六の一 冬籠りの頃ⅰ
東西に渡らずにいる間、皆に平等に暦は淡々と進んでいく。
マトリはあの竜商いの帰り、子供を一人拾った。川辺に置き去りにされた三歳ほどの男児。ニオと名を改めて自分たちの子にした。
ユカリの者たちにとってはよくあることだった。東西に渡る限り老いは遠いが、一族の内だけで結婚し血を繋ぐには限界がある。何処かの町で出会い恋に落ちたり見合いをしたり、契りを交わして兄弟になったり、相応のやりとりを経て誰かを貰ってくることもあればこのように拾い上げてくることも、系譜を紐解けば多々見えた。
そのかわり、西に渡ったシナヒはまだ帰ってこない。便りも何もなく、予定より半年以上も遅い。父母も誰も不安を口にしないようにしているが、弟シトトは怪我が治って以前よりよく働くようになった。
隠れ里から北西遠くに見える星突き山が雪を被る頃、ユカリたちは本格的な冬支度を始める。いつ原に霜が降りて雪が舞ってもよいように、家々の綻びを直し畑に覆いをかけ、守りを固めて燃料や食料を貯めこむのだ。この地の冬は雪こそ然程多くないが冷え込みがきつく、風の荒れる日が多くなるために外に出ることは控えられる。
いっそ、冬の間皆で東西に渡ればよいのに。――とケリが冗談を言う。けれどその為の旅支度とて、冬籠りと何ら変わりはない。不自由でも安心して居られる家に居るほうがいくらもよいのは明白だった。毎年毎年渡って、戻ってきたところで冬に当たらぬ保証もない。
ヒタキは冬支度の手始めにいくつかの品――以前に物語りをしたフーデンシの姫の櫛のように花や虫を封じ込めた琥珀を細工したボタンやブローチを金に変え、油や麦や蕎麦の実に変えた。そうして近場の国々から帰ってきても、やることはまだ沢山あった。
女が野菜や果物を乾したり塩漬け蜜漬けにする間、子供は木の実を拾いついでに仕掛けた罠を確かめに行く。爺婆は子供たちが持ち帰った肉と魚を捌いて燻製を作り、毛皮を鞣し羽を毟って襟巻や靴、布団にする。男は薪をたっぷりと用意し、作物の残る畑に蔽いをかけ、数ある家や蔵や厩の屋根に上がり雨漏りを直し壁を張る。東西の渡りなどでなくとも大差ない、山里の冬支度。
他にもいくらもやることはあった。ただ寒く雪の降る時期というだけではなく年の節目だというのが、人の仕事を増やすのだ。
外からの来訪者を告げる呼び鈴にヒタキが顔を上げたのは、従姪従甥に当たる子供たちと共に白い粘土を焼いて作った鈴を検分していた時のことだった。
東と西では人里と時の流れが違うが、東西からの客人はこうした節目に近い時期に多い。風向きや占いの良し悪し、魔法の具合。そうした点で、向こうの渡りにとっては季節の節目節目、特に年変わりの時期が人の国に渡りやすいという。だからまた、その応対などやることが増える。
「あの時は大変助かりましたのに礼も半端になってしまったと皆で話しまして、良い酒を選りすぐってお持ちしましたの。お気に召したと仰っていた夜色の物はたんまり。駒鳥の喉色の物はとてもよく出来た逸品ですのよ。魔法をかけておきましたから野晒しにしても傷んだりは致しません、百年先でも楽しめますわ……」
アムデンからの使者――虹色のケープを纏い擦れた女の声で話す鴉の魔法使いはそう言って、沢山の酒を置いていった。あの後、アムデンの戦士たちは無事に妖精を退治したらしい。
丸太をくりぬいた樽に仕込まれた例の酒はヒタキが宴の時に飲んだ物よりも深く、しっとりとなめらかになっているようだった。他にも赤い色の物や白く泡の弾ける物もあり、蔵を一つ埋めるほど、一冬籠っても飲み干せぬほどの量があった。
――そんな酒を、保管に移した蔵の隅でちびちびと飲むのがヒタキのこの頃の楽しみだった。
ほうと溜めて吐いた息は淡く濁る。長居する場所ではない屋内は物が並んで狭く、風が凌げるだけで寒いのだ。が、少しの時間ならばその空気がまた心地良かった。偶に誰かが通りがかったりヒタキを探しにきたりはするが、それまでは静かで、目につかない。
やるべきことは多く、それを疎かにしたいわけでもないが。年の瀬はどうにも憂鬱で億劫になってしまうのが、ヒタキの性分だったのだ。
「ヒタキ、そんなに飲んでちゃ売る分がなくなる」
雪が疎らに降るその日、隠れて酒を飲むヒタキを探しに来たのは珍しく、言いつけられた子供の誰かではなくマトリだった。
入口に立って中を覗く彼を座った樽の上から見上げ、緩慢な瞬きを繰り返したヒタキは億劫そうに口を開いた。
「……凍っていないか心配で」
好みの美味い酒は飲むほど減るほどに売る気が失せてくるのだが、それは言わなかった。言うよりも早くマトリが呆れた調子で頭を掻く。
「酒は凍らん。それにあの目元の涼やかな鴉が魔法をかけたって言ってただろう、傷みもしない」
「ああいう女が好みか?」
「鴉だぞ? お前さては酔ってるな」
小言に口の端を上げ、ヒタキは揶揄して視線を手元へと落とす。しっかりと深まった夜色の酒が白っぽい陶杯を薄く染めていた。言い返す声を聞きながら一息に残りを呷る。
「冗談だ。指は十本、私はヒタキお前はマトリ。……本当に好みならケリやアイサにも教えてやるところだが」
「止せよぞっとしない」
酔っていないと証明するように目の前に出した指を数え、人差し指を互いの間で振り。
冗談、酔っているとしか思えない戯言でも夫婦の諍いの種になるのかと笑いながら、ヒタキは杯を横に置き、酒の栓を確かめてから転がしていた襟巻などを引っ掴んで外に向かった。マトリが自分を探しに来たわけ――昼の予定、外に出て結界を張る仕事があることを、ヒタキはちゃんと覚えていた。酒だって味を見て体を温めておく程度のつもりで足取りは確かだ。
「飲んでいて分かったことがあるぞ。美味くて悪酔いしないのはずっと言っているが、これの澱は金色をしている。勿論澱だから美味くはないみたいだがな。星のようだろう。見ればきっと、欲しがる奴が増える」
マトリの小言を、何か話題を出されるのを遮るように、ヒタキは話し続けた。
表向きは実に軽いその声がちゃんと竜の寝床へと遠ざかっていくのを聞きながら、マトリは溜息を吐く。
「独り身の奴の好みのほうが知りたいもんだがな」
小さくぼやいた声は白い息になっただけで、ヒタキの耳には入らなかった。
冬は迫り、山間は例年より早く雪が降って積もりつつあった。元より季節の変わり目は不安定な地で、食料の貯えや毛布などは十分なものになっていたので何も慌てることはなかったが、仕上げというべき仕事は残っていた。
生活する為の支度ではなく、儀式的な意味合いを持つあれこれ。身を護る為の呪術、年を越すための祭事の類。
「ん? 違うな、違うこれじゃない、こっちか」
「おいちゃんとしろよ。明日は町に行きたいんだろう。一人で張り直しなんてやらないぞ」
「ああ、籠もる前に何か暇潰しになるようなもんを買ってやる約束をした……大丈夫だ、これであってる、な?」
里を隠す木立の中。古い革の巻物を手繰りながらうろうろと行ったり来たりするマトリにヒタキが溜息を吐く。マトリは木杭、ヒタキは土鈴をいくつも括った麻縄を抱えていた。杭を打っては縄を括りつけて張り巡らせてゆく、里をぐるりと囲う結界づくりの大仕事だ。
単純に縄で一周するだけでも大変でかなりの長さとなるが、祖のクグイが決めた囲い方は更に工程が多い。ところどころ色や彫り物の違う杭を余分に打ち、時に縄を交差させ呪術的な図形を編む。巻き物はその指示書だった。
アムデンの鴉が訪問の時期として選んだように。人々の年越しの頃は東西の国々からの――妖精や異形たちの渡りのしやすい時期だ。元よりそれらに親しいユカリたちはただの訪問なら慣れたものだが、行き交う数が増えれば人に悪さをするものも増える。そうしたものの被害を防ぐ為、年に一度、年が変わる節目の前に里を囲う結界を張りなおすのが彼らの習わしだった。毎年やっているもので数年東西に渡る時間が減っていたマトリなど特に慣れているはずだが、どうも要領が悪い。午前に始め、途中で食事など休憩も挟み役割を交代しながらやって、薄暗くなってきてようやく終わりかと言うところだ。
カロ、カロロ……と鈴が鈍く音を立てる重い縄の残りを抱えて初めの杭に結んで終える縄の端を持て余し、山の峰から細く光を零す太陽の位置を確かめたヒタキはふうっと白い息を吐いた。縄を持ちかえ、手袋に包まれた手を開閉する。動いていただけよいが、一日中外にいたのだから身は芯まで冷え切っている。酒を持ちだせばよかった、などとマトリたちに叱られかねない思いが過ぎるのも仕方がない。酒か、茶か、なんでもいいから温かい物が欲しかった。腹も減っていた。
強い風が声を上げて吹き抜けていく。結わえた髪が揺れ頬が痛む。家がぽつぽつと並ぶ里のほうには誰の姿も見えなかったので、逆側の木々の中に何気なく視線を滑らせ――雪を乗せて白くなった草葉の陰に何か見慣れぬものがあるのを、ヒタキは見つけた。土か草木の色をしていたなら見逃したかも知れないが、それはどうも、深い青色をしているのだ。そしてその近くで、何か別のものも動いている。
大きく――そちらは枯草にも近い、淡い茶色で、翼がある。竜だ。
「おいマトリ、」
自分たちの竜の灰色とは違う体色に、ヒタキが呼びかける。マトリがそれに応じるよりも先に、カカカカカと舌骨を打つ警戒音が響いた。碧い目でヒタキのほうを見た竜が首を擡げ、翼を広げて威嚇の姿勢を見せている。
すぐには飛びかかることのできない距離だ。ヒカタなどより脚は強そうだが、数歩も詰めることはない。何かを守っている動きだった。
竜の近くにある青色は布、着衣で、つまり倒れた人の体ではないか。ヒタキの予感は、竜に載せられた鞍が肯定していた。竜は主人――倒れている男を守っているのだ。
「やり始めたときはいなかったよな?」
杭を置き寄ってきたマトリの小声に頷いて、ヒタキも極力静かに縄を置いた。そのまま屈んだ姿勢で、くく、るるる、と喉を鳴らす竜の鳴き真似をする。視線は外さないが、瞬きは努めてゆっくりと。マトリも同じく屈みこみ敵意がないことを表し、暫し待った。
向こうの竜の警戒がやや緩み、翼と首が下がる。うろと落ち着かず足踏みしはじめたのを見て、先に動いたのはヒタキだった。
「よぅし、賢い。そのままいろよ」
竜を刺激しないように間延びした声で呼びかけを続け、まず竜に寄る。匂いを嗅ぐ仕草に任せ好きにさせる。ちらと横目に確かめた伏した青色は身じろぎもしない。意識がないようだった。
「もういいか? よしよし、こっちも見せてくれな」
竜がようやく見知らぬ人間の確認を終えた鼻先を主人へと向けたのを確かめ、ヒタキは再び静かに屈みこんだ。
雪に項垂れる枯草の中、俯せに倒れていた男は金の髪。見る限りは異形などではなく人間で、体格は悪くなく背はヒタキやマトリより高い。襤褸に近く擦り切れそうな青い布の上着の内に鹿の毛皮を縫い付け着込んでいる。腰には矢筒と、剣が一佩き。近くに転がっている帽子は兎の毛皮。弓も折れずに落ちていた。
ヒタキの第一印象としては、狩人だった。括られた荷を開けてみないことには確かなことは知れないが、何処かの使いで飛んでいたというよりはただの旅人――貧乏人の装いだ。ただし竜の装備には金をかけているようで、滑らかでしっかりとした作りの鞍は長時間の飛行でも竜の体を痛めないように気を配った上物だった。
長旅をする渡りと見受けられるが――こんな所を通るなど、そんなにある話ではない。何せユカリの里を考慮しなければ、連なる山々を越えて丸一日以上休まず飛び続け、上手くいけばどうにか町に降りられる、かも知れない、という土地だ。強風と寒さで厳しさがぐんと上がるこの時期は誰しもが遠回りをする。
例外があるならユカリの客くらいのものだ。それも東西であれ南北であれ、交流のあるどこかの国からの使いであれば来客用の門たる方位くらいは知っていて交渉の仕方を心得てくるものだし、ヒタキはこのような見目の人種の国の使者には心当たりがなかったが。
「おい」
呼びかけ揺すりながら手袋を抜いた手を口元に添えると呼気が感じられたが、揺すり続けると痛みを堪える呻き声が上がる。血の色や目立つ傷がないことをざっと確かめたヒタキが肩から順番に撫でていくと、右膝のあたりで体が強張り呻く声が上がった。飛んでいて落ちたのか、彷徨い行き倒れたか。どちらにせよヒタキとマトリが杭を打っている間にこの木立に転がったには違いなかった。
「痛めつけたんじゃないよ、確かめただけだ。……お前が何もしなければこっちも何もしないさ。私たちは喧嘩が苦手でな、事勿れなんだ」
主人の悲鳴に気遣わしげな竜に言い訳をして、ヒタキは男をもう一度眺めた。怪我のみならず、体を冷やしきっていて眉の寄る顔の色はかなり悪い。意識はほぼないようで、足を怪我していては歩くどころか、己で竜に乗って移動するのも難しい。つまり、このまま放っておけば抗えもせず死ぬことになる。
何もしない、と告げた己の言葉を反芻しつつ、ヒタキは手を引っ込めた。
「おい、息はあるのか」
黙ったままのヒタキにマトリが問う。彼もまた、竜に匂いを嗅がせて許可を得てから渡りのほうへと屈みこんだ。
「ああ。どうやら足を痛めてるし、起きないが。落ちたのかな」
「そりゃ悪いな。このままじゃ死ぬ。よしんば体が大丈夫だって、この辺りに冬を越せるものなんてないのになあ。あの中に天幕が入ってたって、今時期何日もは厳しすぎる」
マトリは竜の鞍の後ろに括られた旅嚢を指差して言った。飽きれた風だ。
ヒタキもまったくの同意見だったし、気にもなっていた。この渡りがただの馬鹿か――余程急いでいたか、何か別に理由があるのか。
「立派な竜だな」
マトリの視線は枯草色の竜へと動いた。竜具もそうだが、体もしっかりとして若く、このような状況で主人を守ろうとする意識と状況を理解し大人しくする頭もある、よい竜だった。
「立派だが、弱ってきてる。こいつを置いていけば生き延びるかも知れんが、見たところよく懐いてる。放っといたら一緒に死んじまうかもな」
続く声は眉根を寄せたヒタキの意識をなぞるようだった。
ヒタキは竜が好きだ。自分が世話している竜たちは勿論、子供の頃は竜商いに付いていって竜を売るのを渋って父を困らせた挙句、宿でも拗ねていたほどだ。普段は大層聞き分けのよい子供だった為に一族ではよく取り上げられる話で、マトリなどは現地で見ていたものだから尚のことよく知っていた。
野生の竜ならばともかく人に伴い――主の為に自らも危機にある。そんな竜を前に、以前西で見失ったイナサのことも過ぎっていた。
素性の知れぬ者を助けるのは悩みどころだ。ヒタキ個人としては気が進まない。だが、ならば竜だけ助けよう、などと言えるほど冷徹でもない。
暫し沈黙が降り、先に口を開いたのは、難しい顔をしたヒタキの結論を待っている風だったマトリだ。
「小屋が一つ空いてる。こないだ直したしすぐ使えるだろ」
ヒタキはぱっと顔を上げた。
「里に入れるのか?」
「見つけちまったんだし、死体を置いて冬を越すのは御免だろうよ。俺が許す。悪い奴だったら放りだせばいい」
他所の村や町に運び込むには遠すぎる。渡りと竜を助けるにはそれしかなかった。逆にいい奴であったなら、とマトリが匂わせる先にも気づいて、ヒタキは唇を結んでまた黙り込む。
それでも。先に動いたのはマトリではなくヒタキのほうだった。ふーっと長い息を吐いて立ち上がる体はさらに冷えていたが、手早く上着を脱いで伏した男の上に放る。
「世話は私が見る。お前は私を許しただけ」
言いきって他の者に知らせる為にと、家のほうへと駆けだす。結局最後まで囲いきれぬまま後に残された杭と縄を見て、マトリもまた盛大に白い息を吐いた。
二人が台車を用意し怪我人を乗せて家のほうへと戻る頃には、物置代わりになっていた小屋には灯りが点され、中はいくらか温められていた。戸を開けてタヅが迎え入れる。
「ああ、それがそう。ちゃんと生きてるわね、早く寝かせておやり、まず温めることよ」
「はい」
知らせを受けて支度していた老婆は早口で述べて、台車の上から男を下ろすのを手伝う。老いて衰えてはいても彼女も元は渡りで、荷運びの手には危うげがない。湯を沸かす炉の傍ら、板張りの床の上、敷物と毛皮を重ねた簡易な寝床に、ヒタキとタヅは二人がかりで男を寝かせた。
痛がる足を気遣って畳んだ毛布を挟みつつ、手際よく着衣を寛げ体の横に湯たんぽを置いてやる。乾いて埃っぽかった室内は換気がされ、既に煎じ薬の匂いが漂っていた。
「うん、痛めているが血は出ちゃいないし、まあ。熱が出るから苦しむかも知れないけど」
旅行く渡りたちの中でも特に医者を頼りにできないユカリたちは、皆それなりの怪我や病気ならば療法の心得がある。渡りの現役を退いて家に居着くようになった者たちならば一層勉強して、身に着いているものも多い。冷えた体を温めながら体のあちこちを見て触れて確かめるのタヅの見立ては早かった。
「死なない?」
「ええ、きっと。元々は丈夫そうだし」
確かめるヒタキに頷き返して、タヅは言葉を重ねた。
痛めた足は、生きていれば治るもの。あとは、このまま死なないかどうかにかかっている。ヒタキはふと息を抜いた。横たわる男の顔を覗きこむ。
汚れて髭の絡む、蒼褪めた顔が歪むのは寒さの為だろう。凍えた男の血の気は温めてなお悪い。今にも死にそうと見えた。道端に寝転んでいたままなら、そうだっただろう。
青白く翳る肌に眉を寄せた頃、竜から外した旅嚢と手当の為の布を抱えてマトリがやってくる。三人が手分けして薬湯と湿布を仕上げて服を脱がせ、膝や他に見つかった打ち身に薬を貼り、湯を口に含ませた。男の様子はさして変わりがないが、ひとまずできることはその程度だった。
布団をかけて拭った額に濡れ布を老いた頃、杖を突いて長老シギがやってきた。男の顔を見て、マトリたちを促し、行き倒れの渡りの荷を解く。
「金の髪なら北側の、海寄りの住民だろうが」
「商人にしては荷が少ないな……でも手紙なんかもない、かな」
「口伝えかも知れんが。伝令にしちゃ貧相だな」
「仕事で飛んでたんじゃないかも知れないわ」
「だったら尚更なんでこんなところに」
弓矢。見慣れた物と大差ない幾らかの食料、小さな袋に入った草を丸めた物、罅が入ってしまった酒の瓶、葉巻煙草、天幕、擦りきれた毛布、縄。彫りかけの木彫りの竜らしき物と一緒の袋に、縁が凸凹と波打った――花か星の形を模ったような形で中央に穴の空いた木の板の、丸い物と四角い物の二枚。革の鞘に収まったナイフ、鮮やかな色とりどりの糸束は金糸や銀糸、僅かながら黒蜂の繭からとれる虹の光沢を持つ糸もある。だが、それを売って暮らしているにしては心許ない量と見えた。
路銀は僅か。何と言う記録の類も無く、何処から来たと分かる物は無い。目立つ弓矢からして狩人かも知れぬが、それにしては山奥に入りすぎている。どうしてこんな辺鄙な山を飛んだのか、と住人のユカリたちは繰り返して、物言わぬ怪我人を眺めた。
「起きるまでは分からんか。待つしかないな」
「見張りは私がやります」
やはり目覚めを待つしかないと結論付ける長老シギの言葉にヒタキはもう一枚毛布を足してやった男を一瞥し、自分が面倒を見ると繰り返す。黙って頷くシギの横で、マトリは笑って肩を竦めた。
「たまには代わってやるよ。あと、暇潰しを持ってきてやる。何がいい?」
「とりあえず酒だな」
「あなた近頃飲みすぎよ」
軽いやりとりにタヅが注意をしながら立ち上がる。マトリもシギに手を貸しながらそれに続いた。
「戸締りはするが娘たちは近づけるなよ。今はこんなだが、起きたらどうだか」
「ヒタキ、あなたこそ気をつけなさいね。後でシトトあたりを寄越すから」
三人が扉へと向かうのを立ち上がって見送り、分かりきったことだろうと思いながらも間を繋ぐようにヒタキがマトリに呼びかけると、老いた叔母は先程より真面目な調子で溜息混じりに窘めた。ヒタキは腹に手を当てて見せた。硬い感触が確かにあった。
「危なさでは渡りと同じくらいでしょう」
服の内には、日々の仕事道具でもあり護身用でもある短剣が隠されている。旅に出て東西に渡るときと同じように、そこには警戒心が備わっていた。弱った者相手ならこれを使うまでもないだろうが。
マトリだけが笑って、まだ物言いたげなタヅも引っ張って外へと出た。ギイイと軋む扉を閉め、隙間風を防ぐ為にカーテンを下ろす。これで多少温かさが違う。
そのうち、シトトがヒタキの為の布団や食事を運んできた。シトトも珍しい拾い物を見物するつもりで、マトリに言われて隠し持ってきた酒には杯が二つ、つまみの干し肉までついてきた。
検分しての男の素性についての推論は、シトトも他と大差なく。小さな酒瓶を空にしても男はちっとも目を覚ます様子が無いので、二人も付くことはないだろうとヒタキはシトトを追い返した。
何度目か、病人の額から持ち上げた布は熱を移して、薄ら寒い部屋で過ごすヒタキの指先には熱いほどだった。桶に汲んだ井戸水に放り込み、冷やしてまた額へと戻してやる。
含ませた僅かな薬の効果が切れてきたのか、男の寝息が幾分荒れてきた。夢見も悪いのか、時折呻く声が混じる。
薬の残りに湯を足し、枕を高くした男の口を湿らせるだけ含ませる。
十分に暖めた部屋、熱い体、しかし凍えたように震える。
ヒタキには覚えのある感覚だった。その時は自分から買って出たのではなく、任されたのだったが。
ヒタキにはかつて妹がいた。七つ離れた、ヒタキと同じ髪と目をしたよく似た娘だった。ただし似ていたのは一時の見目だけで、大病なく健康そのものだったヒタキと対照的に彼女は病弱で――今熱に魘される男のように、一生の大半を臥せって過ごしていた。当たり前に肉付きも骨も細く、時を重ねるごとにやつれてヒタキとはかけ離れた見目になった。
名をサザキと言う。かつてヒタキは何度も呼んだ。
ヒタキに看病を任せるとき、大したことはないと母は言ったが――実際子供に任せるだけ余裕のある時なのは違いなかったが――ヒタキは、妹が今にも息を止めてしまうのではないかと案じていた。
ヒタキより年をとった見目になったサザキが死んだのは、丁度今頃、年の瀬に近づいた忙しい雪の頃だった。だからヒタキは、冬籠りの時期が嫌いだ。
しかし今眠っているのは、ヒタキより大きく、頑丈そうな男だ。妹とは似ても似つかない。
この男なら怖くない。死んでしまったとして、たまたま拾っただけの男だ。
「ヒタキ」
そう思った矢先に呼ばれた気がして、ヒタキの心臓が跳ねた。慌てて見遣った男の口は苦しげに息を繰り返すだけだ。
その、風鳴りを含んだような病人の息遣いは妹にも似ていた。
思わぬ拾い物もしながら結界はどうにか張り終えたが、年越しの為の支度はまだまだ終わらない。食料と燃料を増やして、変えて、至らぬところが無いかをくまなく点検する。その合間合間に、ヒタキは男の看病をしていた。一日と、半日ほど過ぎた。
引き金となったのは薬を持ってきたシトトが、置かれていたすり鉢を蹴飛ばして騒々しい音を立てたことだった。お前はいつになってもそそっかしい、などと詰るヒタキに、鉢を拾い上げたシトトは目を丸くして顎をしゃくった。ヒタキが振り返ると、金の目とかち合う。
男の目が開いていた。
「お目覚めか」
確かに開いた双眸は緩く瞬き、部屋を見渡して二人を捉えた。夕方の薄闇の中、もう一度、己の身を覆う布団や温かく火を焚いた炉を確かめて、視線を戻す。
「あんたら、精霊か? ……それとも鬼か」
「残念ながらただの人だ。貴方はどこの誰だ?」
掠れた声が言うのに、ヒタキは傍へと座り込みながら応じた。シトトが飲み水を用意した水筒を投げて寄越すのを片手間に受け、呻いた彼を制して枕を高くし差し出す。ちゃんと動く手が伸びて水を受け取った。
男はごくごくと喉を鳴らし、勢いよく咳き込んで、それでもまだ水を飲んだ。息を整えて口元を拭うのを、ヒタキもシトトも黙って待った。
「まあ死の国では、なさそうだ……暗く惨くもないし、……あたたかくて、よっぽど助かる……ああ、俺の竜は無事か?」
そうして、少し潤った喉でまだ半分夢の中に居るように呟いた後、すぐに竜のことを訊いたのがヒタキの心証をよくした。
「無事だ。世話してる」
短く答えると男は笑った。
「ありがとよ。――俺はシン。どこの、ってことはねえ。渡りだ。……北から、南へ向かってる。狩りなんかしながらな」
皺ができて老けて見えるが、歳は精々四十前、言葉には若干北側の訛り。熱は下がりきっておらずぼんやりした間はあるが、十分に会話ができる。答えは大体、ヒタキたちの見立てのとおりだった。
南北の渡り。とわざわざ言うのはヒタキたちユカリ一族くらいのものだ。要は普通の渡り、人の国々を往く旅人だ。
ヒタキはちらと横目に、擂り鉢を抱えて立ったままのシトトと目を合わせた。シトトが自分に任せるつもりで黙って見ているのを確かめて、再び口を開く。
「何故山に居た? 何処かに急いでいたのか」
「美しい鳥を見て、追いかけてきた」
「魅入られた?」
「呼ばれた」
魔法を使って訪れるアムデンの使いではあるまい。また別の妖精か何かの類かと呟いたのはシトトで、小さな独り言だったが――シンはすぐに返した。
魅入られ呼ばれた、肯定の意ともとれたが、響きはどうも否定のようだった。
「……鳥に?」
訝しげに呟いてヒタキが聞き返すのに、シンは頷いた。
「あの鳥か、鳥を寄越した誰かに、かな。お前たちにもそういうことはないのか? 場所とか、因果とか、そういうもんだよ。俺を必要と……っていうのは大袈裟だな。そのとき俺が居られる場所ってのがあるんだろう。窪んだとこに水が流れるみたいな話さ。浮浪と言ってくれて構わんが」
話し始めるとシンの口は案外に滑らかに動いた。こうした経緯を説明し慣れているのだろうとも思えた。
べたつく髪を掻き上げ、もう一度水を口に含む。今度は咳き込まずに喉が動いた。ふーっと長く息を吐いて、続きがある。
「俺は何かしようと思って来てるんじゃない。でも何か、誰もにすることはある。そうだな、俺としては、今はそれがお前を娶ることならいいと思ってる」
一間置いて、シンはまたにっと笑った。
ヒタキを見つめて言いきり、その後ははっはっはっはと声にして笑う。段々と元気になってきて、起き抜けの病人にしては快濶に笑うのに、ヒタキとシトトは二人でぽかんとした。
「あの美しい鳥はお前だったのではないかと思ってな」
ヒタキは眉を寄せ、心底呆れた顔をして、大きく溜息を吐きながら立ち上がった。裾を払ってさっさと、戸に向かって歩き出す。
「つまりは妖精に化かされた浮浪者ってことか。元気そうでなにより。足を痛めてるから無理に動くな、外には出るな。便所はそっちだ」
「化かされたとは思ってないが……ああヒタキ、朝には来るか?」
断じて短く告げシトトも指先で招いて外に出ようとしたが、名乗った覚えのない名を呼ばれたのにぎょっとした。名乗った覚えはない。あるとすれば――
「お前、起きてたのか」
気絶してついさっきまで眠っていたと思っていた男が、どこかで起きていたのだ。そしてヒタキと、シトトかマトリ、タヅやシギとが話すのを聞いていた。
非難めいた声にも怯まず、シンはまた笑った。先程よりも少し悪い笑みだった。
「朦朧としてたところに聞こえて覚えてたのさ。やっぱりお前がヒタキか。そっちのあんたは?」
確認されたところでヒタキはまた、しまったと眉を寄せた。しらばっくれれば自分がそうだと名と結びつけられることはなかったのだ。だが、もう遅い。
「まだ名乗るべきときじゃない」
呼ばれなかったシトトが、本当ならばヒタキも言っただろう返答をして肩を竦めた。シンは然程気にした様子もなく頷く。
「そうか。で、また来るのか?」
「あとで飯を持ってきてやる。拾ったのは私だからな」
「じゃあ湯と布も欲しいな。体を拭きたい」
拾った鳥の世話でもするように言われて愉快そうにして、臆せず注文がある。呆れ返ったヒタキは答えず外に踏み出したが、戸を閉める前に振り返る。
「私の名前の代わりに教えろ。あの竜の名はなんと?」
主人とは違い、他の竜と同じところで寝ている金の竜。姿の見えぬ主人を思ってか元気がないのを、ヒタキは気にしていた。名前を呼んでやれれば少しは調子がよくなるかもしれない。
「ハジカミだ。ハ、ジ、カ、ミ」
「ハジカミ。ふん、悪くないな。呼んでやろう」
寝床から見上げゆっくりと声にして教えるとヒタキの口元が少し機嫌良さそうに上がったのを、シンは見逃さなかった。その後すぐに踵を返してシトトと出て行った外で閂をかける音がしたのも、勿論聞こえてはいたが。
金の瞳は戸の向こうに見えた僅かな風景もちゃんと窺っていて、二人がいなくなった後しばらく経ってから、彼は痛む足を引きずりながら板戸の下りた窓へと近づいた。
「ってて、……へえ」
足が痛み踏ん張りが聞かない中、力の落ちている腕で固い戸をどうにか開けて。シンは予想していた山の木立とは違う、暗がりに広がるなだらかな地面と遠くに見える灯りに暫し、見入った。
シンが言った冗談――とヒタキは思っている――は、その日の内に皆に知れてしまった。シトトが言って回ったのだ。
ヒタキは子供の頃からよく知る従兄の背を引っ叩いて説教してやったが、当人はどこ吹く風だ。
「何も結婚するって言ってるわけじゃねえ。お前を狙ってるなら皆に伝えておかないと、何かされてからじゃ遅いだろうが」
「ご心配どうも! 自分の身は自分で守る。大体冗談だろう、あれは。ああいう性分の男ってのはいる」
「本気だったら? 本気になったら。まあ、用心だろ。……ま、別に悪いことじゃないけどな。祝言、祝い事だ。ちゃんとやるなら」
思いがけず真面目な返答に押し黙ったヒタキに、彼は大部屋の隅でひとり遊びしていたニオを顎で示した。
「夫婦じゃなくたっていい。流れ者なら丁度いい。爺婆やマトリの小言も減るぜ」
それこそ相手が老いた者たちやマトリやケリだったなら、反論しただろうが。似た立場のシトトだからこそヒタキは何も言えなかった。
そろそろ誰かと、そろそろ子供を。
どこの人里でも、恐らくは山や海でもあるのだろう、大人に成ったならという声。
ずっと独り身のままでいるつもりではなかろうと事あるごとに皆が言う。一人――シナヒが帰らない今、それを意識すまいと特に弟シトトへの声は減っているが。一族の存続の為にも欠かせないことには違いなかった。
当人たちも考えてはいる。勿論ヒタキも考えなしに皆の言葉を跳ね除けているわけではない。それをシトトも知っていた。
「そのうちどうにかはしなきゃならん。俺はそろそろ、腹を決めるつもりだよ」
他には誰も聞いていない場で告げられる言葉にヒタキは目を丸くしたが、話は続かず、シトトは夕食の手伝いにと行ってしまった。取り残されたヒタキを、一人に飽きたニオが呼ぶ。ヒタキは少ししてから仕方なく、相手をしてやることにした。
シンのところへと食事を持って行く際にはマトリがついてきた。用心、だろう。
武器以外の荷物を返してやった男は粥を啜りながら、マトリにも先程と同じように日暮らしの渡りだと自己紹介をして、不思議で美しい鳥に導かれてきたのだと語った。
齟齬もなく、結局そういう者のほうが筋が通ると、マトリはあっさり納得した。とりあえずは体が治るまで滞在を許すと長シギの代理の言葉で語る彼に、シンは感謝して深々頭を下げて見せた。