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東西の渡り  作者: 灰撒しずる
南北章‐ひとよがたり
15/17

七 年明かし

「豪華だな」

「年明かしだからな。一晩起きているし……薬湯はちゃんと浴びただろうな」

「ああ、言われたとおり全部浸した。此処ではケーキは作らないのか?」

「貴方の知っているものとは違うだろうが、これがそうだ」

「それ腸詰めじゃなかったのか?」

「茶にも酒にも合うし、薄く切ると結構綺麗だよ」

 数日前からまた一段忙しなく皆が働いて、無事年を見送り新年を迎える祝いの準備が済まされた。魔除けの草を燻した煙や煮出した湯を体にかけ、戸締りした扉や窓、煙突や竈にも麻縄を結わえ刃物を置く結界を施して悪いものが入らぬようにする。

 年が終わり、始まる区切りの夜には大きくものが動く。それに置いていかれぬよう、また動くものに攫われて行かぬよう、起きて夜通し番をする。その時間潰しと年明けの祝いの為に、夕食は普段の二食分ほどの量、肉や卵も使った豪勢な料理を作る。シンが前日に鹿を狩ったので今年は尚更に量と質が増した。

 シンの小屋に持ち込まれた食事も籠いっぱい、鍋いっぱい、敷物を広げて並べるだけ食器もあり、平焼きのパンは判を押した模様で飾りつけられ、酒に菓子までついてくる。近隣の国でも見られる華やかな年明かしの食卓だ。

 ヒタキが指差した菓子はケーキというには硬く、確かにシンの言うとおり腸詰に似てみっしりと固められている棒状の物だった。肉のようにも見える赤っぽい部分は干したアンズや人参を細かく刻んで蜂蜜と酒を加えて練ったもので、白いものは脂ではなく胡桃。

 何処の国にも大抵ある祭事の為の特別な菓子。以北では卵と油を使った焼き菓子だが、ユカリ一族にとってはこの香りよく手がかかった甘い菓子がそうだ。薄切りにすると光を透かして飴色に見え、確かに琥珀にも似た美しさがあった。

 菓子は後、まずは食事だ。既に調理の済んでいる鍋を火に載せて温め直し、茹でられた肉もナイフで削いで中に入れる。渡りで野宿も多いシンの手つきは慣れていた。

「……本当に向こうで過ごさなくていいのか」

「一人でいると危ないからな」

 年明かしの晩は一人でいないほうがよい。特にこのような、異形たちの世界との境が淡い場所では。彼らは仲間を増やそうとして隙のあるものに誘いをかけるから。

 戸の取っ手に麻縄を結ぶ呪いをして小刀を置いたヒタキが、床の炉の傍に座り込み酒の封を切る。灯りもいつもより多く用意されているが小屋には二人だけだ。他は皆、母屋で集まって夜を明かす。

 他の者とも大分仲良くなったシンだが、これまで母屋に入ったことはない。全員で食事を囲んだこともない。精々が、ヒタキのように誰かがこの小屋に来て、食事をして帰っていくくらいだ。それも寝泊りまでするのはシンの熱が引いてからは今日が初めてだった。

 それはシンとニオの違い、最後に残った線引きだった。ヒタキはまだ、シンを一族に引き入れてはいない。

「ひとつの年の終わり、夜の終わりを祝して」

 飲み慣れた芋酒を並々と注ぎ、言葉に合わせて杯を鳴らす。揃って呷り、二人は鹿鍋に手をつけた。

 カロカロカロカロカロカロカロカロ……

 この夜を待っていたかのように一際に荒れ始めた風に乗って微かに鈴の音が続いている。結び終えた結界の、何かの訪れを知らせる鈴の音。今日のこれは来客を告げるものではない。皆この地を見逃し通り過ぎていく。暗い冬の空を吹雪と共に白い帯となり、連なって往く。風の音に何かが混じる。足音、遠吠え、絶叫、囃す楽器の音、唄に掛け声。そして強い風の劈きが全てを攫う。

 年の変わる夜、人が家に籠る代わり、数多のものが外へと出る。

 異形が、精霊が、妖精が、魔女が、獣が、死んだ人々が、騒いで回っている。無秩序にしかし列を成して夜を往く。何処からか来て、何処かへと去る。

 ふと、その中から呼ばれた気がして、ヒタキは鎧戸と防寒幕を落とした窓を見遣った。

 妖精などではないのだろう。それらはヒタキの名を知らないはずだ。ならば近くに住む獣か、一族の誰かの霊か、はたまた幻聴。

 そう、風が聞こえるだけ。

「なんか、本当に色々聞こえるなあ。俺も初めてだぜ、こんなのは」

「此処は毎年だ。今年は特に多い気がするが、嵐の所為だろうな」

「屋根が飛ばんといいが。ハジカミは大丈夫かね……」

 竜たちの寝床も、数日前から戸を全部閉じて壁を張っている。吹き飛ばされたり何かに連れ去られたりしないように、無論呪いも十全だった。

 ふう、と口元の湯気を飛ばして二人は汁を啜り肉を齧る。体が温まれば幾分、風の音が遠ざかる心地がした。

「貴方はどうして渡りを?」

 二杯目をよそいながら、ヒタキは訊ねた。以前より確かめたかったことではあるが改まった話題のつもりはなく、此処で夜を明かす為の時間潰しの何気ない雑談の話題だった。

「言っただろう? なにかに呼ばれて、居られる場所に居られるだけ居るのさ。今みたいにな」

 何気ない問いには以前と同じような返事がある。聞き覚えは確かにあったが、ヒタキは首を傾げた。

 この男は、居付こうと思えば居付ける男だと思った。今のように。だのにそうしないのは一体なぜか。

「……まあ一番の最初は、母親かね。俺は誰が親父か分からんガキで、あるとき祖父さんに殺されそうだった」

 無言の追及に眉を下げ、シンは白状するように再び口を開いた。以前ヒタキが歳を教えたときとは逆に目を瞠ったのに、愉快そうに笑って続ける。

「南へお行き、ってな、いよいよ危なそうだってときに言われたんだよ。……南側に助けてくれる知り合いが居るって話で、別に南の果てにって意味じゃなかったが、それがなんとなく残ってな。それから人についていったり頼まれた仕事をしたりしたら、進路はずっと南へ南へ、だ。そういう巡りなんだろうよ。だからお前に会えた」

 軽く告げられる事情は、手にしていた食事よりもすんなりとヒタキの中に落ちた。ああ成程、とヒタキは思った。

 ヒタキのところに行きついたと言って屈託なく笑ってみせるが、シンの渡りは終わったわけではない。この男はまだ南へ行かなければならないのだ。

 それがシンという渡りなのだとヒタキは納得した。

 共にこの里で生きる気は無いかと、一族に連なる契りを交わさないかと言ってしまえば、彼は南へは行けなくなる。彼の渡りは終わってしまう。ヒタキは、それは惜しいことだと思った。

「貴方はすぐそういうことを言うな……」

 ゆえに二人はただの盃を交わしてたらふく食べた。取り留めなく話しては、時折けたたましく窓を叩く風に身を竦めた。

 鍋を空にしても風は唸り続ける。鈴の音が遠くに連なっている。

「ヒタキ」

 白亜城で名を教えた姫の声。最初はそう思った。風の音が不意に、己を呼ぶ声になったようにヒタキには聞こえた。だが、そう思った途端。

 風の声がすべて、その声になった。

 幼子の声が言う。少女の声が言い、若い女の声も言った。皆が同じ、少し間延びした調子でヒタキの名を呼んだ。戸のほうから聞こえた。ヒタキはその声を知っていた。覚えていた。今でも忘れられなかった。

 高い子供の声は少し落ち着いた女の甘い声になり、くぐもる。咳がとれない喉の掠れ。

 生まれてきた時には当然ヒタキより幼かった妹は、ヒタキが渡りとして独り立ちして海や山に往くうちに、ヒタキより多く年を取っていった。それでも体は小さく、痩せていて軽かった。妹は体が弱く渡りになれなかった。だから、普通に衰えて死んだ。

 甘えたような、だが心配をかけまいと元気そうにみせるその声で、妹がヒタキを呼ぶ声がする。幻か、記憶を今のものと違えているのか。

 大抵は寝台か、よくて部屋の中でお喋りや遊びに興じたものだったが、ほんの数度は家の近くで遊んだ覚えがある。遊ぶと言っても、手を貸して散歩して周り、何となく面白いものを見つけるばかりだった。ヒタキがつい調子づいて足早になると、すぐ息がきれた。

 時折病気の者特有の嫌な臭いがして、寝てばかりいる所為で後ろの髪はぺったりと平たい頭の形に添っていて。肌には年相応の艶が足りず、爪などはすぐ欠けた。

「ヒタキ、ねえ、」

「おい、ヒタキ」

 似つかない男の声に、ヒタキははっとした。肩に手が置かれ、目の前には金の瞳がある。火にあたりながら摘まんでいたはずの菓子が、半分齧った状態で床に落ちているのがシンの肩越しに見えた。

 途端、どっとヒタキの心臓が跳ねた。座っていたはずが立っていて、己が背にしているのは食事の前に閉め切った、外へと続く扉ではないか。

 酔っ払ったわけではなかった。ヒタキは酒に強く、体を温める程度に飲んだだけでは意識が覚束なくなることなどない。多少酔ったにしても、立ち上がった記憶も歩いた記憶も一切ないなど、考えられなかった。

 へたり込むと、先程置いた刃物が指先に触れた。

「大丈夫か? 風の音が何に聞こえる? 俺には駆けていく馬の嘶き、導く鳥の鳴き声」

 共に屈みこんだシンが問う。ヒタキの体は外に居たかのようにすっかり冷えていた。肩に触れた手だけが熱い。

 風の音が大きくなり――近づいて、ひやりとした空気が体に擦り寄ってくるようで、ヒタキは小さく身震いして小刀の柄を握り込んだ。

「妹がいた。三百年も前の話だ」

 幾度も呼吸を重ね、時間をかけてようやくヒタキは切り出した。騒々しい風に掻き消えそうな声もシンはちゃんと聞いていて、金の瞳が己を見ているのを確かめて、続ける。

「渡りにならずに死んだ。……体が弱くて、そうそう外には出れなかったから。渡りにはならなかった。私より、マトリより早く大人になって、それで死んだ。……その子の声が聞こえる」

 病人の息遣い。ヒタキ、と細く呼ぶ声。

 外へと誘っているように聞こえる。本当の妹はほとんど、家の中どころか寝台の中にいたというのに。

 共に行こう、共に往こう、共に。人ならざる者たちが妹の声を真似て誘いをかける。仲間を増やそうと戸を叩く。それに答えそうになった。

 初めてのことだった。何度も、東西に渡っていない年はこうして年を明かしているが、こんなにもはっきりと声が聞こえて、あろうことか引き寄せられてしまうなど。

 そうか、と言って、シンはヒタキの腕を撫で下ろした。火から離れてほんの少しの間に酷く冷え強張った体を解すように少し擦って、抱き締める。ヒタキは動かなかった。

「なら妹も渡りになったんだろうさ」

 シンの言葉は否定ではなかった。耳元で告げる声にヒタキはゆっくりと瞬いた。風の音が一瞬遠ざかり、あの声の代わりに小さく鳥の鳴き声が聞こえた気がした。

「このあれも一種の渡りだろう。――ああ、妖精なんかが行くってんなら、西や東へかも。だけどお前が行くのは今晩じゃないんだろう、妹さんはこの夜を使って挨拶に来ただけだよ。しっかりしてくれ」

 風よりも、鳥の声よりもずっと近くで言ったはっきりとした男の声に、ヒタキは長く息を吐いて力を抜いた。悪しきものから身を守る呪いの小刀は離さない。

「それはいい考えだ。ずっとそう思いたかった気がする……」

 シンの懐にぽそりと呟きが落ちる。ずっと、三百年前からのわだかまりが微かに動いた音だった。

 妹はずっと過去、あそこで死に続けていて自分はそれを置いていったのだと思っていたが、きっとそうではない。妹ももう何処かへ行ったのだ。それにようやく気がついた。その考え方はヒタキに安堵を齎した。

 風はまた強く唸りを上げ始めていたが、ヒタキはもう先程のような恐ろしさは感じなかった。これまでの年明かしと同じように、この夜はそういうものだと思うだけだ。

 嵐の声を聞きながら二人は暫し戸の横で身を寄せ合って体温を分けていたが、不意に緩んだ腕にヒタキが顔を上げると金の瞳とかち合う。シンは数秒置いてニッと笑み、体を離した。

「少し落ち着いたか? とっておきの茶をくれてやろう。美味いし、気分がよくなる」

 シンはヒタキの肩を揉んでからぱっと立ち上がり言った。ヒタキを炉の近くまで引っ張って戻した後、床に置かれた自分の荷を漁り、己の元々の持ち物の中から、ヒタキたちも以前確かめた小さな袋を取り出す。

 ヒタキは少し温まった体で座り込み、落ちていた食べかけの菓子を拾い上げ、会話の仕方を忘れてしまったので黙ってそれを弄びながらシンを眺めていた。返事が無いのに気にした様子もなく、シンは未使用だった杯を引き寄せ、草を糸玉のように丸めた茶葉をそのまま一つ放り込む。湯沸しを掴むために布巾を探す間もまだ無言だった。

「故郷の物でな、あまり見かけないし高いから、特別な時にだけ飲むことにしてる。年明かしには丁度いいだろう」

 草の束に直接熱い湯が注ぐところで、シンが説明を足した。呼吸するように茶葉が膨らむと共に、緩やかに香りが広がる。柔らかくこの時期どこか懐かしく待ち遠しい草花の香りだ。

 杯はすぐにヒタキに差し出された。そっと受け取り、まだ色の移っていない湯の中で転がる草の鞠を眺める。

 ヒタキは両手の指先で捉えた熱い杯に、暫く視線を落としていた。じんわり緑色が広がるのを見守り、深く息を吸い、知らぬ故郷の香りを纏う湯気で胸を満たした。

 いつ飲んだらよいのかも分からぬ茶を啜ると舌を火傷するほど熱かった。淡い味はやはりどこか春風に似た印象で、手の中で持て余す菓子を口に放り込んでしまうと噛むまでもなく味が掻き消えるほどに淡い。

 ころり、ころりと沈んだ茶葉を転がして。菓子を飲み込んだ口でもう一口、二口と飲んでみる。湯が少し飲みやすい温度に近づくにつれ、じんわりと深い甘みが広がるのが分かった。

「飲んだら少し寝たらどうだ。俺が起きてる」

「うん」

 シンの提案にヒタキは素直に頷いた。ゆっくりと茶を飲み干した後、その香りが消えないうちに毛布を被って横になる。床の炉とシンを背に、暫くはぼんやりと、幕を下ろして外が見えない窓を眺めていた。風の音だけが外の様子を教えていた。

 ――サザキも渡りになりたがっていた。

 もしかすればすべてが空耳、思い違い、幻などではなく。妹は死んでようやく、東西に渡るようになったのだろうか。そして渡りならば、いずれ此処に帰るのだろうか。

「一緒もいいけど、一人で行きたいな」

 また妹の声が聞こえたが、ヒタキは驚かなかった。この言葉は記憶にあった。今のは思い出した声だ。

 ――そうだった。そう言っていた。共に行こうではなくて。

「私もヒタキの知らないものを見てくるの。それをヒタキに教えてあげるの」

 閉じた瞼の裏に広がる闇が夜空と繋がる。ヒタキは大いなる嵐の行列に、華奢な小鳥が羽ばたいていく様を見た。

「ああ確かに、綺麗な鳥だ……」

 美しい鳥を見た。シンの言葉をなぞって、うつらうつらと春の野で妹と遊ぶ景色を描き始めたヒタキの呟きが落ちる。

 鳥が嵐と共に飛び去るのを、シンも瞬きの間に見ていた。


 時折ぱちぱちと火が爆ぜる音、遠くから響く内容は知れぬ子供や女の声。風の音は微か。

 年明かしを祝う日々が過ぎ、あの晩とは打って変わって静かな小屋の中、円座の上に腰を据え、シンは朝から紐を組んでいた。

 限られた中から選んだ糸は青、紫、それに金糸と銀糸もあるだけ少しずつ。丸い板に掛け決まった順序で、重ねて糾う。それはヒタキたちが結界を成すべく縄で里を囲う作業にも似ていた。決まった順序で、足で挟んだ錘を引いて祈りを重ねる。

 長く。できる限りと計算して、組んだ目を確かめながら、シンはこれまでより一等丁寧に黙々と指を動かした。

 マトリがシンのところを訪れたのは、ヒタキが飯炊きをしている隙を見計らって、だった。シンはやはり先に手を止めて、戸のほうに居直りマトリを見据えて出迎えた。

「ヒタキなら来てないぞ」

「知ってる」

 探しに来たのではと思ったシンの予想に反し、マトリは訝しがるシンの横に歩み寄り、土間に足を投げ出してどかりと腰を下ろした。

「お前さん、此処に住む気はないか?」

 急な問いかけだったが、シンは驚かなかった。すぐに肩を竦めて歯を見せ笑ってみせる。

「ずっとこの山に閉じこもって暮らせって?」

「そうじゃない。東西の渡り、我が一族の一員として暮らす気はないかと言ってるんだ」

 意味が通らなかったのではなく茶化す言葉だと聞こえて、マトリは溜息を吐いてから言い直した。酒の匂いもない場所で、寝起きでもなんでもない、素面の大真面目な提案だ。

 それをやはり、シンも分かっていた。眉を下げて真剣な男の顔を眺め、少し黙ってから再び口を開く。

「アンタを兄貴だか親分だかと慕ってか。悪くはないな。アンタは――他もいい奴だし。きっと不思議なもんがいっぱい見れる。きっと、楽しい」

 最後は溜息のようだった。

「見れるぞ。一国の王も見たことがない、山の頂と海の底だ。妖精も幽霊も人魚もいて、鳥が喋る。俺は何回も渡りをしてるが、まだ見たことがない国がある」

 肯定して続けるマトリの声にシンは何度も頷いた。想像に、いいなあ、と呟いて。

「でもそれを言うのはアンタじゃないだろ」

「俺が口を利こう」

「駄目だろ」

 きっぱりと言い切る言葉は仕掛けのように噛み合った。シンはかつてのヒタキと似たつれなさで突っぱねた。

「こんなに長く居させてくれたことには、本当に感謝してる。だがそれは駄目だろう、違う。俺の命はヒタキのものだよ、アイツが拾ったんだ」

 眉を下げたマトリにシンも同じように眉を下げ、心底申し訳なさそうに笑って詫びるかの声で言う。マトリはもう何も言えなかった。頭を掻いて大儀そうに立ち上がり、結局一人で数度頷いた。

「さ、戻った戻った。ヒタキに見つかるぜ」

 小屋はまたシンだけになり、暫くは静かだった。シンは炉の火を足すのを忘れそうになるほど熱心に紐を編み続けた。

 ヒタキが訪れたのは日が暮れて暗くなってから。足音を聞きつけたシンが戸を開けてやると、ふうと白い息の向こうにいつものように夕食を持って一人で立っていた。

 煮物とパンを温め直して、今日は誰が何をしていた、ニオが癇癪を起こして泣きやまなくて大変だった、天気の見立ては、竜たちの調子が、などと取り留めのない話をしながら二人で食べる。もう一月もそうして過ごしていたので、合間合間の沈黙も間合いを計る息苦しいものではなくなっていた。

「酒をやろう」

 食べ終わったところで、片付ける食器とは入れ違いにヒタキが籠から白い酒瓶を取り出した。

「お前好きだよなあ、いっつも飲んでる」

「今日は貴方の為に持ってきてやったんだよ。年明かしもあんまり飲んでないだろう、嫌いなわけでもなしに」

 笑って揶揄するシンに言い返し、瓶と揃いの白い陶杯に静かな所作で気に入りの酒を満たす。

 とろりと渦を成して流れ込む、深い、黒に近い青。とっぷりと暮れた夜闇色の中にちらちらと光る星が散っている。

 思いもよらぬその見目に、シンの金の目は大きく瞠られた。ぱちぱちと瞬く間にも、灯りや炉の火を反射して杯の中は揺らめき景色を変える。

「すごいな、なんだこれは――飲めるのか?」

「酒だと言っただろう。私のとっておきだ。西の山の、アムデンという国の酒だ」

 手渡すのを慎重に受け取った後もシンは手の中の酒杯に見入って、少し揺らしてみては光が散って舞う様子が幻ではないのを確かめた。

「茶をくれただろう。あれの礼だ。――金の粒は飲むなよ。それは澱だから齧ると渋い」

 なるべく素っ気なく言い、ヒタキはすぐに注意に変えた。くるくると杯の中身に渦を作っていたシンは手を止めて眉を寄せた。

「先に言えよ」

「でも綺麗だろう? それも見せたかった」

 ヒタキは目を細め悪びれずに応じた。

 杯に注いだ酒が落ち着き、澱が沈むまで待つ。その時間にシンは決めた。視線を上げるとヒタキと目が合って、それにニッと笑顔を返す。

「風が柔けりゃ明日にでも発ちたいんだが、上手く山を降りれるかね」

 突然の言葉も歯切れよく。ヒタキは一時息を止め、緩く吐き出してから用意していた言葉を舌へと載せた。

「竜がいればどうにでもなる。風が向けば麓まで行って、次の夜は町で眠れる」

 シンを見つけたときは無謀な道をと言ったものだが、それは此処が隠れ里で、彼が何も当てなく山に向かって飛んだに違いないからだ。

 ユカリの里自体は他の人里と行き来できるような場所に作られている。風向きがよい日を選んで麓に向かい方位を間違えなければ野宿は避けられるように。冬の最中でも、嵐の時期さえ過ぎてしまえば閉じこもっていることもない。

 明瞭な好ましい響きの返答、堂々と座ったまま応じたヒタキに、シンは笑みを深めた。

「そうか。じゃあ支度をするとしよう。世話になったな」

「……ああ」

「ヒタキ、ちょっと立ってくれ」

 言って、シンも杯を置いて立ち上がった。ヒタキが応じる間に奥の荷の上に置いてあった物を掴んで戻り、炉の脇に立ったヒタキの腰に両手を回す。

 ヒタキが文句などいう間もなく近づいた金髪の頭に驚いたうち、されるがままに腕を浮かせてしまえば、飾り紐は腰を一周して結わえられた。

「ん、ん、まあいい長さだな。それは助けてもらった礼だ。できれば売るなよ」

 垂れ下がる余りを手で掬い、放して。少し離れて確かめ言う男に、ヒタキは呆けて腰元を見下ろした。

 深い青と紫を基調にした飾り紐が、着膨れる冬服の上で己の腰元を飾っていた。長さは腰に巻いて余るほど、艶のある白い留め具と端の飾りは鹿の角を細工したものだった。紐は見たことのない色合わせだったが、留め具のほうはいつか、シンが外に出れない天気の日の手慰みに磨いていたのを思い出す。

 目もきっちりと詰まった、丈夫でしなやかな美しい紐だった。ヒタキの黙って指が紐に触れる間に、シンは再び元の位置に座ってしまった。澱の落ち着いた酒を飲み、感嘆の声を上げる。

「美味いな、これ。こんなに綺麗な上に美味いのか」

 素直で飾らぬ言葉。

 食事のとり方などで食の好みも近いようだと分かっていた男だ。きっと気に入るだろうと思っていたヒタキも、演技ではなさそうな単純な反応に笑って静かに座り直した。杯を持ち上げて、掲げる。

「この紐も綺麗だな。ありがとう」

 撫でて辿った飾り紐にちらちらと金銀の糸が覗くのが、丁度二人の手中に戻った酒のようでもあった。

 

 翌朝はよく晴れて、冷えるが風の穏やかな日和となった。遠くで太陽が身を起こそうとしているのが分かる、星や雲の縁もくっきりと見える澄んだ空だった。

 暗いうちに起きだしたシンは少ない荷物と鞍を手にハジカミの待つ厩へと向かった。食料や着替えなど、シンが予想していた以上に荷物が用意されて、自分たちが旅に出るかのようによく着込んだマトリとケリが待っていた。

「やあ、こんなにいいのか? 悪いなあ」

「最後の最後に突き放すようなことはしないわよ。渡る人はちゃんと送り出さないと。要る物があるなら今のうちに言いなさい」

「ありがたい。……今日の風はどうだろう?」

「悪かない。あの金色ちゃんなら問題ないだろうさ。……まったく、急に言い出すんだからなあ。もっと前もって言ってりゃ、しっかり準備したんだが」

 白い息と共に会話が弾む。何も知らぬ素振りでマトリが言うのにシンは悪戯を秘めるように笑った。

「思い立ったときってのが吉日なのさ」

 ヒタキは小屋の中で、ハジカミを撫でて待っていた。既に体を温めていた竜は主人の姿が見えると嬉しげに喉を鳴らし、鞍と手綱を受け入れる。シンが荷物を括りつけるのを手伝うのは、三人とも勿論慣れていた。

「これ、何か意味あるのか」

 荷物を留めるのは褐色に近い緑の麻縄で、結び目がいくつも作られている。ヒタキも以前、ナリュムで助けられた蓬の染料、紐や縄で作る古典的な呪い、お守りだ。

「魔除けだ。また化かされて落ちないように」

 昨夜貰った編み紐に比べて貧相な見目を幾分羞じて、自分がわざわざ用意したのだとは言わず、ヒタキは素っ気なく教えた。そもそもそんな恩を着せるつもりもなかったが。シンはしげしげといくつもある結び目を手袋越しの指で辿って、ありがとう、と小さく呟いた。

「このまままっすぐ。それでまず拾ったところだ。そこから更に東に行って、外の結界を抜けるんだ」

 呆気ないほど手際よく準備は進んで、未だ夜明け前。揃って竜の小屋を出てマトリが示して教える頃には老いた長を連れたシトトもやってきた。向こうの窓からアイサたちも見ていると教えられたので、よく見えないながらシンは手を振った。

 見送り、別れの挨拶というのはどこでも似たようなものだとシンは思う。丁寧にしても限りがあるが、止め時が分かりづらい。

「――それじゃ、行くかな」

 幾重にも似た挨拶と感謝を繰り返した末に言って、爪先を結界のほうへと向けるシンにまた、気をつけて、達者で、と聞こえる中から、ヒタキだけが踏み出す。

 シンは驚いたが、その驚きを隠して意気込むようにして一歩、二歩、踏み出した。

 一人か、と問う言葉は真剣なものにせよ、茶化すものにせよ出ない。それで心変わりされてはまずいと思って、けれど他には言うことが見当たらず黙って進んだ。ヒタキもそれに数歩遅れて――やがて並んで木立へと向かう。

 家へと戻っていく里の者たちを背に、二人は竜と共に黙々と疎らな積もり方をしている雪の上を進んだ。適当な会話が思いつかず、口からは言葉ではなく白い息だけが零れた。襟巻の隙間から宙へと漂って消えていく。原から木立へと入り、木々に密やかにつけられた朱色の塗料の目印を頼りにまっすぐ進み続ける。

 やがて、シンを見つけた日、ヒタキがマトリと共に張った鈴が連なる縄が見えてきた。先は外だと示す境界線。

 まだ歩く。もう少し。まだ、まだ。

 まだいいのか、とシンが問うてしまうよりは早かった。

 ざくりと、やけに響く足音にシンが振り返る。ヒタキが立ち止まっていた。風に黒髪と真新しい飾り紐が揺れている。

「そこから外だ」

 よく通る声が言った。シンは些か、自分で思っていたより大きな落胆を呑んで、冷えた頬を努めて動かし笑った。

「もうか。……皆によろしく。世話になった、元気で、と」

「ああ」

 ヒタキの返事は短く素っ気ない。外に出る男を見つめるその顔は別れを惜しんで悲しんでいるようにも微笑んでいるようにも見える具合で、シンには区別がつかなかった。

「……本当に。……また会えそうか?」

「会わないよ」

 ただし否定は明瞭だ。迷わず、外だと告げた先のものと変わらぬ声音。

「私は東西の渡り。お前は南へ。道が違う」

「本当にツれないな。可愛くねえの」

 きっぱりと言い切るのにぼやくと鼻で笑ったのは確かに聞こえた。シンも同じように鼻を鳴らして竜の手綱を引き、挨拶させるように少し頭を下げさせる。

「ヒタキ」

 最後だろうと思えば殊更に大切に短い名を呼び、目が合うとそれまでと変わりなく金の目を細める。

「会わんでもいい。息災で」

「……貴方も」

 勝手に願うことは許されるだろうと言いきって、応じるのを聞き届けたシンは深く冷えた空気を吸い、大股に踵を返して三歩ほど前に出た。ハジカミもそれに従う。久しぶりの外とやらは確かになにか雰囲気が違って感じられた。肌触り、大気の味が違うような気が。

 それを伝えようとしてもう一度振り返った彼は目を瞠り、暫くしてから瞬いて、困ったように一人で眉の下がる笑みを浮かべた。

 そこには誰も居なかった。それどころか、自らが歩いてきた足跡も見えない。山の景色だけが広がって、急に別の場所に放り出されてしまったようだ。

 まるですべてのことが、夢幻であったよう。別の人里に降りて確かめれば百年が過ぎているかも知れぬ。

「ハジカミ、……俺たち、帰ってきちまったんだな。……居たよな、あそこに」

 ハジカミは瞬き、黙って尾を揺らした。

 すぐに引き返せば、もしかすれば。――シンは一瞬過ぎったその思いを己で否定した。

 そんなことはない、と断じられたのではない。期待はしていた。しているがゆえに、その期待が叶わぬかもしれぬのが恐ろしかった。

 異界探訪の物語の結びは、大抵、出てきてしまったなら二度と戻れぬで終わる。ならばこれも、そういうものなのだろう。外に出ると決めたあの時から、もう戻れなくなった。ヒタキの言うとおり本当に、もう会うこともないのだろう。

 そう言い聞かせて、シンは再び前を向いて歩き出した。やがて竜に跨り、その後は振り返らなかった。風も彼を邪魔することなく遠くへと運んだ。化かされ騙されたこともなく日暮れ前に一番近い町に着いて、人に聞き確かめた暦は覚えどおり年を明かしただけで一年も百年も過ぎては居なかったが。シンはすべてをいつか遠い昔の日のことだったように、錯覚したのだった。

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