鵜久森春は間に合わない⑧
「綾辻。自分の家の住所ってわかる?」
一年の昇降口から校門に向かって歩いている途中、僕は綾辻に聞いた。
よく考えてみれば綾辻の家の住所がわからない限り送っていくことは出来ない。
普通の人間であれば自分の家の場所がわからないなんてことは有り得ないため、住所なんて聞く必要はない。でも僕の隣にいるお嬢さんはちょっぴり特殊な人間のため、住所がわからないと二人そろって彷徨うことになってしまう。
「えーっと、それが引っ越してきたばかりで覚えていなくて……エヘヘ」
綾辻は誤魔化すように笑った。
エヘヘじゃない。住所がわかなかったら辿り着かないだろうが。二人そろって下校に四時間かけるつもりか。
「それは困ったな。どうしようか……」
「ちょ、ちょびっとなら覚えてます!若松町の三丁目にあるマンションです」
「……若松町の三丁目?」
「はいっ!それは間違いないはずです」
……若松町三丁目って僕が住んでるところと同じなんだけど。まさかの同じ町内か。まあ朝からいろんな偶然が起きているからもう特に驚かないけど。
「なら僕も同じ方向だからとりあえずそっちに向かおうか。近づいてきたら思い出すかもしれないし」
「はいっ!そうしましょう」
綾辻は隣で歩きながら元気に返事をした。もし綾辻が家の場所を思い出さなかったら学校に電話して清沢先生にでも聞くとしよう。
「それにしても今日はすっごく楽しい一日でした」
綾辻は僕の隣をニコニコ嬉しそうにしながら歩いている。
あまりにも嬉しそうなので「綾辻は午前中はほぼ彷徨っていたから実質半日だけどな」とツッコむのはやめておいた。
「朝偶然ぶつかった鵜久森くんと偶然クラスも一緒で隣の席で。今こうして一緒に帰っているなんて何だか不思議です」
「それは確かにそうだな」
今までの僕の人生からしたら、女子と二人で帰ること自体が有り得ない。
「私、小学校の時からこの間までずっと女子校だったので、男の子と帰るなんて初めてなんです」
そう言う綾辻の頬は紅潮し、少し恥ずかしがっているようにも見えた。
……これってもしかして少しは僕のことを意識しているということか?いやあああああ無い!それは断じて無い!だって僕ガリ勉だし!帰宅部だし!寝癖の人だし!
「そうだったのか。僕はずっと共学だけど女子と二人で帰るのは初めてだな」
「エヘヘ。じゃあ初めて同士ですねっ!」
綾辻は僕の顔を見て楽しそうに微笑んだ。
「そ、そうだな」
「ふふーんっ♪下校の時間がこんなに楽しいのは初めてだなーっ!鵜久森くん、明日も一緒に帰りましょうねっ!」
「ああ。一緒に帰らないと綾辻は迷子になっちゃうしな」
照れ隠しもあり少し皮肉めいたことを言ってしまったが、綾辻は何故か嬉しそうに笑った。
「私、今人生で初めて方向音痴で良かったなって思いました」
「なんで?」
「だって鵜久森くんが毎日一緒に帰ってくれるじゃないですか」
…………。
だああああああ畜生おおおおお!なんでお前はそんなことをサラッと言えるんだよ!しかも「心の底から本気で言ってますよー」って言わんばかりの綺麗な目で!
そんなこと言われたらさすがの僕でも勘違いしちゃうだろうがああああ!
さっきから僕の中の心の妖精さんが「あれ、もしかしたらこれっていい雰囲気なんじゃね!?」って突っついてくるんだよおおお!誰かあああ!妖精をさんを追い出してくれ!僕の心にバルサンを焚いてくれえええええええ!
「だあああああああバルサンをおおおおおおお!!」
悶え苦しむ僕を見て首を傾げ、不思議そうな目で見つめる綾辻。
「鵜久森くん? どうしたんですか?」
「……いやすまん。大丈夫だ。ちょっと心の妖精さんをだな」
「心の妖精さん?」
「そ、そんなことより。そういえば綾辻のマンションの名前は?」
「私の家のですか?」
「そう。マンション名がわかればネットでも調べられるし、僕が知っているところかもしれない」
「うーんと、なんでしたっけ。エビルマウンテンじゃないし……」
それはドラクエⅤのラストダンジョンだろ。何てところに住んでるんだお前は。ゲマがいるのかお前んちは。
「うーん……。そんな感じのドラクエのラストダンジョンっぽい名前だったんですけど」
「……もしかしてグランドパレス?」
「あーっ!それです!すごいすごい鵜久森くん!なんでわかったんですか?」
そりゃわかる。だってそこは僕の住んでいるマンションだから。
「いや、ドラクエっぽい名前だって僕も前から思っていたから」
「前から?」
「……うん。だって僕の家もそこのマンションだから。小五の時から」
「鵜久森くんも?」
「うん」
「同じマンション?」
「うん」
「へー、そうなんですかあ。同じマンションかあ。………………ええええええええええええ!?」
綾辻が驚くのも無理はない。さすがに偶然が続きすぎている。
朝ぶつかった転校生と同じクラスで隣の席で同じマンションで……。一体何個重なれば気が済むんだ。まあ隣の席は清沢先生の陰謀だけど。
「……またすごい偶然だな」
「えええええええ!? 本当ですか? 私のことからかってません?」
「いや、本当だよ。これから行けばわかると思うけど」
「な、何号室ですか!?」
「四〇五」
「えええええええええええ!? わ、私、四〇六ですよ!」
「しかも隣かよ……」
綾辻は頭を抱えたまましゃがみこんでしまった。
「朝ぶつかった人とクラスも一緒で席も隣で今一緒に帰っててマンションも同じで隣の家…………」
「……そういうことになるな」
「うわぁぁー!どうしよう、どうしようーっ!やっぱり、やっぱり……!」
「ど、どうした綾辻。落ち着け!」
綾辻は起き上がり、一歩僕に近づいて何かを決心したかのように真っ直ぐ僕を見つめた。
「や、やっぱり私の思っていた通りでした!こんなのもう…………偶然じゃなくて」
「偶然じゃなくて……?」
真っ白な肌は頬のところだけ林檎のように赤く染まり、眉毛は八の字に曲がり唇はキュッと閉まっている。そして綾辻は意を決したように口を開いた。
「運命じゃないですか!」
「…………運命?」
「はいっ!」
「……え?」
確かに僕もそう思っていた節はあるが、普通それをこんなに堂々と言うか?どこまで真っ直ぐな人間なんだこいつは。
「じゃあ運命じゃなかったら何だって言うんですか一体!!」
僕の反応が不満だったようで綾辻はぷんすかぷんすか怒りだした。完全に逆ギレである。
「いや、それは僕にはわからないけど……」
「運命ですっ!運命なんです!いいですね!」
ついに勝手に決めつけに入った。しかもそれを僕にも強要している。ヤクザの手口だ。
「お、おう……」
「あ、あれ……? 鵜久森くんはそうは思わないですか?」
綾辻は僕が少し引き気味なことに気付き、今度は不安そうな表情を浮かべた。綾辻は本当に表情の変化が激しい。喜怒哀楽が服を着て歩いているかのようだ。
「思わないことはないけど……」
そう。思わないことは無い。むしろ思う。
綾辻みたいな性格が良くて可愛くてどこまでも純粋な女の子と知り合えた。
そしてそんな女の子と最高の展開になって、神様ありがとうとすら思っている。
でも。
でも、まだわからないじゃないか。綾辻はこの先、クラスでイケメンと言われている軽音部の林のことを好きになるかもしれないし、運動神経抜群で爽やかなサッカー部の一柳のことを好きになるかもしれない。
今日はたまたま僕とぶつかったから。
隣の席になったから。
そういう縁があったから一緒に帰っているだけで、明日からはオサラバかもしれない。
そう思うと、運命なんて言葉は自分の口から簡単には出せなかった。
これは運命なんて素敵なものじゃなくて、ただの偶然。
が、そんなウジウジした情けなくて汚い色の僕の心に、眩しいばかりの強烈な光が降り注いだ。
「私が運命って言ったら運命なんです!」
綾辻は両手を握ってそう叫んだ。あまりに身勝手でハチャメチャな言い分だった。
でも、その爽やかな声は僕の耳と心に突き刺さった。
「ふっ……ククッ……。何だよそれ」
「あ!鵜久森くん笑った! 何がおかしいんですか。笑わないでくださいっ!」
「クッ……いや、何でもない。グランドパレス、もうそこだから今日は帰ろう」
*
そんな感じで綾辻穂香は、たった一日で僕の日常をぶち壊していった。
きっと今までの日常に戻ろうとしても、僕はもう間に合わない。
明日からはどんな毎日になるんだろう。想像してみると、一番最初に綾辻の顔が思い浮かんだ。
大変な毎日になりそうだなと思いつつも、僕は少しワクワクしていた。