序 海より日出づ
昇る前の陽を出迎え、沈んだ後の月を追いかけるのだ。水平地平の向こうにも、未だ、旅路は続いている。
海の果て、水平線から眩い光が零れる。
いつもと変わらぬ夜明けだった。夜闇を薄く拭いながら、太陽は空へ昇っていく。暗く色を沈めていた海もまた光を受けて輝き、波に揺れる度にきらと瞬く。透けていくその天井を目指し、ヒタキは跨る竜を急かした。
海の中は大抵夜めいた青か黒色で、ひやりとしている。それでも此処まで昇ってくれば、何処が水面かも知れぬ夜が去っていることが知れる。上に行くほど明るく、泳ぐものや漂うもの、波の影も見えるのだ。
十五、六。それとも十七。子と大人の間とも言える若者の顔にも、水で歪んだ光が差す。
ヒタキは海藻のように黒い大きな布で体を覆い、しっかりと鞍を載せ荷を括った灰色竜にしがみついていた。海から上がる時はいつもそうしている。魔法が解けた後にずぶ濡れになるのを防ぐ為だ。泳ぐ魚たちを散らし、ごぷり、と水の動く音を捉え――昇り昇っていよいよと言う時、ヒタキは深く息を吸いこみながら、額を撫でていた布の端を顎の下まで引き下げた。もう何度もやってきたことだ。慣れて、調子も掴んでいる。
二股に分かれた竜の尾が、一際強く水を打った。
魔法が解ける。濡れているという感触がある。水が俄かに重く感じられる一瞬を振り切り、竜は海上へと顔を出す。
揺れる波とは別に隆起した海水の膜を内から引き裂くように、ヒタキは己を覆っていた黒布を剥ぎ取り体の後ろへと翻した。水が飛び散り陽の光を弾く。不思議とその飛沫の他はほとんど濡れていない衣類が裾や袖から空気を呑んだ。袖の窄まったシャツに重ねた黒の貫頭衣、対照的に裾を広げた脚衣が膨らむ。南側で見られる伝統的な旅装束の一つ、頭巾についた日除け雨除けの布もたっぷりとした布も、また。
竜は翼で風を捉え、水から出た後の体の重さをものともせず、まったく円滑に飛行の体勢に移る。
ヒタキもまた、大きく息を吐いて吸いこむ。久方ぶりのただの空気、潮風を帯びてなお乾いたそれはどこか沁みた。水面が下にある風景は、ヒタキにとっては三月ぶりだ。海の中では青白く見えていた肌も、海を上がれば当人の覚えのとおりに浅黒く赤に近い。瞬いた両目だけが、青にも近い薄紫だ。
「……さて、こちらでは何日経っているだろうかね、見立てどおりだといいが」
水ではなく風の流れに乗って羽ばたき始めた竜の上で朝焼けの空を仰ぎ、ヒタキは独りごちた。その声の響き方さえ違うように感じられるのも毎度のこと。
なんだか生まれ変わったような気がするこの瞬間が、ヒタキは好きだ。無論、帰郷の喜びもあるけれど。
「さっさと帰るぞ。久しぶりにパンや卵が食えるし、藁のベッドで寝れる。嬉しいなぁヒカタ」
上機嫌に微笑み、竜に語りかけてその名を呼ぶ。竜の長い首の先でクルルと喉が鳴り、青胡桃のように丸い緑色をした目がゆっくりと瞬きをする。この反応は同意だと、ヒタキは勝手に思っている。少なくとも己の竜は不機嫌や不調の兆候を見せていなかったから、ヒタキにしてみればそれで十分だった。
一人と一頭が見据えた先には陸が見えていた。ヒカタは泳ぐのも飛ぶのも得意だが、その分足はあまり強くなく、走るには適さない竜だった。だから海を出た後、残りの帰路はすべて空だ。
帰るべき場所を覚えるだけの頭がある竜は、住処を目指して一際に強く羽ばたいた。
ヒタキの一族は旅人――渡りを生業としている。国々を渡り、物や手紙を運んだり、その土地の品や話を伝えたりする。国と国を繋げる仕事だ。
ただヒタキたちが他の渡りと違うのは、行き先が南北に伸びる人の国々のみならず、東の海、西の山、境を越えた先の異界であるということだった。異形や精霊、人とは違う様々な何かが住まう異界の国――日が昇るサウーラと日が沈むナリュムと、そして南北に広がる人の国も行き来するので、一族は俗に東西の渡りと呼ばれていた。
東西の渡りは異界の品を人に齎し、人の品を異界に齎して暮らす。それは時に宝物であり、時に武具であり、時に物語である。