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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
東海章‐波下を往く
16/17

八 寄せ返す海境

「おおいアンタ、それより先は危ないぞ! あの岩より先は駄目だ!」

 ヒカタに跨り水平線を見据えて空を飛ぶヒタキにそう叫んだのは、午前の漁の為に舟を出していた男だった。海水から網を引き上げる手を止め、上を向いて、明確にヒタキを見て呼びかけている。

 人は随分以前から大きな船も造るようになったが、安全に航行できる領域はそう広くない。何処の海でも害をなす精霊や異形を恐れ、それらの住まいを見定め、近づいてはならぬという取り決めを各々でしていた。海神の杖より手前、岩や錨で留めた浮きなどを目印にして守っている。

 境を超えた一人きりの問題で済めばよいが、何かの怒りに触れでもすれば同じ海域で船を出す者や、果ては岸にまで被害が出ることもある。ナリュムよりも境が曖昧なサウーラは、その点では言ってしまえば大雑把だった。

 時に蛮勇の大馬鹿者が境を越えて行っては帰らなくなるたび、規則の重要性が認識されるのだ。

「嵐が来るわけじゃあないだろ? 私はいいんだ、お気遣いありがとう」

 その大馬鹿者に見えたのだろう若い漁師に、ヒタキは朗らかな大声で応じた。だが、若くとも信心深い漁師も必死だった。

「そう言う馬鹿が命を捨てんだ、連れてかれるぞ!」

「いやぁ私は本当に大丈夫なんだ、東西だからさ」

「おい、あれはいいんだ、あれは東西の渡りってやつさ。海の向こうに行って帰ってくるっていう、人じゃないのかも知れんとよ。関わらんほうがいい」

 年嵩の漁師が知った顔をして、舟を寄せて諌める、背にちらと聞こえたその言い様にヒタキは笑った。行って帰ってくるのは確かだが、人かそうでないかは何で分けるのだろう。

 年が明けて最初の渡り、サウーラへの遠出は海の中の時間では一ヶ月ほど。人の世ではその十倍ほどかかる見込みの長旅の予定だ。次に岸を見る頃にはあの漁師たちも一つばかり年を重ねているに違いないが、それを省いた自身は何であろうかと。

 ヒタキはその結論を子供の頃既に出していた。東西の渡り、ユカリの一族。それ以外の何でもない。あの漁師たちも含め、人は皆生まれから死ぬまで、それぞれなのだ。ヒタキは魔法使いでも異形でもなく人だが、生き方が違う。それだけのこと。

 寄らずの目印の岩山を通りすぎ、東西の渡りは平らに輝くばかりの海を眼下にまっすぐに行く。淡々と広がる世界に意識を凝らす。終わりきっていない冬の風が冷たい。

 ざぶんと音が聞こえ、ヒタキは視線を右手へと滑らせた。

 波と共に駆けていくのは翡翠色の馬の群れ。今まで何度も目にしたことがある異形の姿だ。体つきも鬣も立派な馬の体は、時に普通より大きく、時に普通より仔馬より小さい。しかしどれもが立派な体躯で、彫刻家の拵えた作品のように優美だった。時折合わさり、また別れ、数と大きさを変えながら。海を何処へ向かうのかは知れない。

 手を出さなければ害のない存在だ。群れによっては船に飛びかかり戯れることがあるが、それも波と違いない程度だからそうそう酷いことにはならない。ましてや、空を飛ぶヒタキには関係のないことだった。恐らくは。

 馬の群れが飛ぶ方向と同じ方へと走るので暫く眺めていると、突如、一際大きな波が起こって人影が躍り出た。古い貴人の格好をした男が一際大柄で見事な一頭の鬣を掴んで飛び乗り、さっと頭絡をかけてしまう。他の馬は慌てて逃げていくが黄金に輝く手綱で御された馬はもう戻れず、群れから引き離される。

 人の姿をしているが人ではないだろう男は上を見上げてヒタキに気づき、今の手並みを自慢するように笑って手を振った。ヒタキは無視した。よく知らぬ者にやたらと同調するのは危険だと、先祖の話でよく知っていた。

 男は気にした様子もなく、馬の調子を見るように暫く海上を駆けていた。逃げた馬たちは彼方へと姿を消し――男のほうも暫くヒタキと同じ向きに走っていたが、やがて北へと逸れて見えなくなる。

 その頃になると、明るかったのが嘘のように霧が辺りに立ち込め始めた。薄く霞むようだったのは束の間、すぐに濃くなり、飛ぶ竜と旅人に抱きつくようになった。潮気を含んだ濃い水の匂いがヒタキの鼻に触れる。この霧さえも魔性の、東の海の一部だった。

 視界不良の中、ヒタキはヒカタの腹を靴で撫でて速度を落とさせる。島も無い広い海原の上、本当であれば衝突するものなど何一つ無いはずだが。

「そら、お出ましだ。ぶつからんよう気をつけておくれ」

 奥に船の影が見え、ヒタキはヒカタへと囁いた。離れるよう手綱を引く。

 襤褸となって項垂れた帆が無残なそれは、かつて海の先を目指して途中で力尽きた船の亡骸、いわゆる幽霊船の影だ。ヒタキはなるべく近くには寄らないようにしている。危ないのもそうだが――近寄ると、分かってしまうのだ。船がびっしりと、貝にも似た得体の知れぬ海の生き物に取りつかれていることが。

 遠目には苔のような石のような、よくよく見れば一つ一つは拳ほどの大きさをした筒状の何かが、大量に船のあちこちに張りついている。それらはもう船の住人、主と成り代わっていて、筒の内よりずるりと長い腕――体を伸ばしては好き勝手に船を海の中に引きこんだり、逆に浮上させたり、はたまた漕ぐようにして陸に近づけていって漁師たちを驚かせて遊ぶのだ。水の中のものらしくふやけた夥しい数の腕は薄黒い紫色や緑色をしている。

 その見た目があまりに気持ち悪いので、出来る限り目に入れない。霧もあれが連れているので、近くに居てよいことは何ひとつない。やはり無視を決め込んで、ざぶと水の動く音が聞こえても振り返らぬヒタキの背後で、船は沈んでいった。

 今度は海面に顔を出した岩の横で、何か動く。よくよく見ればそれは誰かの手だ。幽霊船のように気色悪い生き物ではなく、白く滑らかな娘のもののように見える。美しい手と美しい声で招いて海の中に引きこみ食ってしまう、鬼の腕だ。ヒタキはそれにも近寄らないし、なるべく見ないようにする。美しく魅力的でも、美しく魅力的だからこそ、危ない。

 そんなものが海には幾らでもある。

 サウーラに入国する前でさえ、ヒタキたちはそんなものを話題に事欠かぬだけ見ることがままあった。人の世界とサウーラとの境界はナリュムとのそれより曖昧で、時によって違いさえする。なかなかそこまで至らないこともあれば、逆に思ったより早く入れることもある。波が寄っては返すように、また潮が満ちて引くように、サウーラは常に揺れているのだ。


 休む場所も――あの船や手が見えた岩陰をそうすることはできない――なく、人が決めた境の後も小一時間ほど飛び続けて。何処かで流れ込む例の水の柱の音を聞きながら海面に目を凝らしていたヒタキは、ある一点だけが日の出のように明るいのを見つけてほっと息を吐いた。ヒカタを促しそこへと降下していく。

 揺らぐ海の中から光を蓄えた金色の、巨大な巻貝が浮かび上がってくる。貝の口からは白い裸体の眩しい女の体が出ていた。

 彼女は貝ではなく、貝に座っているだけだ。近づけば折りたたんだ足も見え、形ばかりは先程馬を捕らえていた男と同じく人のようだった。

 ただしその髪は虹の光沢を持つ金色。目は辺りの海と同じ色をして、会うごと、時には瞬きごとに色が変わる。無表情の美貌はどことなく恐ろしげで、冷えた印象を相手に齎す。

 その人外の者も、海面から顔を出せばざばりと水の音がした。着水したヒカタが水を掻いて近づく。

「また其方か、近頃は多いな」

 澄んだ声で抑揚なく呟いた彼女は、すうと、岩陰から覗いていたものにも似た両腕で降りてきた渡りを引き寄せ――海中へと引きずり込みながら接吻する。冷たい手が頬に触れた、肌に水が触れたという感触は、すぐに薄れた。

 風を受けたように、ヒタキの着衣はいっぺんに広がった。くらげのように膨らんだ頭巾、裾や腰紐が緩慢に揺れる間に、生まれたときから海にいるように冷えた温度も塩の味も暗い青色も、海のすべてが体に馴染んでいく。

 彼女こそ、ユカリたちがサウーラへと入る為の秘密の魔法。人ではないなどと(そし)られながらも魔法など使えぬ渡りを助ける魔法使いだ。

 海の王の娘であるとか、大層力のある人の娘が海に引かれたものであるとか。ユカリの者たちは様々に想像しているが真相は知れない。東西の渡りや、海の誰かが陸や船から連れてきたり攫ってきたりした他所の生き物を海で生かす力を持ち――またかつては逆にサウーラの者たちを陸にあげる力も使っていたが、今は小魚の一匹さえ陸で生きられるようにはしてやらぬと言う。

 美声の持ち主だが非常に寡黙で、余分なことを喋るのは聞かないがたまに遠くから歌が聞こえる。亀と戯れていることがあると言っていたのはケリで、空の美しい玻璃瓶を抱えて愛でていることがあったと言っていたのはマトリだ。

 かつてユカリの祖クグイに助けられたことがあると言い、その恩義でユカリの者たちに魔法をかける。

「海から顔を出してはならぬ。海の王を(けな)してはならぬ。東の果てを目指してはならぬ。お前は海のもの。お前もだ、可愛い竜」

 魔女の声が呪文のように告げる。海にも慣れる竜だがさすがに息継ぎしなければならないヒカタにも軽く口づけて、すぐに腕を解いて別れの挨拶もなく貝に乗って何処かへと沈んでいく。

 竜に頼まず空を飛ぶとしたらこんな心地だろうかと、ヒタキはサウーラに来る度に思う。

 泳いでいるに違いないのだが、事実として、普通に素潜りするのとはまるで勝手が違った。水は重くなく、何かに触れているという感じはあるが――それも一日も経てば曖昧になって、海の水は肌に馴染んでしまうのだ。否、体のほうが海に馴染んでいるのか。

「渡り、お前に加護を。アシヒ島を呑むほどの大魚もお前を呑むことはなく、牙持つ者はお前を齧らぬし、針や毒を持つ者もお前を刺し冒すことは叶わぬ。ジェンガグもお前を見逃す」

「……ジェンガグ?」

 続く美声の連なりに知らぬ物の名があって、発した声はまだ少々くぐもって己の耳に響いたが。それでも普通に水に潜ったときのようにがぼがぼと無様な音を立てることはなく、立派に言葉となる。

 聞き返すヒタキに、魔女は応えなかった。ヒカタから離した両腕と髪をゆらと揺らがせながら、落ちるようにぼんやりと沈んでいく。辺りを照らしていた黄金の光も共に遠ざかった。寡黙な魔女にあれこれと問うても無駄だと知るヒタキは、首を傾げながらも結局は礼に手を振って光を見送った。彼女は途中で巻貝の中へと吸い込まれ、巻貝も渦巻きへと転じて消えた。

 眼下に見ていた海面を今は上に見て、宙に浮いているかの妙な感覚の中、緩く水を蹴ってヒカタに跨りなおし。ヒタキはまず下降の指示を出して海の底へと降り立った。階段のように重なる黒い岩場を覆う多くの生き物たちは硬いものも柔らかい物もいて、色合いは地上の花の時期のようにとりどりだった。魚や蟹がヒカタの大きな体から逃げてその隙間へと隠れていく。幽霊船の物にも似たフジツボたちもいたが、腕を伸ばすようなこともなく大人しい。

 外に居るのとは確かに違うが、ふやけていく感触さえも無いのが何度経験しても不思議だった。当たり前のように並に泳げ、水の抵抗も少なくなる。口や鼻の前には水があるはずが息をしているのと何も変わりないように思える。やや青く暗くはあるが視覚も聴覚も嗅覚も並に利き、深く潜っても元からそこに住む者だったかのように振る舞える。

 ようやくのサウーラ到着に息を吐いたヒタキは暫しの休憩に体から力を抜いた。海の国の利点は休むときに腰掛ける場所や寝転がる場所を探さずともよい点につきるとヒタキは思う。主人の指示待ちの竜と共に水中を漂って海に身を任せるのは不思議に心地良い。

「……一寝入りしたいくらいだが、そうもいかんな。飯だけ食べようか」

 少しだけ目を閉じて休んで、ヒタキはヒカタに呼びかけ括りつけた荷を漁った。

 竜に持たせていた荷も問題なく海の魔法に護られており、記録用の紙や本がふやけることも、人魚たちへの土産の蜜人参などの乾し物が塩水で戻されてしまうこともない。そして此処ではとても貴重な、香ばしい風味のパンも無事だ。

 まだ数に余裕がある平焼きのパンを半分食べ、半分をヒカタの口元にも放ってやって、干し魚も少し齧る。お零れの欠片を頂戴しに近くへと集まってきた生き物たちを眺めながら、ヒタキは口を動かした。

 海水に浸っているせいか不思議と水はあまり欲しくならないので、そのうち恋しくなる肉や甘味と共にまだとっておく。商売や交渉にも使えるので帰るまではなるべく温存だ。

 食べて、また少し休んで、さてと意気込んだヒタキは小さな細工を左の袖口から引っ張り出した。掌に納まる、なめらかな白い石か何かでできた小さな魚だ。尾もまた白い紐で腕飾りのように手首に括られており、放すと手首の上に浮かんでくるりと独りでに向きを変え頭で南を指し示す。

 これもまた、海の魔法使いから貰った渡りの道具の一つだ。日や星が見えぬどころか目印もらしいものも無いことが多い海の中、進む方角を教えてくれる導の魚。嵌められた小さな目に白っぽい光が灯っているのは、今は昼間であることを教えている。

 魚の体もその目も何でできているかはヒタキたちもまったく知らぬのだが、示す方角と時間はいつも偽りがなかった。

 ヒタキはそれを出したまま、魚と同じ側を向くべくヒカタの手綱を引いた。

「さて、まずはあっちだ。上手く流れに乗っておくれ」

 声のくぐもりはとれ、己のものでもどこか違って聞こえるが竜に語りかけるのも造作なく。

 東西の渡りとして海に潜るのもとうに慣れた相棒に呼びかけ、ヒタキは更にサウーラの奥へと進んでいった。

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