五 灰髪姫
薄く朝霧が立ち込めて、白い城の輪郭をぼやけさせている。優れた者の手による彫刻もこうなっては曖昧で、見遣った先で梢に連なる赤い実ばかりが存在を主張していた。物語に出てきた姫の櫛の銀細工と同じサンザシの樹だ。実に妖精などが好みそうな景色だと思いながら、ヒタキは灰のローブを揺らして庭を歩いた。
物語りから一夜明け、上等のベッドでぐっすり眠って疲れをとったヒタキに残っている仕事は王とその取り巻きに東西の一品を売る簡単な商いだけだ。宴に疲れた王に会うのは日が高くなってからになるので、今はそれまでの時間潰し。当てのないただの散歩だった。物語りが概ね好評だっただけに部屋で大人しくしていろとは言われず、ある程度好きに出歩いてよいと許可は下りているが、そうは言われても通路をうろついているのは不審だし人目も気になる。結局、肌寒くも澄んだ空気の外へと出てくることになった。
のんびり歩んで気がつけば庭を囲う外壁に近づいており、空いた菱形の飾り窓から外が見えた。近づき覗きこむと、来る折にはもっと高い位置から見下ろしたなだらかに隆起する大地が見える。東から昇る太陽が霧を照らして、丘は光の波に沈んだようだ。
その先にあるはずの町の影は隠れて見えず。城は俗世から取り残されていた。
かさりと音がして、ヒタキは振り返る。薄白く濁った庭は通って来たときと同じく誰の影も無い。暫くしんとして、鳥か獣だったと片付けたヒタキは堀に背を向け、また歩き出そうとした。
「あっ待って!」
が、踵を返した瞬間に高い声が響いた。慌てて、庭師が整えた茂みの陰から出てくる小さな姿。露に濡れた灰色の髪が躍るのに、ヒタキは目を瞠った。
「あなた、物語りの人。東西の渡り? そうよね」
肩についた露とごみを払いながらヒタキを呼びとめたのは、あの姫だった。
夜会のドレスを脱いで薄物の夜着を身に着け、顔の白粉も拭っていたが――着飾っていたときに遜色などない。改めて見ても、つくづく美しい子供だった。精霊が祝福をしていったかの、魔性とも言うべき美貌。ぼんやりとあたりを霞める霧が、その姿を一層に神秘的に見せていた。
その瞳は実に子供らしく、好奇心に輝いている。改めて対面する東西の渡り、妖しく魅力的な話し手にその目が釘付けだ。
離れたところから駆け寄ってくるのに、ヒタキは固まっていた足を慌てて前に出した。数歩、それきりで間近で向かい合うことになる。背の丈はあまり身長のないヒタキの胸ほど。たっぷりと贅沢に膨らんだ袖や裾の下に華奢な手足が覗いている。
「お初にお目にかかります、姫君。東西の渡り、ユカリで御座います」
慌てて胸に手を当てたヒタキの、型通りの挨拶。聞いた少女の口元で吐息が綻んだ。
「初めてじゃないわ、二回……いいえ、三回目。名前も聞いていたわ。私はアーシュ、ジャルドの第三王女よ」
律儀に数を数えるあたりが子供らしく、ヒタキの緊張を解す。
ジャルドといえば、此処よりも南にある古い国だ。鉱脈に恵まれ、鉄器と宝石の産地として名高い。姫の容姿――灰色の巻き毛はむしろ北側の国に見られる物だったが、ジャルドは一夫多妻で、王は各国の美女を妃にしているとも有名だった。
ヒタキ当人も何度か、別の国に向かう際に宿をとったことがある。会話には困らぬだろうと安堵し、常の落ち着きを取り戻してゆっくりと肯く。
「ああそうでした。先だっては御無礼を。物語りは楽しんで頂けましたか」
「ええ、とっても。とっても、素敵だったわ。今まで聞いた誰の物語より面白かったの」
世辞ではない、熱っぽさの滲む口振りでアーシュは応じた。可憐な笑みにヒタキの頬も緩む。
「それは何よりでございます。……しかし姫様、そのような格好で、お付の方はどちらに?」
肌の色さえ透かす夜着は、夏場ならともかく今の庭には寒そうだ。しかし震えることもなく、アーシュはどこか得意気な顔をして見せた。それがまた精霊か異形のようだった。
「今は一人でお散歩よ。部屋に居るの、飽きてしまったんだもの。そうしたらあなたを見つけたから、とってもうれしい。――どうしても戻らなくては駄目なら部屋まで送って」
付き人の目を盗んで大体ヒタキと同じ理由で庭にやってきたらしい少女は、悪びれなく言って慣れた仕草で手を差し出した。この歳でもう十分に王族の姫だ。
拒否する理由が上手く思いつかず、揃った指先で淡く艶めく爪に引かれ、ヒタキは困惑しながらも恭しくその手を取った。そこまでがごっこ遊びのようで、アーシュがすぐに歩き出してヒタキの腕を引っ張ったのであとはただの子供と大人の格好となる。
少女の小さな白い手は意外なほどに温かかった。
「寒いのって珍しいから、味わってみたかったのよ。こんなに霧が深いのも、溶けてしまいそう」
「……霧の中には精霊が潜みますから、不用意に出て来ては攫われてしまいますよ」
楽しげに言う彼女に少し考えたヒタキは、物語りする渡りとして好まれそうな言葉を選んだ。案の定、脅しじみた中身とは真逆にアーシュは嬉しそうに瞬く。
「あなたこそ精霊なのじゃないの?」
先の尖った華奢な布靴で足元の草の露を払いながら歩いて、振り返りヒタキを見上げる。ヒタキはその言葉を丸ごと彼女に返したかったが、思いとどまった。
「おや、そうお思いでしたら名前を告げてはなりませんよ。精霊は大抵そこをとっかかりにするのですから。……色々と噂は立ちますが、私はただの渡りでございます」
「でも名前が分からないと呼べないでしょう。違うならいいではないの。あなたも精霊には名前を教えないの?」
昨夜は物語りの為に張られた声は、今はただ静かに庭に吸われていく。
大勢相手ではなく一人、自分の為に紡がれる言葉に幼い姫は機嫌よく質問を重ねた。そうそう会えぬ不思議な渡りに訊ねたいことはいくらもあったのだが、いざ渡りを目の前にすると今一つまとまりを欠いて、目先のことばかりが口を突くのだ。
「ええ。ですから皆、私のことを渡りだとか、客人だとか呼ぶのです。誰かが教えてしまわぬように、人にも滅多に教えません」
あんなに多くの人の前で名乗ったのに? と、腑に落ちないような顔をしたアーシュに、ヒタキは微笑む。
「ユカリは一族の名ですので」
「――それは、ずるいわ。私、損をしたみたい」
アーシュは一度目を丸くして、ぱちんと瞬いて言った。その声があまりに不満そうだったのでヒタキは思わず喉を小さく鳴らして笑う。勿論騙したつもりなどはなく、東や西と違って名乗っただけでそこで何かが起きることも、まず無いのだが。
ただ、吹いて世を渡る風や、窓辺に腰掛ける妖精や、暖炉の火に宿る何者かが。その名を聞いて東や西に伝えないとは限らない。ごくまれに、そういうことがあるのだ。だからヒタキは一人で渡るようになってからはなるべく名乗らないようにしている。名前を呼ぶのは一族の者たち以外には一握りほどしかいない。
勢いのある動きに夜着の裾が丸く翻った。ヒタキの手を握ったまま体の向きを変えた少女は、実に真面目な顔をしていた。際立つ美貌。本当に霧に溶けそうな肌と髪だった。
「あなたは? あなたの名前、教えて。私精霊じゃないもの、いいでしょう。誰かが盗み聞くところなんかで呼んだりしないわ。胸の内に秘めておくから、こっそり、教えて。ねえ」
甘えた、どこか懐かしい響きにヒタキは僅かに戸惑った。しかしその時にはもう、早くも根負けした調子で、口を突いていた。
「ヒタキ、と」
己の声で己の名が聞こえ、本当に何処かに妖精が潜んでいて魔法でもかけられたのではないかと、ヒタキはどきりとしたほどだった。それほど無意識に口が動いていた。
密やかに告げられる、耳慣れぬ響きの渡りの名前。アーシュは繰り返しそうになった口を押えて、三度頷いた。声に出さない代わりに口の奥と胸で繰り返す。ヒタキも喋らなかったので、庭は暫くしんとしていた。
「不思議な名前。内緒にするわ。一生の内緒。精霊にも人にも教えないわ」
やがて紡がれた静かな声は徐々に軽く弾んでいった。後ろ向きのまま数歩進んでヒタキを促し、アーシュは笑う。
「ねえ、海の国では――ずっと水の中なの?」
昨夜終わった話の続きを強請るように、彼女は言った。彼女の中で昨夜渦巻いていた疑問たちがようやくまとまって出口を得たのだ。
王の別邸の庭は広く、ゆったりとした歩みでは回廊に戻るまでにも時間がかかる。だんまりではいられぬと、ヒタキは快く応じることにした。己の中で滲む、名乗ってしまったことへの後悔を誤魔化す意味もあった。
「ええそうです。偶に違うところもありますが、本当に偶にです。皆塩水の中で暮らしていますよ」
「その中で息をするのって、どんな感じ」
「そうですね……水を飲んだ後のような感触が喉にしますね。どことなくひんやりと。慣れればなんてことはありません。欠伸やくしゃみだって困りませんよ」
「それで、青色に見えるのね? 全部」
「大体は、青や緑の海の色が映って。けれど他の色も鮮やかに見える場所もあります」
問いと答えが重なった末に、アーシュはほうっと、昨夜と同じ熱を帯びた溜息を吐いた。
「すごい。私もいつか行ってみたいわ……」
後の呟きに、ヒタキはどきりとした。思わず力のこもった指先にアーシュが視線を落として、窺うようにヒタキを見る。
ヒタキは何も無かったように指を緩めて、笑んで見せた。
「……あなたの目、私と同じ色ね。これって結構珍しいのよ。でも髪は普通に黒いのね」
子供の話はころりと変わる。目先の相手、昨夜は異世界の住人のようでもあった旅人と己の共通点と相違点とを見つけ、アーシュは呟いた。
「ただの人ですから。――髪は貴女様のほうが珍しいですね」
ヒタキは笑みを貼りつけたまま応じた。自分たちと違ってそうそう東や西の者と交流を持たぬ少女の言葉が精霊などと比して言ったのではないと気づいて付け足される言葉に、アーシュの唇は複雑そうに歪み、尖った。
「この髪嫌いなの。婆やみたいだわ」
霧にぼやける灰の巻き毛を揺らしてぼやく。ジャルドは黒や茶の濃い色の髪の人が多い国で、その中では灰髪は確かに年寄りの白髪交じりと似て見えるだろう。
実際には雪の色を持って生まれたかの北国の小国の美貌に違いなく、父王とてそれを愛しているに違いないが。少女の反応に下手を打ったと悟ったヒタキは、機嫌取りの言葉を探し慌てて口を開く。
「そうですか、とても素敵な御髪ですし、私にはよく見えますよ。年寄りみたいだって別に悪いことじゃあありません。よい時を重ねた証拠ですから。私はなかなか歳をとれないものですから、髪くらい先取りしてみたいもので……」
「あなたやっぱり精霊かなにか?」
何か更にまずいことを続けた気もして語尾が曖昧に濁るが、訂正を重ねる前にアーシュは笑った声で揶揄をした。先程精霊ではないと答えた渡りの人離れした言葉が面白かったのだ。
「……よく手入れされている、綺麗なヒヨ色ですよ」
その機嫌よさに安堵したヒタキは妙な取り繕いを諦めて、安堵の息交じりにもう一度単純な褒め言葉を添える。少女は不思議そうに瞬きながら回廊へと歩を進めた。
「ヒヨ? 灰色のことをそういうの?」
「ああ、ご存じありませんか。そういう名の鳥がいるのです。貴女の髪はその羽の色をしていらっしゃる」
「山や――海の話?」
尋ねられ、確かにアムデンの者のような言い方だったとヒタキは思う。どの鳥が美しいと、瑠璃と白鳥が喧嘩していたのを思い出す。
「いいえ。ジャルドには居ないやも知れませんが、人の国に住む鳥です」
「あなたは他のことでも物知りなのね」
ユカリの里ではよく見る花喰い鳥は実のところ住む土地の限られた珍しい鳥でもあったので、ジャルドの姫が知らないのも無理はないのだが。アーシュは感心して上機嫌にヒタキを褒めた。
薄い靴で踏みしめるのが露で冷えた芝から絨毯に変わっても、彼女は渡りにあれこれと質問をした。物語りとして呼ばれたヒタキはその期待に応えて、東や西の風景を淡く撫でるように僅かだけ語った。妖精の強大な魔法、化け魚の棲む川の深さ、人魚の鱗が光を透かすこと、などを。
東や西に興味津々の子供を前に会話の種は尽きそうにもなかったが、ヒタキは立ち止まってそっと繋いだ手を引いた。賓客の寝室が連なる回廊の手前。奥から聞こえる慌ただしい足音は、居なくなった姫を探すものに違いない。
「大丈夫よ。私の部屋に来て。もっと話を聞かせて」
ヒタキと同じくそちらを気にして、立場とは逆に年下の者に言うように言って、アーシュはねだった。困った顔をして跪くヒタキの顔を覗きこむ。
「申し訳ありませんが、私もこれからアウースの陛下とのお話がございます。どうかお許しを」
本当はまだ時間があるが、幼かろうと一国の姫だ。彼女の従者はきっと良い顔をしないだろう。そう断じたヒタキは言い訳をした。
「……それなら、仕方ないわね」
自分の父を招いた城の主を思い出して溜息が吐かれる。聞き分けよく、しかし明らかに消沈した様子に、ヒタキは眉を下げて笑みを深めた。ローブの内から薬を入れるような紙の包みを取り出し、彼女の前で広げて見せる。
覗いたのは、硬貨ほどの大きさをした鮮やかな青色。不思議な物語の予感に、つまらなそうな色をしていたアーシュの目が輝いた。
「おひとつ、差し上げましょう。夢の中なら何処にだって行けるのです」
「人魚のうろこ? ――いいえ、はなびら?」
「西の山の国、ナリュムに住まう妖精の魔法です。――よく眠れるようになるし、綺麗で不思議な山の景色を見られる。枕の下に入れるといいですよ」
ヒタキは物語りをするように、わざとらしく秘密を紡ぐ声音で囁いた。
青く薄く、吹けば飛ぶ軽さの花弁は、悪戯好きではあるが華やかで楽しいことが大好きな――アムデンでヒタキに襲いかかった性質の悪い妖精チカリなどとは違う、人々の国にあっても「隣人」などと呼ばれ親しまれる穏やかな気質の妖精が魔法を染み込ませたものだ。
彼らにとっての工芸品、国の土産物のような品で、ヒタキたちにとっては商いに商品として持ち込む他、そのついでにままあるこうしたやりとりの為の試供品でもある。実際に魔法を体感した人々は、次の客になってもっと値のするものを求めてくれる。
確かに小さく切り込みの入った花びらの形と手触りをしているのに、花そのものはユカリたちさえ何処でも見たことがない。妖精たちの不思議な魔法の品は少女の白い掌の上で奇妙なほどに存在感を持ち、仄かに光を帯びてさえ見えた。
「私、さっき起きたばかりなのに」
その感触に微笑んだアーシュは早く寝てみたくてたまらなくなったようだ。花びらを掌に大事に閉じ込め、近づいた渡りの顔を見下ろす。
「ねえ、ヒタキ。今日は駄目でも、今度は私のところにきて話をして。ちゃんとお礼だって用意して、呼んでもらうから」
名を呼ぶのは内緒話の調子で密やかに。その律義さが、ヒタキの好感を深めた。
美しく、高貴で、素直な娘。そんな彼女のおねだりを、商人としても個人としても断る理由など無かった。
「ええ、喜んで。一族一同、お声がかかるのをお待ちしております」
ヒタキの軽い返事に、緩く首が振られる。続いたのは念押しだった。
「ちゃんと、あなたが来て。他の人も見てみたいけど、折角なら知り合った人がいいもの。約束よ」
紫色の双眸が互いにかち合う。その時間はヒタキにとり、酷く長く感じられた。過去の記憶が瞼の裏から滲んでくる。
幼い少女の面影、――囁く声と、胸をざわつかせる臭い。
ああ、とヒタキは納得した。この幼い姫の我儘に逆らえない理由に思い至った。
「分かりました。とっておきの話を、いつか披露いたしましょう」
「ええ! 絶対よ! ……じゃあ、またね、ヒタキ」
改めての恭しい受け答え。ややあって先程まで繋いでいた手を淑やかに振り足取り軽く駆けていく灰髪の姫に、ヒタキはほうと息を吐いた。
そうして姫君を見送ったヒタキもまた、踵を返して宛がわれた己の部屋へと戻った。美しき白亜の城の只中で一人、静かな部屋で古い記憶が甦るのを振り払い、売り込む東西の品を整理することに没頭した。