六の二 冬籠りの頃ⅱ
朝の明るい光が竜たちの吐いた息に反射して厩舎の中に立ちこめる。広々とした房の中、藁を敷いた寝床からのろりと置き出してきた彼らは用意された籾殻を食んで、体の点検をして健康状態を確かめられ、朝の運動として辺りを動き回り体を温める。
ユカリが飼いならす竜たちは寒さにも強く、寒い時期に体を覆う毛が生え揃ってきたので今は灰色の上に薄白く雪に似た色をしている。その中で、一頭だけ藁に紛れる色合いの竜が伏せている。
拾ってきた男の竜だ。
「ハジカミ」
ヒタキが呼んでやるとぱっと顔が上がった。丸く碧い目が主人を探して彷徨うのに眉を下げ、慰めるように首元を擦ってやる。
「まだ会えないんだ、悪いな。でもお前が元気だとは伝えておくから」
ハジカミ、と名を教えられた牡竜は出会ったときの印象そのまま、主人によく懐いていた。
シンの姿が見えないので頭も尾も下がって餌もろくに食べず、体を温める動きにも覇気がない。仕方なく、ヒタキはシンに会ってからこの小屋に来るようになった。ついでに服や手拭いに匂いを移してくれば覿面に効果があり、どうにかまともに生活をしてくれるようになった。見慣れぬところでの集団生活自体は初めてではないようで、他の竜と争う様子はなく、並んで寝たり遊んだりと仲良くやっている。
新入りを構う主人に不満気に寄ってきたヒカタの頭も撫でて、ヒタキは溜息を吐いた。
自身の拾い物ゆえ世話もするし竜の為にも幾度と会っていたが、シンは好意を隠さず言葉にこそすれ、ヒタキが判じたとおり挨拶程度のもので不躾に手を出してくるこもなかった為に、ヒタキは早くも慣れ始めていた。
拾ってから四日経つ。タヅが見立てていたとおり、彼はすぐ身を起こせる程度に回復した。時折咳き込むし足ばかりはまだ動かすなと言いつけられたので小屋で大人しくしているが、血色がよくなり顔や体を拭いて髭を整えたのでこざっぱりとして、体格が良いだけに元気そうにヒタキの目には映った。
同じく体格がよく一応は元気に見える竜を撫で、ついでにヒカタや他の竜たちも撫で回して他の獣とは違う特有の冬毛の感触を味わい、朝の世話を終えたヒタキは酒を飲みに倉へと向かおうとしたがケリに見つかって、そのまま鍋の煤払いに引っ張られてしまった。
腕が張るまで鍋を磨かされついでにあれもこれもと作業を振られ、最後には軽食の支度の間ニオを構ってやり、くたくたになってようやく蒸かし芋と茶を報酬に解放される。
解放、と言っても共に薬を持たされたので、その後の行き先はまたシンのところだ。ここ数日は大体そんな感じで時間が経っていく。
用心しろとシトトには言われたが、あまり必要にも思えなかったしいちいち誰かに同伴を頼むのも面倒臭く、結局ヒタキはほとんど一人で小屋に赴いていた。
閂を開ける音で気がつくので眠っていたり便所に行っていたりしなければ、シンとは扉を開けた直後に目が合う。ユカリ一族とはまるで違う金の双眸。金の髪。薬の匂いと入り混じり、閉め切っていた小屋の埃臭さが失せる代わりに存在感を増していく、知らぬ他者の匂い。
シンは小屋の中央の炉の近く、怪我した足を投げ出して床に座り、糸に触れていた。
「よお。これは紐を編んでる」
案の定すぐに目が合い、ヒタキが訊ねる前に手にした物を掲げて答えた。言葉のとおり、荷物に入っていた星か花のような奇妙な形の板切れの下、白と朱の糸束とは別にそれらの糸が合わさり二色の飾り紐になった物が、既に掌一つ分ほど出来上がり下がっていた。
板は紐を作る為の道具だった。中心の穴に錘をつけた糸を通して、引っ張りながら縁の凹凸に糸を掛け替えると編まれた物が少しずつ下へと模様を成して現れるのだ。
床の炉を挟んで座り軽食の用意するヒタキに、シンは一巡二巡りやって見せた。糸束から繰り出される糸は絡まず交差し合い、一段一段模様を成して再び三度と元の位置に戻る。この重なりで、長い紐になる。
ヒタキには見慣れないものだったが、何か覚えがある気もした。組む糸の動きが何かに似ている気が。
「……やらないのか?」
思い出すより先、どことなく手順に理解が行ったところで編み板を置いて自分へと向き直るシンに、ヒタキは首を傾げる。シンはやや、呆れたように眉を下げて笑った。
「お前が来たからな。話し相手も居なくなったときにとっておくさ。それに、それ食っていいんだろ?」
布巾を払われた芋の皿に、ヒタキは頷いた。
冷め始めた芋は木のような皮に灰色っぽい中身と見目が悪いが、塩をつけて齧ると甘い。生のままでも日持ちがするし干し芋にもなる、調理も容易い、冬には定番の食料だった。
「こっちは喉の薬。後で舐めておけ」
「……不味くないか?」
「それは金銀花だから美味いほうだ」
「ならよかった。後でもいいな」
相変わらず声が嗄れ気味なのに、喉に効く花の蕾を使った薬が入った小さな磁器の壷を横に並べて言いながら、ヒタキは湯気を撒いていた湯沸しをそっと持ち上げた。ケリが炒り麦茶を入れておいてくれた茶器に炉で湧いていた湯を注ぎ少し揺らす。味が出るまで少しかかるが、二人とも待たずに芋の皮を剥いた。
「元は女の仕事なんだが、なかなかいい値で売れるし、荷物も重くならんで暇な時に作ってられる。野宿でもな。行き先で仕事を探すより楽で、自由でいい。――女々しいと笑うか?」
視線を芋に落としたままシンが言う。横に除けた紐を編む道具はそれなりに年季が入っており、先程の糸を繰る手の慣れた様子からしても嘘ではなさそうだった。
笑う気のないヒタキは芋を噛む間少し考えて、口を開いた。
「女にしかできない仕事なんて子を産むことくらいだ。他はどうとでもなるし、やれるならやったっていい。できないなら諦めるのは肝心だ」
「それ、誘ってるのか? お前は小気味いいな」
笑い声が上がる。なあ、と軽い言葉の後すぐにシンが続けたので、ヒタキは冷えた一瞥をくれてやる暇がなかった。
「でも助けてもらったんだから、他の仕事だってするぜ」
言った大口で芋に齧りつく。ヒタキは未だ湿布と包帯のあるシンの右膝を見て肩を竦めた。
「怪我人は大人しくしているのが仕事だろう。……私はずっと看病だなんて御免だぞ」
ふと妹のことが過ぎったのを振り払い、剥いた芋の皮を炉の火に放り込み、解れた芋の欠片を摘まんで口へと放り込む。
口を塞ぐに足る食事に互いに暫し黙し、一つ平らげるのはシンのほうが早かった。口より先に空いた手で茶を注ぎ始めたヒタキに、戸を指差して示す。
「あの外に出たら、人の住む場所だと思っていたのが魔物の住処だったりするんだろうか」
ヒタキは怪訝に眉を上げた。
「何を馬鹿なことを言っているのか」
「そろそろ化かされているような気がしてきただけだ。明日辺りハジカミに会わせてくれよ。俺が我慢できなくなってあの戸を開けて崖っぷちに放り出される前に」
妖精の国に攫われたときの話をしているのだとは、ヒタキにはすぐに合点が行った。何せヒタキにしてみれば、何度も訪れている国の流儀、約束だ。
美しく楽しい場所だと思ってまさしく時間を忘れて遊んでいたら一夜が千夜、宮殿だと思っていた場所はただの湿っぽい洞穴で、歓待していた美女は枯れた木々、帰ろうとしても道は分からず帰る国は滅びている。――ロガンで会った異国の騎士のように。
長居は禁物だが、まず妖精たちの不興を買って投げ出されない為には、言いつけは守ることだ。箱を開けてはならないとか、そこの扉は使ってはならないとか。シンはそのことを言っていた。
確かに、彼は人里のない山へと飛んでいたはずで、実際ヒタキが助けて里に入れなければ離れた町に戻れることもなく死んでいたが。ヒタキは呆れて首を振った。
「私たちはただの人間だ。妖精でも鬼でもない。此処だってただの田舎と変わりない。……長と話しておく」
少なくともヒタキたちは妖精ではない。隠れ里であることは否定できないが、此処は幻ではなく、シンにとっても現実だ。
はぐらかさずに応じたヒタキに、シンは笑みを深めた。差し出される茶を受け取って、乾杯のように掲げて肩を竦めて見せる。
「ああ。よろしく頼むよ」
長老シギ、その後継マトリからも許可はすぐに出たが、竜を預かっている場所と小屋は大分離れていて歩く必要があった。タヅが足の痛みがとれてからでないとつらいだろう、無理をさせると長引く、と言い、天気も些か荒れたので結局それからまた五日も経ってしまった。
そのお陰でシンの足はかなり良くなったが、大分手持無沙汰のようだった。喉の調子は足より早く万全になった彼はこれも女が歌うものだという仕事歌を歌いながら紐を数本仕上げてしまって、木彫りの竜も完成させていた。いずれもそれなりの出来栄えで、町に行けば売る場所もあるだろう。
出来の良い物はヒタキに押しつけたシンも、そのようなことを言った。そのうち町に降りるのだろうから小遣いにでもするとよいと。
他の意図があるのではとシトトには冷やかされたが、ヒタキは言葉どおりに受け取って行商の荷にそれを加えておいた。年が明けて風が緩むまでは商いの予定も、逆に買い物の予定もなかったが、足しがあって悪いことはない。
そしてそうして過ごしている間、シンは一度も、戸には触れなかった。あれ以来窓も覗かず、隙間から差し込む光やヒタキたちが訪れるその背の様子でちゃんと日が経っていることだけを確かめて、大人しくしていた。
すべてを監視していたわけではないヒタキだが、その空気ばかりは感じとっていた。だからか案外すんなりと外に出してやる気になった。相変わらずたまに口説くような文句は出るが、深追いするでもない軽口はもはや外から聞こえる風の音のようなもので、悪い感情が起こるほどではなかった。
むしろ案外、共に居て苦にならない程度には相性のよい人間だとは、渡りとして行く先々で人と交流する身で十分に感じとっていた。互いの立場と関係を理解する、下らぬ会話を楽しんで適度な距離を保つ、その辺りのことがシンは上手かった。
「山の中にこんなに開けた場所があるのか……」
ヒタキが扉を開けてシンを連れ出したのは、夕方に近い午後だった。冷えるが雲は疎ら、陽射しがあって風は穏やか、久々の外出には適当だろうと判じてのことだ。
シンは一歩二歩、およそ十日ぶりに塗り固められた土間ではない土と枯草の上へと踏み出し、まだ明るい外に目を細め眇めて、はあ、と大きく感嘆の息を吐いた。
ユカリの里は、彼が思っていたよりずっと広く原の景色を広げていた。枯草と雪の起伏の少ない中、小屋の前から細々と道らしき跡が続いていて先にはぽつぽつと出てきたのと似たような木や石で組まれた建物が様々な大きさで並んでいる。周囲は深い木立、森に覆われ、一部は原より高く、一部は低く――確かに山となっている。
「山賊かと思ってたのに、もっと珍しそうだな。お前の家はどれだ?」
声には些か興奮が滲んでいた。景色自体は寂れた農村のようでもあったが、それがこの辺りにあるというのを、シンは知らない。高めに竜で飛んでいたときさえ、視界の端にも映らなかった。
「竜の厩はこっちだ」
「……冷ややかだなあ。紐の分くらいは柔らかくなっていいんじゃないかね。ま、あれは宿代だが」
答えずに促すヒタキにも、シンは笑って茶化すだけだ。久々の外の空気に思いきり伸びをして、悠々と歩きはじめる。
その足が傾斜のついた積雪へと向かうのを見て、ヒタキは袖を掴んで軽く引いてやった。
「ちゃんと歩かないと滑るぞ」
「なんだ、意外に優しいな」
「またすっころんで足を挫きたいか?」
頬を緩め目を細めるシンに対し、やはりヒタキは眉を寄せて呆れた冷ややかな反応だが。そうして言い合いながら、二人は膝を庇いゆっくりと、近頃にしては温かい原を進んだ。
談笑の声を聞きつけて、厩の中をそわそわと動いていたのはハジカミだ。忙しなく戸口から顔を出しては柱に額を擦りつけ、寝床の藁を尾で巻き上げる。それはもう、大層な御機嫌の様だった。他の竜たちは遠巻きにしていたが、勿論お構いなしだ。
目指していた小屋の端にちらと動くそんな姿が見えて、シンは弱った膝を叱咤して、駆けだすことはできないまでも急いで寄っていった。ヒタキも止めない。
「ハジカミ! いい子にしてたな。他の竜とは上手くやれているか?」
近づけばくるるるるると長く喉を鳴らしているのも聞き取れ、応じて呼んで、シンは窓から突きだされた頭を抱擁してやった。
ヒタキは初めて、そんなに嬉しそうで元気なハジカミを見た。シンもハジカミに意識を向けてまるで自分の側を見ていないので、つい素直に笑みが顔へと上ってしまう。
シンやヒタキが出してやるのも、入ってくるのも待ちきれず、戸が閉じたまま限界まで身を乗り出してくる姿に破顔したシンは、暫く一心に愛竜を構った後、不意に振り向いてその先に笑みがあったのに驚いた。
ほんの一瞬、同じく些か動揺して顔を常のものに戻したヒタキに対し、シンの顔はまた、徐々に笑みに戻る。
「……竜にこんなに好かれてるんだから、きっといい奴だろうとの発想は?」
「自分で言う残念な男なのだというのは分かったよ」
ち、と舌打ちして突っぱねるのもこうなっては逆効果だと、にやけ面の男を睥睨したヒタキは、その金の瞳が己より後方のどこかへずれていることに気がついて振り返った。
少女と、幼い男児の姿。桶を抱えたアイサとニオが二人の存在に驚いて立ち止まっていた。
「弟妹か?」
「違う」
お前の、と問うシンへの否定の声は早く。ヒタキは足早に二人歩み寄った。桶は竜たちの水分補給の為の物で、中は母屋から持ってきた湯で満たされていた。
「今日はまだやってなかったのか」
日に数回の水やりは終わっている時間だと見越してシンを連れてきたのだが、予想に反してまだだったのは訊ねずとも明白だ。ただどう対応したものかと考える時間稼ぎに、ヒタキは男を背に壁になった。
「干し芋作る手伝い、してたから……どうも、こんにちは」
何度か頷いて視線を逸らしたアイサは、ちらと初対面のシンを窺って鈍く挨拶した。年の割にははっきりとしていなかったが――それはアイサの性格の為ではなく、今のこの状況の為だ。此処に他人がいることは滅多にない。
対して、シンのほうは実に朗らかだった。アイサの挨拶を待っていたように、ニッと笑って手を挙げて見せる。
「初めましてお嬢さんたち。俺はシン。君たちの名前は?」
「――こういうときに言わないの! 教えてもらったでしょ!」
問いかけに、アイサは慌てて弟の頭を自分の側へと引き寄せた。口を開きかけていたニオは心当たりにはっとして、小さな両手で自分の口を覆う。どうにか、短い名前も出きらずに済んだ。
両親が幼い子供に妖精たちの物語りと共に聞かせた教えは、早くも根付いていた。家族以外の人には名前を教えないこと。それがとても綺麗な、優しい友達でも、はじめて会ったときは特に。
「ああ、悪い悪い、ごめんな。言えないなら言わなくていい。お嬢さん、お坊ちゃんとでも呼べばいいからな」
振り返るヒタキの窘める眼差しに、シンは肩を竦めて謝罪したが。アイサは自分と弟を示して親しげに言うその中身にぱちくりと瞬いた。ヒタキは結局はあと呆れた溜息を吐く。
「……ああ悪い、お前もお嬢さんとかお坊ちゃんとかのほうがいいか?」
「お前私が拗ねているとでも思ってるのか? ――いいよ、気にしないでやってくれ」
溜息は追加でもう一つ。真面目に付き合うのも馬鹿らしく、こうして出てきた以上は会わせないようにするにも限界がある。自分の目もある以上悪いことにはなるまいと、ヒタキは諦めて数歩動いて元の位置へと戻った。
シンと共にハジカミを押さえながら戸を開けて、入れ替わりにアイサとニオを中へと促す。外へと出されたハジカミはまだまだ元気よく主人の周りを回って尾を揺らしていたが、他の竜たちは行儀よく二人を待っていて、小さな子供が駆け寄ってくるのにも慣れた調子で体で受け止めてやる側だ。
竜と遊び時折きゃあと高い声で上がる子供の歓声も増えて、竜の厩舎はいつになく賑やかになった。アイサはまだシンを気にしてぎこちないが、シンのほうは気にせず振舞いで、ハジカミとの再会を暫し楽しんだ。それくらいでシンの膝が悲鳴を上げることもなさそうだったので、ヒタキは一人と一頭を横目に、竜の世話を手伝うことにした。
「……家の数の割に竜が多いな。皆乗るのか」
やがて、落ち着きを取り戻したハジカミを小屋の中へと戻しにきたシンが、改めて中の灰色竜たちを確かめて呟き問うた。
独り言めいたその声にはニオもアイサも、ヒタキも答えなかったが、シンは気にしなかった。
「ねー! おいちゃんおれとおなじ?」
何を聞かれているのか分からないことには答えなかったが、竜にも慣れて大きな友達として接している子供の興味は、再びの声かけによって初対面の大人へと移った。
ハジカミが散らかしていた藁を寄せていたアイサがまた慌てて顔を上げたが、ヒタキが制する。シンが見るのには頷いて、構ってやれという。
「ん?」
それを確かめて、シンはくっついているハジカミに寄り掛かりながら、まるで臆さず近づいてきたニオを見下ろして聞き返した。
「まっくろけーじゃないもん。ひろわれてきたの?」
辿々しく舌足らずな喋りではあっても十分に聞き取れ、意味もとれた。ヒタキやアイサ、そして彼を拾ったマトリたちの黒髪や紫の目とは違う、亜麻色の髪に栗色の瞳の幼子。それでシンは彼の境遇を察した。
「ああ、そうだ。ヒタキに拾われた」
「ひいのこども?」
肯定に間を空けずもう一つの問いが飛ぶ。幼いニオはヒタキのことを短く愛称で呼ぶが、指差して問うたのでこれも意味は十分に通じた。自分と同じなら、と言うのだ。
シンは目を丸くして、瞬き、一瞬後に大笑いした。ニオは何がおかしいのかも知れずきょとんとして立っている。
「そうかもな!」
「違うよ、それはただのおじさんだ、関係ない」
更なる肯定には訂正があったが、幼子に対してヒタキもそれ以上説明をしようとは思わない。アイサだけがまた落ち着かない顔をして窺うのにも緩く首を振るだけして、さっさと疲れる時間を終わらせるべく作業を片づけていく。
「俺はハジカミの父ちゃんかな。卵から育ててる。……名前は知らんか? こいつがハジカミだよ、ほれ」
ヒタキの言葉は否定も肯定もせずただ聞いて、シンはにこやかに、膝の痛みさえなければ屈んで相手をしただろう愛想のよさでヒタキたちが集める藁と同じ色の尾を掴んで揺らしながら教えた。
ハイカミ! ハニカミ! ハジカミ! と初めて知った言葉を繰り返す子供の声が木霊する。当の竜は久々の主人が横にいるので尾を引っ張る手にも寛容に付き合って、他の竜たちと同じように幼子と遊んでやった。楽しげなその様を横目に、妹の幼かった頃も思い出しながら、ヒタキはアイサと共に手早く仕事を終えた。
それ以後、シンは毎朝毎夕、竜の世話に同行した。膝の具合を見ながら落ちた体力を取り戻しながらの動きは徐々に安定して、見守りニオの相手をするだけだったのが、竜の体を拭い、餌をやり、水を汲んで運び、やがて屈みこんで掃除や寝床の支度をするまでになった。
また十日が過ぎた。シンはもう走れるようにもなり、ハジカミに跨れるようにもなった。試しに鞍を置き少しその辺りを歩かせてみても、何も問題はない。渡りとしてまたやっていける。
「足はもうよくなったな」
ヒタキは二十日目の夕食の際にそう切り出した。
埃っぽさも薬の匂いも失せてすっかり馴染んだ小屋、床の炉を挟んで向かい合わせに座し、体を温める香辛料の効いたスープに浸したパンを食んでいる最中のことだった。
寛いでいた空気が一転しシンは動揺を隠して息を詰めた。今日は朝から、そして夕食の鍋を持ってきたときから、ヒタキの様子がこれまでと違うことには気がついていたが、やはりと思った。
「ああまあ。……そうだな、準備したらすぐに」
「もう年が明ける。それまでは居ろ。死にたくないならそのほうがいい」
居心地のよさに甘えていたが仕方がないと、すぐに紡いだ言葉は遮られた。
シンはゆっくりと瞬いてヒタキを見た。相変わらず澄ました面構えで突き放すかの口振りだが、言い間違いの類ではなく言いきった後は付け足しもない。
「妖精に攫われたいなら丁度いいが、か? お前たちはやけにそれを気にするな。この辺りは多いのか?」
なるべく静かに詰めていた息を吐いて軽口を紡いだシンに、ヒタキは笑わないまでも溜息は吐かなかった。
「私たちには縁があるんだ。――いいな、年越しまでは飛ばないほうがいい。長が許しているのだからお前は客だ。無下にはしない」
多いというと語弊があるが、東西に至る道の道中となっていることは間違いなく、向こうもユカリたちを知っている。妖精鳥に化かされて落ちたような男であれば、また魔法をかけられる可能性も低くはなかった。
そうでなくともまた、風が強く雪が散り始めている。とうに年越し、冬籠りの時期なのだ。
「お前は本当に面倒見がいいな。ありがとう、助かる」
シンは残りのパンをスープに入れて、匙でつついて沈めながら心底嬉しげににやにやと笑った。
長の、とヒタキは言うものの実際は許可をとったヒタキの判断、ヒタキの提案だった。それを見透かすように、けれど指摘はしない。
「……なあ、そういえばお前、いくつなんだ。二十も行っていないように見えるが」
「暦の上では三百と二十四、私の中では精々四十」
代わりの問いかけにヒタキは淡々と応じた。年のことを言ったとも思えぬ数字にシンの手がまた止まる。
「暦で歳を数えるならそうなる。生まれたのはこの辺りが冷害に見舞われた年だ。肉体がどれほどの時を経たことになるのかは記録を纏めればちゃんと分かるんだが、何十何年だったかな。海や山に居る間はほとんど老けないんだから、そういう面じゃ一日だろうが千年だろうが同じことだ」
一息に言って紫の双眸で反応を窺い、ぽかんとして自分を見る男に満足して、再び口を開く。パチンと合図のように火が爆ぜた。
「でもそんなに長くは居ないから、気持ちとしては精々四十前だ。お前より上だな?」
「嘘じゃない、な。お前たち、あれか、東西の渡りというやつか。……そりゃ妖精とも縁があるわな」
「御名答。山賊じゃない、渡りの隠れ里だ。ようこそ」
言いきってスープを口に運ぶ姿に、シンはむしろ今までのあれこれに納得がいった。妖精か鬼かと思っていたが、当たらずとも遠からず。こんな山奥に隠れ住んでいるのも、その住処が魔法で隠されていたようだったのも、納得だ。
「……長の、あの男は私よりも三年早く生まれただけだ。十ばかりも違って見えるのは、生まれた娘の為にこっちに居続けている時間が私より長いからだ。私たちは人間だから、この世界にいれば普通に老いる。魔法の加護なんてない」
「向こうに居れば不死ということか?」
「向こうでも死者は出る。この前も山の王の大蛇が死んだ。流れが違うだけだ」
「その大蛇ってのは、人よりでかいのか」
「この小屋よりずっと大きい。綺麗な白い、優しい方だった」
「……親しかった?」
「ああ、よくして頂いた。本当の子供の頃から」
いつになく饒舌なヒタキに、シンはパンがふやけて溶けるのもスープが冷めるのも構わず言葉を重ねた。
その夜、ヒタキはいつもより長く小屋に居た。空になった鍋を横に置いて暫くシンと語らった。そして母屋へと戻るべく扉に手をかけたところで言った。
「シン。……出ていくのは勝手だが、もう追い出しも閉じ込めもしない。一番大きい建物には入らないでくれ。女も住んでいるからな」
言葉を裏付けるように、その日から扉に外からの閂はかからなくなった。出て行こうと思えばいつでも行けるその出口。しかし彼はそこから出たとして、自分が見つかった木立の外へと抜け出しはしなかった。ハジカミに会いに行き、ヒタキの他にマトリやシトトと話し、その仕事を手伝った。
剣と弓矢も持ち主の手へと返された。至極嬉しそうにして、彼は既に親しんでいたシトトに狩り場の案内を頼んだ。ユカリ一族にとっては狩りと言えば罠か投げ縄が主だったが、シンにとっては違った。
シンは狩りにおいて名手だった。弓矢を巧みに操り、積雪に紛れる野兎や鳥、稀には冬駒を見つけて仕留める。麦や蕎麦に芋は勿論、干し肉や燻製肉も十分な蓄えがあったが急に一人、大の男が増えている。食わせないことも勿論可能だったが、客として受け入れた以上はとむしろ優先的に色々な物が振る舞われていた。シンはその分以上に獲ってきた。
年越し、年明けの食事を豪華にするだけの肉を得た。毛皮は好きにすればいいと渡されまたヒタキの貯えが増えた。
その頃には老いた長から末のニオまで、皆がシンに名乗り、それぞれに交流をしていた。若い娘であるアイサばかりは親に言われて距離を置いていたが、シンは気に入られていた。それがヒタキにも分かった。決定権が委ねられているのも感じていた。何せシンは、ヒタキの拾い物なのだ。
叔父叔母や従兄の意図は十分に察せられた。決めかねたままに時が過ぎ日が過ぎ皆に平等に暦は淡々と進んで、やがて最も夜の長い、年変わりの日となった。