鵜久森優里は許さない②
「あ、お兄ちゃん♪ やっぱりここにいた! ゆーがお兄ちゃんを迎えに来たよー」
人懐っこい笑顔に、スポーツ少女らしい爽やかなショートヘアー。そして日本人離れした長い手足。間違いなく妹の優里だ。
優里はいつもの天真爛漫な様子で、僕に向かってスラッと長い腕を伸ばして可愛らしく手を振っている。
「……おい。僕は行き先を言わずに家を出てきたはずなんだけど」
手を振る妹に笑顔で応えたいのは山々だが、今はそういうわけにはいかない。優里が今この場所にいるのは異常事態だからだ。
僕は家族の誰にも行き先を告げずに会長の家に来た。ここに来ることを知っているのは江末だけ。
だからいくら仲の良い妹であっても、僕が今日ここに来ていることを知る術はない。
つまり。
優里さん。また何かをやらかしている説浮上。
優里には僕の部屋に盗聴機を仕掛けたという立派な前科がある。まああの時は結局見つからなかったけど本人が完全に設置を仄めかしていたし、限りなく黒に近いグレーだった。
今回も前回と同様に何かを仕掛けている可能性は十分にあり得る。
兄としても可愛い妹の非行を見逃すことは出来ないし、そろそろビシッと言わないと僕の身が持たない。前回は優里のせいで一睡も出来なかったし。
僕は疑惑の眼差しで優里を睨んだが、本人はそんなことは一切お構い無しの様子。結局僕の言葉には何も答えず、会長の方を向いて、
「麗お姉ちゃん、急に来てしまって本当にごめんなさい。ゆーはね、お兄ちゃんがおうちに帰らなきゃいけなくなっちゃったから迎えに来たの」
と頭を下げた。
麗お姉ちゃん。
優里は昔から会長のことをそう呼んでいる。昔から家族ぐるみの付き合いをしてきたこともあり、実の姉のような存在なのだろう。会長も優里のことをよく可愛がってくれていた。
……いやそれより待て。優里のやつ、僕が家に帰らなきゃいけない理由があるって言ったか? 一つも心当たりがないんだけれど。
今朝は父さんも母さんもいつも通りの様子だったから急に病気になるとも思えないし、何か事件だったら僕の携帯に連絡がきているはずだ。家事も当番じゃないし、家族で出掛ける予定もない。
「気にしないで? 全く構わないわ。それよりご自宅で何かあったの?」
会長は心配そうな表情で聞いた。
いや、僕は構うんだけど。今迎えに来られても困るんだけど。帰る理由も不明だし。
「大したことではないんだけど、あまり人に言えるような話でも無くて……」
優里は哀しそうに下を向いた。
……妙に演技がかっているな。
優里がここに来た手段も不明で怪しいし、来た理由もふわふわしていてよくわからない。
「そう……。心配だわ。ねえハルくん。すぐにでもお家に帰った方がいいわ」
妹に疑いの目を向け続ける僕とは対照的に、誠実で人格者の会長は、心底心配そうな様子で僕に訴えた。
「え、いやちょっと待ってください。まだ話が」
僕はさすがにここで帰るわけにはいかないと思った。優里が来たことで緊張感は解れてしまったが、この件は僕と会長にとってあまりに重大で、じゃあまたねとこのまま帰れるような話ではない。
ただ、僕が会長に返すべき言葉は、依然として見つかっていない。
「私との話はいつでもできるわ」
会長は僕に気を使うように笑顔を向けた。
「そんなこと言っても……」
待って欲しいと思ったが、力強い言葉は出てこなかった。
今のこの中途半端な気持ちで、僕が会長に伝えられる言葉なんて一つもないからだ。
情けない。会長の今日の決意に、僕は何一つ応えられない。
でも、どんなに自分を鼓舞しようと試みても、頭の中は古い冷蔵庫のような低い音が鳴り続けるだけで、意味のある言葉を繋げることさえできなかった。
「いいの。今日は誤解が解けただけでも、本当に、本当に嬉しい」
会長は柔らかい表情で噛み締めるように言った。
「会長……」
「ほらハルくん。こんなに可愛い優里ちゃんを一人で家に帰らせるつもり? 私、ハルくんの鞄を持ってくるわね」
真面目なトーンから一転して、会長は明るく言い残し、小走りで二階へと向かった。
一瞬。思考するのを放棄して、三年前の自分に戻って、妹がいることも構わずに叫びたい衝動に駆られた。
昔僕が会長に伝えたかった言葉を。
今日、会長が僕に伝えてくれたのと同じ言葉を。
でも。
僕はそれをしなかった。
徐々に離れていく会長の背中を、ただずっと眺めていた。




