が運ぶのは大変だろう」

 成程、とヒタキの目が、広間の飾りになっている帆船の亡骸へと滑った。

 やはり人とは考え方の規模が違いすぎる。件の奥方とやらもやはりこの大魚より大きいのかもしれぬと考えながら、ヒタキは肯いてみせた。

「さすがにそれは、私どもも。手に入れるのさえ難しいでしょうね」

 深すぎる谷や山に阻まれているナリュムとは違い人々が生きる岸に寄せ返しているだけに、サウーラは様々なところで人との国交を持っている。海を臨んで住む人々はサウーラを幸や災い、ときに神として接している。ヒタキを見送ったあの漁師たちのように。

「代価はもう作らせてある。足りねば催促するように伝えてほしい」

  用意しなければ別の、普通に航行している船が沈むことになるやもしれないという、言外、そして当の異形たちにはそこまで意識していない脅しを多分に含んでいるが。こうして願い出るだけまだ穏便な話で、この大公はどちらかといえば、幸の側にあった。望むだけでなく対価は惜しまない。そんな気前のよさも。

 ごごん、と音を立てひとりでに大公の尾下(あしもと)の箱――それは元々のところはある国の王族の遺骸が収まっていた大石棺だったが――が開いて、公の言う船の代価がヒタキの元へと流れてくる。またクラゲのような雰囲気の不思議な薄布に包まれた姿は生き物かと見えたが、ゆらりとその包みが払われ現れたのは、なんとも見事な珊瑚の宝杖だった。十字の形をした枝の美しい紅色の肌に金銀で模様が描かれている。

 ただ、近くに来てみればヒタキの身の丈の倍もの長さがあった。そこらの国の僧侶が持つ儀式の杖よりも大きい。

「ふむ、幾分大きいか」

「そうですねえ」

 人がサウーラにはありふれた珊瑚や真珠を珍重して喜ぶのを知っている大魚だが、その大きさゆえか作る物の大きさには適当なところがある。久々に人と会った彼は、まあこんなものだろうと拵えさせた杖に不釣り合いに小さい渡りの体に呟いた。ヒタキも半分笑った声で応じた。

「しかしこれくらいのほうが貴方様の凄さが分かるというもの。驚嘆こそすれ文句などありませんよ。……運ぶ際に小さくさえしていただければ」

 正直、運ぶ側としては小さい物のほうがありがたくはあるが。人の手では作るどころかこれほどの珊瑚を手に入れることだって難しいのに、大きさの調整で折られたりしては残念だ。幸いにも相手は魔法使い。重い、大きい、などといえば魔法をかけてもらえる。

「うん。では後でそうしておこう」

「……これには、何か魔法が?」

「ああ。儂の呪いがかかっているからな、一度や二度なら人の手でも波を操ることができようよ」

 加えて、ヒタキが察したとおりこれは単に大きな宝飾品ではない。彫刻を施した船を一隻。その労力と費用に見合うだけの、人ならざる力を秘めていた。

「船の一隻くらい、やすやす差し出しますよ」

 ヒタキの知るオスダナことモスダニアの王は思慮も信心も深い男だ。波を呼ぶ杖を受け取る返事と、船を呑む波を呼ぶ返事、けっして選択を間違えまいと渡りは思う。

「だとよいのだが。――さて渡り、もうじき日暮れ時だが、このまま休んでいくかね」

「もうそんな時間ですか」

 おべっかというわけでもない言葉に頷き仕事の話はすぐに区切りをつけた大公に、ヒタキははたとしてつい外を、空を見ようとして視線を上へと巡らせた。

 見上げた先はただただ青い。サウーラの中では明るい、碧色だ。そうして見ると昼のような気がしたが、慣れた魚が言うからには今、日は沈もうとしているに違いなかった。

 ああ違う、とすぐに顔を正面へと戻し、ちらと袖口を寛げ覗いて魚の細工を確かめる。取りださずとも見える白い魚の目の光は、確かに夕暮れの薄赤い色へと変わっていた。一応の確認を手早く済ませてヒタキは頷き、笑みを浮かべた。

「大公様のお許しが得られるならば是非とも。この宮ほど安全な場所もありませぬので」

「よいよい、好きなだけ居るがよいよ。折角だから他にも見せてやりたいしの。君にはまだ見せていなかったろう、エキの花細工なんかは」

 機嫌よい大公は二つ返事で、彼が宴の準備をと言いつけるまでも無くすいと海老の執事が飛び出して、侍従の者たちを連れて泳いでいく。

 その間にも、まだ自慢話をしたい大公の周りで水と物が動き出す。表情の変わらぬ魚の顔ながらうきうきとして見えるその様に、ヒタキは更に笑って、少しばかり時間をもらって足元で寝入る竜の鞍や荷を外した。

「そういえば今日は少し珍しい酒を持っているのです。いかがですか。西はアムデン、鳥の王国の酒ですよ」

 魚たちに酒造りの文化はないが、飲酒のほうの話となれば、この珍しい物好きが嗜んでいないはずもなかった。量は呑まないがその味を楽しむことにかけては、大公は余念がない。

 そんな相手には、例の夜空の如き酒は丁度良い品だろう。もしかすれば良い反応が得られるかも知れぬ。あれから毎年仲買している酒を手に告げたヒタキのそんな期待は、次には失せた。

「ほお、猿の酒は一年前にも飲んだが、鳥の酒は百年ぶりだな」

「……出来のよい、私のとっておきの美酒ですよ」

 やはりこの大魚に珍しい物をと請われて納得させるのは難しそうだと、ヒタキは大公の頭上、冠まで目を上げ、先祖が運んだ塩の石を眺めて何度目かの思いを抱いた。自分では大琥珀の櫛を持って帰る自信が無い。


 魚たちに言わせれば料理は陸の文化なのだそうだ。道理、火を熾すことも味をつけることも海中では難しい。だから食の基本は生、丸呑みか丸齧りだ。それも辺りを満たす空気と等しい塩水と共に。それが味付けのようなもの。

 それもこのエネンスク領、特に大公の居処では違う。長じた者にとっては料理は娯楽として非常に有用だった。

 宴会、食事の場として辺りを岩壁に囲まれた広間に身を移したヒタキの前で、黒い大蛸オオダコの賄方が器用に船の櫂のような棒を使い、ごつごつとした黒い岩の洞を探る。火山に繋げているという竈の口では熱が揺れて靄となっており、それが一段と増したと思えば、その蜃気楼の元であるかのように大きなシャコ貝が取りだされる。

 まずは客人に、そして大公に。青灰色の岩のテーブルの上、運ばれた貝の蓋が外されると皿――つまり残ったほうの下の貝殻――にはたっぷりとスープが詰まっている。貝とウニを煮立てて味付けした濃黄色のとろりとしたものは海水とは混ざらずに波打つ貝殻の内に留まり、陸の食卓でもそうであるように熱気を立ち上らせていた。

 添えられた食器、大公の拾い物の豪奢な銀細工のスプーンで食べる所為もあり、本当に貴族王族の食事らしく思えるものだ。海の食材の旨味がたっぷりのスープは絶品で、まだ海に入ったばかりでこうした食材にも飽きていないヒタキにも嬉しいご馳走だった。

 同じように火山の熱で火を通した魚もあれば、そのまま齧るのではなく身を切ってから食べると食感が変わって味の感じ方まで違うと、刺身にして供される魚や貝もあった。せっせと八本の腕を方々で動かす賄方と同じ形をしたタコも、その細い腕を開かれ中の白い肉が味をつけた海藻と共に皿に載せられた。

 食べ物として扱われるものがたとえ同じ種であっても、サウーラの者たちはあまり気にしないのが普通だ。力の無い者は力の有る者に食べられる。やがて死して力を失った後には食べられる側になる。海はそうして循環する。弱肉強食、摂理だと平然としている。

 この辺りでは稀だが、偶には人魚や流された人間さえもがその枠に入り食卓に上ってしまうこともあるのが、ユカリ一族にとっても油断ならないところではあるが。今のところは領主たる大公の客であり魔女の加護を受けているので、人食い鮫がやってこようとも問題はない。

 食事を楽しむヒタキたちの傍らには蟹の静かな楽団が、頭上にはエイやイルカの踊り子が配されて、海の持て成しを行っている。これが曲者だった。

 白い体に銀の模様で飾った彼らはすべて客をもてなす魔法の使い手で、楽団が紡ぐ銀の泡の魔法を踊り子たちの演舞が拾い上げ、更なる魔法の紋様へと組み立てる。そうして宴の水中に拡散され満たされる魔法は、謂わば酔いだ。すべてが大層楽しく、いつまでも宴を続けたくなる気分にさせる。

 これが魔法使いの居城の困ったところだ。快く受け入れてくれるのはよいが、好意的であればあるほどどうにも愉快で居心地がよくて帰りがたくなる。すべての区切りが曖昧で朝も夜も窺えぬ海の中で気を抜くと二三と日が過ぎてしまう。アムデンの宴よりも静かな歓待だが、ロガンで口に含まされた王賜の水のよう、より当たり前に、常に、その場へと結びつける魔法がかけられ続けている。

 けっして導の魚を見逃してはならない。何日経ったのか、分からなくなる。分かってはいるのだが、勿論見てもいるのだが、それでも。

 同じように接待を受けている己の竜のこともぼんやりと考えながら自分が持ち込んだ酒を瓶から飲み、ヒタキはウナギの道化師の口上へと耳を傾けた。

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