有金駆は失神する⑧
数十秒の沈黙の後、綾辻が浴衣のどこからかスマホを取り出し、画面を見て声を上げた。
「あ、いけない! 七時になっちゃう! 一颯ちゃん、戻らなきゃだよ」
竜崎が宿泊しているのは僕たちが泊まっている宿とは別の建物だ。これから夕食が始まるので自分の宿に戻る必要がある。
「うう……。もうそんな時間か。穂香ぁ、鵜久森ぃ、頼んだぞぉ……」
「お、おう」
竜崎はゾンビのようにフラフラヨロヨロと、足下のおぼつかない様子で自分の宿へと戻って行った。
本当に大丈夫か、あいつ。
「ハルくん。わたしは配膳のお仕事があるから行ってくるね。また後でねー!」
綾辻は僕に向かって手を振りながら、小走りで食堂の方へと向かって行った。
僕はポケットに手を突っ込んで突っ立ったまま、徐々に遠くなるその背中を見送った。
ふう。さて、どうしたもんかな本当に。
あっちを立てればこっちが立たず。
竜崎の立場に立つと元の鞘に戻すのが一番なんだろうけど、有金の立場に立つとそういうわけにもいかない。
それに僕はもう有金の将棋の才能を知ってしまった。
初めて江末と対局した後の、あの喜々とした表情も見てしまった。
そんなあいつから将棋を取り上げるなんて有り得ない。
あいつがこのまま将棋を続けたら一体どうなってしまうのかを僕も知りたい。
人の将来がこんなにも楽しみになるなんて、自分でも意外だった。それほどまでにあいつの将棋の才能には魅力がある。
そもそも僕が有金に「陸上部に戻れ」と言ったとしても、あいつがすんなり言うことを聞いて戻るとは思えない。
となると、やっぱり竜崎の方を懐柔するしかない。
有金が今どれだけ将棋に心血を注いでいるかが伝われば、竜崎だって理解してくれるだろう。あいつだって話の分からないやつではないんだから。
……でもやっぱりちょっと不安。大丈夫かしら。僕も有金みたいにビンタされたりしないかしら。そこだけが本当に心の底から不安。だってビンタされたら痛いもの。痛いの大嫌い。シイタケの次に嫌い。
*
そんなわけで翌日。午前七時半。
心から部の五人は朝練をする部活のサポートのために、朝も早よから出動している。
うん。シンプルに眠い。
朝練の仕事が始まったのは今から一時間以上前のことで、すでにほとんどの部活が練習を終えている。朝は体を動かす程度の軽めの練習で済ませ、昼の練習からが本番らしい。
ただそんな中、唯一陸上部だけがまだ朝練のランニングを続けている。
まさか朝から全部員で十キロ走とは。しかもあんなに元気良く掛け声まで出して。すごいなホントに。もう僕は二度とあっち側には戻れないな。
十キロ走がスタートしてからもう四十分近く経つ。男子の長距離ブロックは間もなくゴールするところだし、一番ペースが遅いグループでもあと十五分くらいで終わるだろう。
早く終わんないかな。
実は僕は昨日の夜、有金と竜崎の仲直り計画の最初の一手を考えていた。
その名も「気まずい雰囲気を緩和させよう作戦☆」。
ただ朝練の後に有金から竜崎に声を掛けさせるだけというシンプルな作戦だ。
有金には昨日の夜に部屋でその旨を伝えてある。あいつがアンポンタンじゃない限り覚えているだろう。
僕が有金の方に視線を向けると、有金は左手を口の辺りに当て、真剣に何かを考えているようだっだ。
そして隣に突っ立っている江末に向かって、
「5二銀打」
更に江末は有金の言葉にノータイムで返す。
「……同龍」
「同金」
「……2三飛打」
「2四歩打」
「……同桂成」
「んー。悪いちょっと考えさせてくれ」
こいつら朝っぱらから脳内将棋をやってやがる。
脳内将棋とは、駒も盤も使わずに頭の中だけで進める将棋のことである。自分の手を指す時は言葉に出して相手に伝え、それ以外は脳内の将棋盤で将棋を展開させる。
プロ棋士がテレビ番組でやっているのを見たことはあるが、まさかアマチュアでもできるものだったとは。
将棋盤いらずじゃん。超絶エコ。
有金は自分の手番で止まってしまった。そしてまた左手を口のあたりに当てて「うーん……」と考え込んでいる。
昨日の約束を覚えているか確認したかったけど、長考しているみたいだし声を掛けるのは止めておくか。
まあさすがに覚えてるだろう。脳内将棋ができるほどの記憶力があるんだものね。
あと問題は竜崎がどんな態度をとるかだけだな。
まあそこも大丈夫だろう。二人とももう高校生だし。ていうか大丈夫であってくれ。
有金、頼むから余計なことをしてビンタのおかわりをもらうなよ。
そんなことを考えていると、
『ピリリリリリリリリリリ』
ジャージのポケットに突っ込んでいたスマホが鳴った。
画面を見ると、「清沢先生」の四文字が表示されている。
「はい。鵜久森です」
「お疲れ様。今日の打ち合わせをしたいからちょっと宿の方に来てくれ」
まさか今日のとりまとめもまた僕がやるのだろうか。
「分かりました。ロビーでいいんですか?」
「いや、入り口を出たところだ」
「了解です」
有金の様子を見守りたかったが、先生に呼び出された以上は行くしかないな。
「綾辻」
「なあに? ハルくん」
「清沢先生に打ち合わせで呼ばれたから行ってくる。不具合があったらスマホに連絡してくれ」
綾辻は僕の言葉に親指を立て、
「おっけー! いってらっしゃい♪」
と、元気良く送り出してくれた。ホントあなたは朝から元気いっぱいで素敵ね。
*
そんなこんなで先生の元に行き、打ち合わせすること数分間。
『ピリリリリリリリリリリリリ』
またしてもスマホからの着信音だ。今度の相手は綾辻だった。
電話ということは何か不具合だろうか。
「ハルくん! 大変! 一颯ちゃんが……」
綾辻の切羽詰まった声に、こちらも緊張感が高まる。
「どうした?」
しかも竜崎って。まさか有金のやつが余計なことを言ってまたビンタされたんじゃないだろうな。
「一颯ちゃんが有金くんにテキサスクローバーホールドをかけちゃって、有金くんが口から泡を……」
……。
何故だ。何故そうなる。
「……今どこ?」
「陸上部競技場の倉庫の前!」
「待ってろ。今行く」
僕は電話を切り、
「すいません先生。有金の命が危険なのでちょっと行ってきます」
二百メートルほど離れた陸上競技場へと全力で走った。
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