四の二 ひとよがたり‐失せた櫛を見つける話
「フーデンシのメニ姫様の櫛探しは、とうとう山の国を抜け出てしまいました。櫛は海に有り。東の青黒き海の国サウーラに有り。キタエーの岩の言葉を頼りに、私は一度郷里――こちら側、人の国へと戻り支度を整えなおしました。……驚かれますか? 私共も皆様と同じ地に住んでおります。その暮らしぶりの違いは、今更申すまでもないことでしょうが」
しん、と改めて静まり返った会場で。ヒタキは東方を示して話し始めた。
馨しい酒が染みわたった喉は、調子よく震えた。遥か東の海を示した指は切りっぱなしの袖、実際の生活よりも貧しい見目を演出する灰色のローブを摘み上げて笑う。
「さて、ご存じのとおり海は広く、その上道の向きが決まっています。我々の目には簡単には知れませんが、あの塩水は波の行き来以外にも大抵決まった方向へと巡っているものなのです。船乗りがそうであるように、海の民はおよそ、その流れに従って生きています。ですから一度入ると私たち渡りもその巨大な力に従わぬわけにはいきません。そこで重要なのがサウーラへと入る位置です。すべて繋がっているように見える海原、確かに何処より立ち入ってもサウーラには至りますが、その国領を巡る道は様々。北側にある館へお邪魔したかったのに南側に流され小魚と遊ぶことになるのは、時間の浪費に他なりません。特に今回ばかりは、慎重に門を選ばねばなりませんでした。件の川の中の大穴が何処へと繋がっているのかを見極め櫛の通り道を見つけぬことには、櫛を見つけることだって叶わぬのですから」
昔々――ユカリの祖クグイとその子らの時期などは、東西の渡りの旅は冒険と呼んで相応しい場当たりの道行きだった。確かに目的地を定めてもそこに上手く行きつくとは限らない、迷い惑ってようやっとで辿りつき、帰りの道でもまた迷う、一度行けば百年戻らぬかもしれない旅路。
その先人たちの積み重ねと記録が今、ヒタキたちの道を確かにしている。この物語りの頃も既に行き当たりばったりではなくなっていた。
「いくつか、直接流れ込むのではなく魔法で繋がっている水流の調べはついていましたが――ああ、これは昔から妖精異形と語らってきた我々の秘伝でございます――どれがキタエーの穴に繋がっているのかは未だ、私たちの知るところではありませんでした。よって私は長老たちと膝を寄り合わせて一計を案じました」
ロガンの精霊たちがそうしているように、山や海の者たちはこちら側にある他の山や湖、果てにはどこかの家の暖炉などにまで扉を作り出すが、そのうちのいくつかはユカリたちが把握し、時に利用している。
ヒタキが記録を見た時には、キタエーの川の大穴についてもその先が明確に記されていた。この時に確認したものに違いない。
「フーデンシの使者殿は、キタエーで別れて事の次第をフーデンシの王に伝える為に引き返していました。ですからここからは一人旅、己と竜のみの旅路です。竜に乗って陸を発ち、人々が船で行き来するより更に沖へ。そうしてサウーラとの国境に至ったところで、海面に立つ水の柱が見えます。それこそ、海の上に繋げられた川が流れ込む滝の姿。これを順に探りました。――ああ、さすがはよくご存じで。神の持ち物ではございませんが、この滝、杖より奥は確かに異国サウーラ。本当に、近づいてはならぬのです。くれぐれも船をお進めになりませんよう」
「海神の杖だな」と、話の途中で、控える楽団の近くに座り物語りを聞いていた富豪商人が隣に居た男へと呟いたのを耳ざとく拾い、ヒタキは話を一時この場へと引き戻して言った。
海辺の国ではよく知れた話だ。沖のある所には巨大な水の杖が立っているが、これはそれより先は近づいてはならぬとの忠告、海を治める者が目印に突き立てたものである。けしてその奥を目指してはならない。――という教訓話。実際は海神の手によるものではなくヒタキが今話したとおりだが、意味合いは大して変わりがない。
先に進んで異形や精霊の歓待を受けぬ保障はない、異界への目印だ。
「さて、如何にキタエーの川を探したかに話を戻しましょう。方法自体はあまり難しくはありません。糸に銅貨を結びつけ、「キタエーの大穴より来たる水に差し上げる」と言っては、釣りの要領でその滝の中に投げ込むのです。魔法がかりの水とはそうして意思を交わすことができます。水とはどうも真面目で偽らないものでして、例えば「貴殿が湯なら取るがよい」と言って何度やっても、糸を引き上げれば銅貨はそのまま戻ってきます。場合によっては弾かれるようにして、水面へと打ち上げられることさえある。けれど「塩水なら取るがよい」と言うと、海の水ならば糸をすんなり解いてしまう」
確認に用いられたのは、声を持たない水を相手に意思疎通する際の基本的な呪術だった。はいかいいえで答えられる質問と共に、何かの意思が働かなければ難しいだろう仕事――この場合は糸を解き銅貨を取ること――を与える。その成否を返答とする。
すぐに当たりの分かる籤引きにも似た釣り。釣り堀は海の上に生じた魔法の滝だ。このとき渡りは数々の滝を辿っては、それを繰り返した。
「そういうやりとりを繰り返し、根気よくやりました。そうして四つ目の場所だったでしょうか、それとも六つ目。モズヒスの沖に生じている幕の如き大滝に投げ込むと――しっかり結んだはずの糸が解けて、銅貨が消えていました。何度やっても変わりません。ああ此処だ、キタエーの大穴は此処より、海に繋がっている! まだ探し物自体は見つかっていないというのに、そのときは大層嬉しく思いました。しかし、そこから道を辿って探せば件の櫛にも行きつくに違いありません。サウーラの国境を彷徨った三日三晩は報われました」
六つ目で見つかったとすればまだよいほうだと知っているヒタキの声は、我がことではないにもかかわらずしみじみと実感が籠っていた。先程の海神の杖の話が海に面するどの国でも聞かれるようにこうした滝は南から北まであって、ユカリたちが知る限りでも全てを巡ると三十六ヶ所もあるのだ。海の上では当然休めないから、陸と沖を何度も行き来して探すことになる。何日かかるか知れない。
伝え語りで聞いた中でもやりたくない仕事の上位に入ると、ヒタキは子供の頃からその感想を変えていない。
「ようやく入る門を決めることができた私は、陸のものを海へ、海のものを陸へと導く魔法を己が身にかけました。……この魔法ばかりは教えるわけには参りません。それが決まりですので」
吐息を挟んで続けたヒタキは勿体つける含み笑いを忍ばせ、端を上げた口元に指を添えて、興味深げにした人々の期待をあっさりと裏切った。
このように物語りで金は稼ぐが、秘密を教えるのはわけが違う。その辺りの線引きを怠ると酷い目に遭うというのは古今東西よく聞くことだ。特にこの魔法に関しては東の国サウーラに行くには必要不可欠、けっして他人に知られて失うことがあってはならない。
それにそのほうが、物語りは面白いのだ。知れないからこそ知りたくなるのが道理。秘密は語り手を一層魅力的に見せる。
「この秘密の魔法は素晴らしく、我々人も海に住まう者たちと同じように水の中で息を吸い動けるようになるというものです。瞬く間に海に馴染んだ体で波間を潜り、私と竜は海の底を目指します。ひやりとする温度、深く深く行くごとに濃くなる青が体を包むそこはまるで夜の世界。魔法がなければ先などろくに見えぬ、そういう国です。泳ぐ竜に掴まって潮の道に乗り、更に沖を目指します。四方八方が水に囲まれていますが、上手く道を辿れば海の底を見ることができました。ところによっては山も崖もあるその中を、何処かの岩、何処かの海藻に櫛が引っかかってはいないものかと、首が休まらぬほどにあたりを見渡して進み続ける。そうするうちに至ったのが、船の墓」
右へ、左へ。振り向き後ろも。言葉を続けながら、眩い飾りが下がる天井から足を置くよく磨かれた床までをぐるりと見渡したヒタキは顔を正面に戻して言う。
不吉な響きに、会場は再び静まり返った。
「滝と同じくこれも、漁や荷運びで人々が乗る船が行き交う辺りからそう遠くない海の中に、いくつかあるものです。古びた帆が揺らぐ帆柱が立ち並ぶ奇妙な地。まだ上から注ぐ日が知れる割に明るい場所でしたので、いくつもの柱が林のようになっているのがよく見えました。――恐ろしい話ですが、船を襲うのが大好きな異形というのが居るのです。特に大きくて立派な船を好みます。けっして人を海に引きずり込んでやろうなどと、そういうわけではないらしいのですが……丁度、狩りに出て鹿など捕らえ、その角を立派だろうと掲げるように。密やかに大きな渦を成しては、船を海神の杖より奥に迷い込ませて帆柱を引っこ抜いて飾るのです」
ヒタキは徐々に声を潜め。恐ろしいと言いながらも表情は変えず事も無げに話を続ける。わざわざ仔細を言うことはないが、帆柱を捥がれた船がどうなるかというのは想像に難くないことで、向こうにその気が無くとも、乗っていた人々が哀れなことになったのは違いない。
「船にとっては恐ろしいものですが、その手段さえ除けば単なる採集家であり人を喰うわけでもないので、海中では恐れる必要もありません。いくつも帆柱が並ぶそこは櫛が引っかかる場所も多そうだと、その林の中をぐるぐると巡りました。天辺から根元までくまなく見て回るのは、この地でやるよりも随分楽です。上に行こうと思えば木を登る必要も、竜が身を置ける空間を探す必要もなく、泳げばよいのですから。貝殻を連ねた誰かの首飾り、底が抜けた油の壷、擦り切れたボロ布などは見つかりましたが、しかしどれほど探してもあの櫛は見つからず、皆留守にしているのか訊ねる相手も居りませんでした。なんとなく薄ら寒い思いもした私は、逃げるようにまた竜を道へと戻しました」
しかしヒタキの声と語り口は軽く、淡々とでも言うべき調子で響いた。本当に怯んで船の墓を後にしたのかも疑わしい、あっさりした調子。
そのときそこに居たのはヒタキではないというのもあるが、これも要は演出だ。言葉と感情のずれは聞き手に奇妙な心地を与え、有耶無耶のうちに引きこんでいく。どこかから忍び込んだ風や、身に着けた絹が肌に触れる微かな冷たさを、青く揺らぐ波のものと錯覚させる。
サウーラと違って青みのない影を見つめ、ヒタキは瞬きを落とす。大きめの一呼吸。
「櫛の見つからぬまま、水に押されるようにして進み、進み。通りすがりの魚や海の精――おぼろげに光り瞬くものなどに訊ね、求める答えを聞けないままに、なお進みます。その日の海は静かでした。が、じきに賑やかになることはそのとき既に分かっておりました。道なき道が何処に繋がっているのか、行く手に何があるのかは知っていたのです。そこへも今宵のように物語りをしに訪れたことがあったものですから。記憶に違わず、やがて見据えた先に巨大な輪の形をした門が現れました。まるで毛皮を丸めたようなもじゃもじゃとしたそれは、岩を組んで作った物に海藻などがびっしりと張りついた物でした」
手で輪を作り、すぐに解いて。ヒタキは脳裏にその門の姿を浮かべた。毛むくじゃらで、岩を掘った物と気づくには時間のかかる、まるで何かの生き物のようにも見える奇妙な輪。そこを通ると住人達はすぐに来客に気づく。
「黙って浮いている以外は何の仕掛けもないそれを潜った先が珊瑚の森に囲まれた都、サウーラ南方、ウルスク領でありました。高台にあって明るく珊瑚も鮮やかなこの地には、魚の身を半分持つ人々が住んでいます。――そう、人魚です」
その言葉にまた、さやさやと各所で声が起きた。
人魚の話は人にうける。フーデンシの三瞳のように人の形をした異形、精霊たちの話も好まれるが、特に人魚など半人の存在は格別だ。物語りをする者には、人魚の話をしてくれと注文がつくこともあるくらいだった。
奇態だが古くから物語によく出てくるので想像しやすく、血肉が不死を与える、夫婦となれば繁栄を与える、という富を求めるものにはうってつけの俗説もついているというのが、主な理由だ。今日この場にも、人魚と聞いた途端に話に興味を持った者が何人も居た。
「今宵この城にお集まりの皆様、ご出身は様々と思いますが、ご存じの人魚は美しいものでしょうか、醜いものでしょうか。実はこれは海の南北とで違いまして、南は美しく北は醜い。これは単にその祖によるものであると伝えられております。ウルスクの人魚たちは皆美しく美男美女の人の身に、色とりどりの魚の尾鰭を持っています。男女共に長く伸ばした髪を広げて煌めく青い水の中をしなやかに泳ぎまわるのは、それはそれは素晴らしい景色でした」
恐らくこの物語りの後、また人魚の肉や鱗を欲する声が何処からかかかるのだろうと思いながら、ヒタキは聴衆に語りかけた。
ほう、と感心したような声。南の者と北の者とが言葉を交わしている横で、躍る人魚たちの姿を思い浮かべて夢見心地の令嬢が居る。
「ウルスクの彼らは話好き噂好きで、海のことをよくよく知っています。ですが聞き込みとなりますとなかなか強か、商人のような気質でして、一つの答えを得る為には何かを一つ差し出さねばなりません。勿論、私もサウーラに赴くのは初めてではございませんのでそこはよく弁え、身支度のとき既に考えておりましたが。――人魚への聞き込みは必須だろうと手土産を用意しておりました。そのときは確か……」
今度は片手の親指と人差し指で小さな輪を作り、目の高さまで掲げて見せる。
「蜜人参を薄切りにして乾した物。割に安価で、保存も持ち運びも容易い庶民の甘味です。海の中で甘い物といえば何か、貝や魚の肉程度のもの。この菓子ほどの純粋な甘さではありません。蜜の甘さはとてもとても珍しく、一度食べると病みつきになるようでした。海の中で取引するには金貨を差し出すより、この赤い薄っぺらと交換にしたほうがいくらも食いつきがよいのです。ついでに蜜酒も用意すれば文句など一切ございません。ああ、」
小さな円は、先程とは違い実際とも違わぬ大きさだ。丸く平たい、赤い乾し物。今此処にいる者より下の層に馴染みがある駄菓子の一つ。ヒタキは子供の頃によく齧ったものだが、王族貴族たちや、サウーラの住人にとっては違う。物珍しく興味を引いた。今この場では、干乾びた野菜の切れ端が人魚の鱗と同じく想像されている。
ヒタキはふと、思い出したように声を挟んで微笑んだ。
「もう一つ不思議な話もしておきましょう。この場で、例えば水を満たした瓶の中に酒瓶と杯を入れて注ごうとしても、水に酒が混ざって思うようには行きませんが――サウーラの海では、問題なく杯を満たすことができます。これはどうにも奇妙で不思議なことなのですが、そう願って杯を据えて瓶を傾ければそれまで杯を満たしていた海は避けていき、酒と入れ替わってくれるのです。ただし得手不得手はあるようでして、下手な者がやるとどうにも潮の味が致しますが……給仕の蛸などはこの技術に長けているのです」
人魚たちサウーラの住人、そして魔法によって彼らと等しい存在となった東西の渡りの手では、奇術めいたことも普通に起こり得る。
水の中ゆえに何気ない動作さえ、語るに値する事柄になる。
「さて話を櫛探しに戻しましょう。――やあ諸君、今日は物探しをしているのだが、と菓子をちらつかせて呼びかけますと、こちらに興味があった者は当然、何気なく横目にしていただけの者も興味なく通り過ぎようとしていた者も一斉にこちらを向いて泳いで来ます。山の国の、姫の、琥珀と銀の、櫛を……との説明も途切れ途切れになるほどの勢いで――菓子欲しさに集まってきたものですから、こちらの話を半分だけ聞き急いで答える者ばかり。「錆びた鉄の櫛なら自分の家にある」「琥珀ならあっちの海でよく採れる」「山から来た首飾りならここにあるわ」――そんな具合で、まあ騒々しい喧しい。探している櫛のことを言っている者があったとしても、聞き零してしまいそうなほど。しかし望んだ話ではないからと追い返していてはそのうち話をしてくれなくなるやもしれません。どうにか宥めて一人ずつ話してもらい、ほんの一枚でも菓子を渡して、形ばかりながら礼を述べては次、適当に相槌を打っては次と話を聞いていきます」
声音を変えて早口に再現して。ヒタキは覚えのある騒々しさに眉を下げて笑いながら、菓子を配る手振りをする。それは最後、追い払うようなものに変わった。
「銀に琥珀の櫛を見た者がようやく現れたと喜んだものの、よくよく聞けば三百年も前のこと。さすがに時期が違いすぎました。そんなこともあり、菓子も残り少なくなってきて焦り始めた頃。のんびりと横で話を聞いていた歌い手の娘が口を開きました。「川の穴に落ちて海に来たのね。それなら私の恋人が分かるはずよ」と。金の髪に銀の鱗の人魚だったと記憶しています。彼女は逆の色味――銀の髪に金の鱗の男を呼びだして話を取り次いでくれました」
この人魚の色と組み合わせは、ヒタキが子供の頃に話に聞いたとおり。そして、ヒタキは二人に会ったことがあった。語るとその声が耳に甦る。自身の声では真似できぬ、美しい声音だった。男の方も女と共に歌い手をしていた。
「私が山の国の姫の櫛を探していること、その櫛がマレの川底で海に繋げられた穴に落ちたこともすべて聞くと、その男の人魚は深く頷きました。「なら、エネンスク大公が持ってらっしゃるのではないかな。あの穴なら大公が空けたもので、いつも魔法で様子を見ていて何かいい物が来たと見ては近くに控えている小間使いに持ちかえらせるんだ。そんなに素晴らしい櫛なら、見逃してはいないだろう」――その言葉を聞いた私の安堵と言ったら。わざわざ言うまでもありませんね。櫛は流されて行ったものと思っていましたが、海に入ってからは確かに運ばれていたようです。穴が魔法によるものなら仕掛けた者がいるというのを、もう少しちゃんと考えるべきでした」
海神の杖こと、境の滝は自然現象ではない。力のある誰かがそうしなければ、川底に海に繋がる穴など開かないし、宙から水が湧き出て海に注ぐこともないのだ。魔法の出来事の裏には、必ず妖精や魔法使いが居る。この時もそうだった。
そして、その魔法使いは東西の渡りたち――ヒタキにとっても知らぬ存在ではない。
「エネンスク大公。サウーラの中でも一際広大なエネンスク領を治める、高名な魔術師。その見目は大魚ですが、先程お話したナリュムはマレの魚怪とはまるで異なります。知性と気品に溢れた、大公の地位に相応しいお方です。魔法で色の変わる不思議な鱗と薄絹のような優美な鰭の持ち主で、掌ほどもある真珠を連ねたフリルの襟飾りなどで着飾っていらっしゃる洒落た方でもいらっしゃいます。そして何より、珍しい物が大好きな私共の商いのお得意様でした。人魚の言うとおり、かの櫛を見つけたならばきっとご自分の蒐集品に加えているに違いありません」
身分がある客、という点を掻い摘めば今此処にいる人々ともそう違いはない。真珠ではなく宝石が連なった首飾りを着けた貴婦人の太い首も視界に、ヒタキはその姿を思い出す。
「感謝の印に残りの菓子を人魚に渡し、私は急いで竜に跨りエネンスクへと赴きました。幸いにも潮の流れウルスクからの潮の流れはエネンスクに向いており、東に二日ばかり泳げば辿りつきます。目指すはその一角にある大きな宮殿――巨大な青珊瑚を柱や梁とし、貝殻の屋根瓦で飾った門を構えた大公様の邸宅。魔法使いの大公は客もお見通し、門扉は叩く前に勝手に開いていきます。丁度お暇だったようで、渡りを快く迎え入れてくださいました。進んだ、一際広く物に溢れた宝物庫を兼ねる大公の間、珊瑚の座にお待ちの大公は、それ自体が美しい海のような翡翠色の鱗を煌めかせていらっしゃいました」
大きさはそこらの民家ほどもある美しい魚。身の丈は長くウツボのようでもあったが、その姿は近隣の海で見かける魚たちとは一線を画して、世辞を除いても美しい。
銀粉を薄く刷いたような光沢のある、ウルスクの麗しい人魚に勝って煌めく鱗は、ヒタキが前に会ったときは翡翠色ではなく珊瑚の桃色をしていた。
「ご機嫌麗しゅうございます、などと挨拶をそこそこ、私は大公の蒐集品自慢に耳を傾けることとなりました。この方、私共から物を手に入れるのも好きですが、手に入れた物を見せて歓談するのもお好きなのです。話相手を求めてうずうずしていたところに私が行ったものですから、それで気をよくなさっていたのですね。そんなわけで近頃手に入れた物だと披露の卓に並べられた品々は、海のもの、人の国のもの、山のもの、色々ございました。ナリュムの谷の一族が織る細風綸子、二翼の先から尾の先まで形を留めた竜骨、血潮のように赤く星の形をしたルビーに――野兎が描かれた絵皿、ブージニーの辺りの玩具と思しき人形など、またとない宝から今此処に持って来たとしてあまり価値のなさそうな物も。しかし、探し物の櫛は見当たりません。……気は急ぎましたがここで機嫌を損ねては仕方がありません、これはこういう品で、ここが素晴らしい、滅多に見られるものではない、などとの話を暫し伺って。一刻二刻もすぎてようやくそれが一段落したところで、今だと、私は直に切りだしました。「いやはやどれも素晴らしい。ところで大公様、ナリュムから来た琥珀の櫛をお持ちと聞きましたが」と」
珍しい物はその地によって違うのは当然ではあるが――クシクシの見下ろしたちと違って話しをするので何が気に入りの理由かなどは明白だが、件の大公の趣味も、人の目から見れば奇妙なものだった。ガラクタも至宝も、彼の大切な蒐集品だ。
ただし、先に船の墓の話もしていれば、至極真っ当で穏やかな道楽に聞こえるものだ。
そうして核心、櫛へと至る物語りに、女子供向けの接待だと斜に構えて酒杯を傾けていた者たちも渡りの腕を確かめるようにヒタキの声へと耳を傾けた。
「大公はそれはそれは嬉しそうに金の目を細め、「さすが旅の者は噂にも敏いことだ。持っておるとも。三月ほど前に手に入れた物でな、朝陽を固めたようで大層美しい」とお答えになりました。私は思わず深く安堵の息を漏らしてしまいました。そんなに見たいならば仕方がないと勿体つけながら、大公はついと尾を動かし魔法で箱を卓へと引き寄せます。大きな二枚貝の貝殻を細工したそれを、私の目の前で開いて見せる――」
熱を帯びる語り口。ヒタキは目を閉じ、深く、息を吸った。
「――ああ。確かに。真白き蝶を眠らせた、掌ほどもの大きさの琥珀を抱く、サンザシの梢の銀細工。海の中にありなお明るい黄金、成程大公が仰ったように海の中へと居残った朝陽の如く。時が止まったかと思えるほどに美しい、探し求めた姫の櫛……」
貝殻の宝箱、その中に鎮座する、探し求めたナリュムの姫の櫛。幼い頃に聞いたいつかの渡りの物語は、それでも鮮やかに瞼の裏に宿る。吐息混じりに言葉の余韻がしんと、宴の会場に染みわたるだけの間を持って、東西の渡りの声は再び滑り出した。
「大公は新しく手に入れたこの櫛を甚く自慢に思っておられるようでしたが、私が実はと櫛の謂れ、そして私が櫛探しの為にサウーラへ来たことを申し上げると、考えるお顔となりました。そうして「成程分かった。親の形見、大切にしていた持ち主が探していると言うのなら、返さぬと言うのも酷い話だ。しかし儂もこれをとても気に入っておる。何か珍しい物と交換で、返してやろう。渡りよ、常のように儂を満足させてみよ」と仰った。大変ありがたいお言葉でしたがしかし、山の国ならばともかく、其処は海の国。我々が持ち込まずとも、探し物の櫛のように誰かが落としたりして流れ沈んでくる物も多いものです。かつてヘイスの大船が覆った折も、その船に載っていた品々で溢れていたといいます。――我らが知る限り、どの人の国より、また異形たちの国よりも、物が集うのはその場所でありました。そして相手は珍品の蒐集家。此処にいらっしゃる皆様にも劣らず目が肥えていらっしゃいます。ゆえに、「珍しいものを」という求めにはほとほと困ってしまいました。まず、この大公にお渡ししていない物を考える。幾らかあります。そして、海に流れてこないようなもの。これも幾らかあります。が――手持ちとは限られるもので、正直、大公のお気に召すようなものが荷にあるとは思えませんでした」
ユカリの者たちが知る限り、商いや交換の話の中でこれは一番の難題だった。あの大公に珍しい物をと言われたら、それも既にお気に入りの物と交換するような物。
ただの人間相手でも難儀しそうなところで、子供たちは最初にこの話を聞くときは「お前ならどうする」と問われたものだし、大人になって改めてああだこうだと夜通し酒の肴に話していたこともある。
それでも、この物語り以上の結論を出した者は未だ無い。
「そうなると知恵を絞って何か上手いことを言うしかないのですが、これもなかなか、すぐには思いつきません。諦め半分足掻き半分。考えながらもどうにか時間稼ぎをし取っ掛かりを得ようと、私は大公の前に手持ちの品を広げることと致しました。こうなると片っ端からです。布に縄に火口、パンに果物――これは我々の食糧でありますが、やはり海では珍味です。貝や海老が内陸では持て囃されるのと逆ですね。しかし大公は既に幾度か味わってらっしゃった。勿論乾した人参程度では靡きません。櫛の代わりには到底及ばぬと首を振ります。そもそも櫛が相当お気に入りのご様子でしたから、珍しい物を出したってそうそう、並のものでは食い付きそうにありません。陸の様子を描いた絵画、爪切り鋏、スズリの彫刻品……山の国の物もいくつか。薔薇色の蜜酒や黒いリスの毛皮、光る花に頭痛を癒す赤蝙蝠の糞、未来を見せるというレース模様のすべすべとしたキノコ……」
呪文のように大公の蒐集品にも劣らぬ品々を口で並べた果てに、ヒタキはそっとローブの襟元に手を入れた。手繰り寄せられる鎖がさらと小さな波の音を立て、華やかな宴席の灯りの下にそれを晒す。
「宝石?」
歪な方形の青石。離れた舞台での動きに目を凝らした女の呟く声が聞こえたのに答えるように、ヒタキは口の端を上げて見せた。
「その時これは、荷の隅から転げて珊瑚にことりとぶつかりました。もう少し、拳ほどに大きく、このようにはなっておらず、ただ布に包んで物運びの状態にしてありましたが――大公も同じように興味を引かれて、それは宝石かとお尋ねになられました。私は大変に驚きました。興味がおありですか、と訊き返す声が上擦ったのも致し方ありません。何だと繰り返す声に慌てて答えます」
ヒタキは一つ息を挟み、視線を上へと向けて少し勿体ぶってから声を載せた。あたかも目の前に大公が、相手をすべき者が居るように。そこに大魚の姿は無く、明るい燭台に目を細めることになったが。
「失敬、こちらは塩でございます。人の国とナリュムの境で採れる、岩塩ですよ」
「あれが塩?」
「青いわよ。本当に宝石みたいね」
「あの見た目でも塩辛いのかしら」
「混ざり物があると色がつくのです。混ざり物と言っても、悪いものではありませんよ……」
各所で交わされる驚きと興味を含んだ会話に、ヒタキは一層に目を細くした。
色味は違えど同じように色のついた塩の採れる岩塩窟を持つ国の王子が、傍らに腰掛けた別の国の姫に説明しているのも耳に入った。そこまで珍しい物ではないと言われているようでもあったが、大方の気が引ければ問題はなく――物語においての肝はそこではない。
「海の者が塩を知らぬのか」
「私もまさかと思いました。皆様も知ってのとおり、塩は海から取れる物。海の中には塩を挽きつづけている臼があると云うほどに、海を満たしている代物です。それに、そこらの宝石では靡かぬと思えた大公が興味を示されたのです。シオ、ガンエン、石ではないのか、とどこか不思議そうな腑に落ちないようなお顔で繰り返す」
また、誰かの言葉に応じる形で続ける。その先の声音は明るいものとなった。
「海の底にお住いの大公様は塩をご存じでなかった。海の中では塩は海と等しく、彼らにとっては海そのもので、水と塩やらに分けて考えることなど無かったのです。海は海、引き満ちて寄せて返り、流れて揺蕩うもの。このように固まるものが海に混じっているなどとは想像もしないことでした。……さあ、この驚くべき出来事を使わぬ手はありません」
ヒタキは一歩、立ち台から落ちぬよう小さく前へと歩み、意気込んだ様子を見せた。
「この美しい塩の石はナリュムの岩塩窟で採れたものです。石ですが、ただの石ではございません。……大公は化石をご存じでいらっしゃいますね? これはサウーラ――海の化石でございます」
古い生き物の骨や貝殻の混ざった石を掘って拾い集めることは、人の国では此処数年の流行りで――大公にとっては数百年前からの蒐集品の一つだった。
けれど彼らの、既に持ち合わせている印象を覆すように。ヒタキ――かつての渡りは言葉を選んだ。火を受けて透ける、海の水のような青色を見せる岩塩の結晶に詩を添える。
「かつてはこのサウーラの一部であった、ナリュムの一国エルシャの地脈に取り残された古の海が、その身を石に変えたもの。長き眠りの果てに岩間から見つかった、海の粋の欠片。この色も恐らくは海の記憶」
握り込んだ岩塩は体温を移して温いが、当時はひやとしたに違いなかった。海と同じ温度だ。
「手にするうちに溶け込んでしまいそうなその石を、大公の魔法が掬い上げました。「古き海とな。ああ道理、道理でなにか懐かしい気配のする石だ。遥か南の海」。そう仰って、矯めつ、眇めつ。よくよく眺めて、触れ撫でて。そうしていくらかを過ごし、大公は岩塩とは逆の色味で輝く琥珀の櫛へと目を向けられました。私の心臓は緊張で縮み、痛みを訴えるほどでしたが――そんな渡りを労うように、大公は優しく仰いました」
今や小声で言葉を交わす者さえなく。広い広間は人の多さに反して静まり返った。渡りの声はよく響く。
「この櫛は小さいし、私には髪も鬣もない。儂に櫛は使えん。代わりにこれで冠でも作らせようか。渡りよ、櫛は姫にお返しするがよい」
魚の大公を真似た口振りでヒタキは言いきった。渡りは見事に、岩塩と引き換えに櫛を手に入れたのだ。
ヒタキは襟元を寛げ、手にしていた塩の塊を放り込む。鎖が立てる微かな音と共にそれは見えなくなり、空いた手はローブの上から押さえつけるように胸へと動いた。
「……このようにして、私は西の山から探していた櫛を無事に手にすることが叶ったのでした。さて、帰りの道、再び山の一国フーデンシへと戻りますのはさして面白い話でもございません。普段の私共の旅と言いますのは、意外と地味なものですから。櫛をけっして失わぬよう、大切に大切に抱えて参っただけでございます。――山の頂から海の底へと至った櫛は、山の窟に眠っていた海の雫と引き換えに。そうして、東と西を繋ぐこの渡りの手により、我々の暦にして十五年の歳月を経て、泣き暮れる三瞳の姫様の御髪へと戻ったのでした」
事も無げにかかった月日を告げ、悪戯でもしたような笑みを見せる十五も遡れば幼子か赤子になりそうな渡りは、一度客のすべてを見渡した。
それから深く息を吸う。疲れた喉がひやりと感じられた。
「櫛探しの話は、これで終いでございます」
ヒタキが恭しく一礼し、灰色の裾が揺らぐのと共に拍手が広がった。語り部を務めた東西の渡りと、渡りを呼んだ王への喝采だった。
ヒタキは顔を上げ雇い主の王が満足そうなのを見て取ると、もう一度深々と礼をしてから台を降りた。そのまま案内に連れられて会場の外へと足を動かす。
立ち去るその背を、灰色の髪の姫が一際高揚して輝いた目で追った。周囲の大人たちが余韻の残る中で言葉を交わし始めるのを耳にしながらも、その耳にはまだ渡りの声音が聞こえていた。その声は宴がお開きとなり、彼女がいつになく遅く寝台に潜り込む頃になっても、まだ消えなかった。