綾辻穂香は確かめたい⑦
六時間目のテスト返却も終わり、放課後。僕は部室でお湯を沸かし、お茶の準備をしている。
いつもは綾辻がやってくれるのだが、今日の二、三時間目に綾辻にとって悲劇的なことが起きたため、今の綾辻にそんなことをする元気はない。いや、元気がないというよりも、さっきからずっと悲しみにくれていて、僕の言葉にも一切反応を示さない。
電気ケトルのスイッチがカチッと音を立て、オフになったので、僕はケトルから急須にお湯を注いだ。そしてお茶が出るまで、またしばらく待つ。その間も綾辻は机に突っ伏したままだ。
どうして綾辻がこのような状況に陥ってしまったのか。まずは今日の二時間目、数学Ⅰの授業の時のことだ。
一時間目の英語と同じように数学Ⅰの授業でもテスト返却が行われた。授業の冒頭、テストの返却を待つ綾辻は、英語での高得点と先程の罰ゲームの件からか上機嫌で、ニコニコと待ち遠しい様子だった。
続々と返却が続く中、出席番号が最後の綾辻はクラスで一番最後に名前が呼ばれた。
名前を呼ばれた綾辻は、ウキウキした様子で教壇のところまで行った。すると、いつもは厳しくて生徒に恐れられている数学の村上先生が、眉毛を八の字に曲げて大きな溜め息を一つ吐いた。
「……綾辻。この点数だと進級できないぞ」
その言葉に、ルンルン気分でテストを取りに行った綾辻は、急に慌てふためいた。おそらくそこまで悪い点数ではないと踏んでいたのだろう。
「え……わ、わたし? そんなはずは…………あ」
答案を見た瞬間に綾辻の表情はみるみる絶望的なものへと変わっていった。その様子を見た僕は、「あーあ。あいつ補習行きだな」と確信した。
悲劇はそれだけでは終わらなかった。次の三時間目、数学Aの授業でのことだ。例によって一番最後に名前を呼ばれた綾辻は、今度こそはと気持ちを切り替えた様子で教壇へと向かった。
教壇のところまで綾辻が行くと、いつも厳しくて生徒に恐れられている数学の村上先生が、眉毛を八の字に曲げて以下同文。
「……綾辻。もう一度言うが、この点数だと進級できないぞ」
「え……ま、また? さすがに二回続けてそんなはずは…………あ」
綾辻は答案を見つめたまま、ピシッと石化したかのように固まってしまった。その時僕は、二回続けてそんなに衝撃的な点数だったのかと、自分の席で目を覆った。
「綾辻? 大丈夫か」
村上先生は心配そうな様子で綾辻に声を掛けた。あの厳しくて有名な村上先生にここまで気を使わせるなんて余程のことだ。
「へ? あ、わたし……。だ、大丈夫ですよ。はははははー……」
綾辻は力なく笑うと、フラフラの足取りで、なんとか自分の席まで戻ってきた。点数が低すぎて足腰にきてしまったらしい。
「……お前大丈夫か? 何点だったんだよ」
僕が小さな声で声を掛けると、綾辻は何も答えずにひらりと二枚の答案を僕の机に置いた。
僕はその二枚の答案を捲り、恐る恐る点数を見た。
書かれていた数字は僕の予想を遥かに超えていた。先程の英語で九十六点をとった人間の答案とは思えない衝撃的な数字だった。……これは残念ながらアウトでだ。フォローする言葉も見つからない。
その後、綾辻は絶望にうちひしがれながらも、なんとかすべての授業を受けきった。だが授業中は心ここにあらずという感じで、国語も生物も地学も、ぼーっとした様子でテストを受け取っていた。
放課後も茫然自失で、よたよたした足取りでなんとか部室まで辿り着いた。そして机の上に鞄を置き、その上に覆い被さるように突っ伏したまま動かなくなり、現在に至るという感じだ。
きっと本人は転校してきた初回のテストでやらかしたことが余程ショックだったんだろう。僕が声をかけても首を縦に振るか横に振るかのどっちかで、中々起き上がってくれない。あの点数ではこうなってしまっても仕方がないか。あまりにも英語からの落差がなあ……。
ただずっとこうしているわけにもいかないので、僕は改めて綾辻に声を掛けた。
「綾辻。終わってしまったものは仕方がない。今回は補習をしっかり受けて、また次頑張れよ。僕も協力するから」
すると、綾辻は僕の言葉に反応するようにガバッと起き上がり、
「うわああああん! テストなんてこの世から無くなればいいんだよ!」
と、叫んだ。
良かった。意外と元気みたいだ。まあ元はと言えばテストで悪い点数を取ったのは自分が悪いんだし、悲しむ方がおかしいんだけど。
「だいたい何!? この学校のテストは! 難しすぎるよ!」
どうやら怒りの矛先は自分にではなく、外側に向いているらしい。
「……だから前から言ってたろ。難しいって」
「数Ⅰの平均点、三十八点だよ!? こんなに平均点の低いテストで四十点以下は補習だなんて厳しすぎるっ! せめて三十点以下にするべきだよ!」
「……まあ確かにそうかもしれないな。あの難易度で四十点はハードルが高いかもな」
「でしょ!? わたし、みんなを代表して先生に『おかしいです!』って言ってくるよ!」
怒りの収まらない様子の綾辻は、そのまま教室を飛び出さんばかりの勢いだ。
「いや、待て。正気か綾辻。それは止めておけ」
「どうして? ハルくん、止めないでよ!」
「行っても無駄だ」
「やってみなくちゃわかんないもん!」
「冷静になれ。お前はそもそも九点なんだからどっちにしろ補習だ」
綾辻穂香さん。数学Ⅰ九点。数学Aは六点。残念ながら天地がひっくり返っても補習です。御愁傷様でした。ちーん。
「がーん……。そうだった。わたし、二つをたしても十五点なんだった……」
綾辻は現実を突き付けられて肩を落とした。だからあれほどちゃんと勉強しておけって言ったのに。
「ていうかお前数学できなさすぎだろ……」
高一の二回目のテストということで、中学の復習も十点分くらい出ていた。それと、公式がわかっていれば簡単に解ける基礎問題が四十点分くらい。だから授業をしっかり聞いていれば数学が苦手でも半分は取れる配点になっている。
それを九点と六点て。オタンコナスかお前は。
「ふんっ! あんな細かい計算なんかできなくても将来困らないもん! 大体なに!? ハルくんはさっきっから一人だけ余裕そうな顔して」
怒りの矛先が突如僕へと変わった。清々しいまでの逆ギレだ。
「僕に怒るのは筋違いだと思うけど……」
僕がそう言いかけたところで部室のドアが開いた。視線をそちらにやると、金髪サイドテールの美少女が無表情のまま部室に入ってきた。
「あ! ふみちゃん!」
「……穂香、王子、お疲れ様」
江末は僕と綾辻の方を交互に見ると、そのままてくてくと進み、いつも座っている席に鞄を置いた。
「江末はテストどうだったんだ?」
僕が聞くと江末は無表情のまま、
「……ぼちぼち」
ぼちぼち……か。テスト前はどうせ赤点なんて言っていたし、ずっと将棋をしていたから綾辻と同じような状況でもおかしくないかと思っていたけど。実際のところ点数はどれくらいなんだろうか。
「ねえふみちゃん、ふみちゃんはわたしの味方だよね? 数学のテスト難しかったよね!?」
綾辻はすがるように江末に詰め寄った。やめろ見苦しい。仲間を作ってどうする。
「……穂香は数学が苦手?」
江末は迫る綾辻を無表情のまま見つめてそう聞いた。
「えっと……苦手というかその、あははは……」
綾辻は言葉を濁して苦笑いを浮かべた。全くこいつは。今更誤魔化したところで何になるんだ。
「苦手なんてもんじゃない。ⅠA合わせて十五点だ」
「ちょ、ハルくん!」
綾辻は僕に非難の目を向けたが、僕はそれに気が付かないふりをした。
「……穂香、ごめん。我は数学が得意」
江末は申し訳なさそうに数学の答案を取り出した。
江末ふみさん。数学Ⅰ七十二点。数学A八十点。計百五十二点で綾辻穂香さんのおよそ十倍。
「えぇー! テスト前は赤点かもって言ってたのに!?」
綾辻はあてが外れたようで、江末にまで不満そうな態度をぶつけた。
「……あれは我の軽口。授業はちゃんと聞いているからある程度の点数はとれる」
「ハルくぅん……。みんながわたしのことを裏切るよぅ……」
綾辻は泣きそうな顔で僕の方を見た。
残念ながら誰も裏切っていません。悪いのはあなたです。少し可哀想だけど、ここで甘やかしても綾辻のためにならないだろうから放っておこう。
「あ、有金くんは!? 将棋ばっかりやってたんだから絶対にできてないよ!」
綾辻はどうしても仲間が欲しいようだった。冷静さを失い、有金が特別奨学生であることすら忘れている。
「おす。お疲れー」
するとそこに、ちょうどいいタイミングで有金がやって来た。きっと今日も江末と将棋をやるために部室に来たのだろう。
「有金くん! いいところに! 数学のテストどうだった!?」
綾辻は勢いよく有金に詰め寄った。突然のことに有金は若干引き気味で、
「お、おう……。今回のはかなり難しかったよな」
「だよねだよね! ねえねえ、何点だった!? 見せて!」
「え、点数を教えるのかよ。あまり人に見せれるような点じゃねえんだけど」
「いいよ、大丈夫だよ! わたしも人に見せれる点数じゃないから」
何を自信満々に言ってるんだお前は。一体それのどこが大丈夫なんだよ。
それと綾辻。有金の見せれない点数とお前の見せれない点数はおそらく次元が違うぞ。早くそれに気づけ。
しかし僕の心の声も空しく、綾辻は強引に有金に答案用紙を出させた。
有金駆くん。数学Ⅰ九十四点。数学A九十八点。
まあそりゃそうだ。こいつは全国模試三位だからな。学校のテストなんて問題じゃないんだろう。
「ハルくん……わたしもうやだよぅ……」
綾辻は半べそ状態で僕にすがりついた。
「まあ、今回は仕方ないだろ。できなかった仲間を探してないで次のテストに向けて頑張れって」
「うう……。夏休みに補習、やだよぅ」
「そんなこと言っても、もう補習からは逃げられないぞ」
「でも……」
「でもじゃない。僕も一緒に補習に行くから」
「ふぇ? ハルくんも?」
半べその状態だった綾辻は、急に驚いた顔で僕の方を向いた。
「ああ。こればっかりは仕方がないからな」
綾辻が補習になった以上、僕が学校まで連れていくしかない。まあ面倒だけど綾辻のために一肌脱いでやろう。
「あぁー! わかった! 実はハルくんも四十点以下で補習なんでしょ!?」
しかし綾辻は、僕の気持ちなど一切知らずに元気になり、鬼の首を取ったかのように嬉しそうにそう言った。
綾辻。今日のお前を見ているとなんだか悲しくなってくるぞ……。
「……いや。僕は」
「ふふーん♪ 様子がおかしいと思ったんだよ! 英語のテストはすぐ見せてくれたのに数学は中々見せてくれないからさ。 ハルくんわたしに点数がバレるのがやなんでしょ」
「いや確かに今の状況だとかなり言いたくないけど……」
「ハルくん、観念しなさい! わたしに内緒にしようなんて無駄なんだからね!」
こいつは本当にどんどん自分の首を絞めていくなあ。まあいいか。出来なかった仲間作りを諦めさせるにはちょうどいいだろう。
「百点だよ」
「ふえ? 何が?」
綾辻は僕の言葉を聞いて、不思議そうに首を傾げた。
「いや何がって。数学のテスト」
「え、合計で?」
「……いや両方とも」
「両方とも百点満点?」
「うん。百点満点」
「なああああ!? 数学も!? ハルくんすごい! すごいけどズルーーいっ!」
いや、だからズルくないだろ。毎日コツコツ勉強していたんだから。
僕はぷんすか怒る綾辻をいなしつつ、そういえば会長はテストどうだったんだろうかと、別のことを考えていた。




