鵜久森春は間に合わない④
「鵜久森と知り合いなのか?」
「うぇ? えっと、知り合いではないんですけど……」
先生に突然そう聞かれ、女の子はしどろもどろになった。確かに知り合いではないし、何と答えたものか難しいのだろう。
「まあいい。授業の時間もあるので手短に自己紹介を」
僕と女の子の関係性をクラス中から追及されると思ったが、松本先生は早く授業を始めたいようで、淡々と業務的に転校生に自己紹介を促した。
「あ、はい……! えっと、遅れてしまってごめんなさい。家は早く出たんですけど道に迷ってしまって……。あ! 名前は綾辻穂香ですっ!よろしくお願いします」
転校生だった美少女は少しテンパりながら言い訳めいた自己紹介をした。転校初日から四時間目に登校したことに罪悪感があるらしい。
申し訳なさそうにペコリとお辞儀をすると、クラスから拍手が起こった。特に男子からは喜びの歓声が沸き起こっている。そりゃそうだ。クラスに可愛い女の子が転校してきたんだから喜ばない方がおかしい。
綾辻穂香は顔を上げ、エヘヘと照れ笑いを浮かべた。美少女らしい仕草なのに媚びている様子が一切なく、どこか爽やかさが漂っている。
それにしても道に迷って四時間目に登校ってどんだけ方向音痴なんだよ……。朝八時過ぎに僕と会って今は十二時前だから約四時間。プロ野球なら始球式からヒーローインタビューまでガッツリ観れる時間だぞ。
「では綾辻の座席たが……このクラスはどこか空いていたか?」
先生がキョロキョロとクラスの座席を見渡した。
このクラスは座席が三十席あるのに対して生徒が二十九人。つまり一ヶ所だけ空いている席がある。これがまあなんと上手い具合に僕の隣なのだ。
とはいえ自分からは中々言えない。あんなにクラスの男子からも歓迎されている女の子に「僕の隣、空いてますよ」って石田純一か。もしくはオードリー春日か。
そんな僕の様子を察してか、
「先生、ハルの隣が空いています!」
と祐輔が手を挙げてが元気よく言った。そして後ろの席の僕にだけ見えるように後ろ手で親指を立てている。
祐輔さんラブコメオタなのにマジかっけえ……。
「そうか。鵜久森は学級委員だしちょうどいいな。では綾辻はあそこの席に座りなさい」
そう言われた綾辻穂香は「え? は、はい!」と返事をしてギクシャクした足取りで僕の席の方へと向かってきた。
「う、えっと……。よろしくお願いします、鵜久森くん。その、今朝ぶりですね」
綾辻穂香は緊張の面持ちで、少し僕の方に体を寄せて囁くようにそう言った。
「……ああ。よろしく」
これから毎日この子が僕の隣の席になるのか……。考えただけで自然と口角が上がるのがわかった。
おい僕の顔、にやけるんじゃない。ガリ勉がにやけると変態にしか見えないのはこれまでの人生で十分味わってきたはずだ。
それなのにおい顔おおおおお!言うこと聞けええええ!
少しでも油断するとにやけてしまう顔を引き締めるために、僕は頬杖をつきながら右頬を全力でつねった。
そんな僕の顔との格闘はつゆ知らず、綾辻穂香は隣の席につき、せっせと授業の準備をしている。
「では授業を始める。この間の二次関数の続きで教科書の三十八ページから」
先生はいつも通りの淡々とした口調で授業に入った。
とりあえず今は授業に集中しなくては。ニヤニヤしていることを綾辻穂香に見られたら転校初日から気持ち悪いやつだと思われてしまう。せっかく隣の席になれたのだからそれだけは避けたい。
僕は心を落ち着かせるために目を閉じた。
明鏡止水。明鏡止水だ。僕の心は曇りの無い鏡、澄んだ水面。僕の回りには誰もいない。可愛くて性格も良さそうな女子高生なんて絶対にいない。落ち着いた気持ちで授業を……。
チョンチョン、と僕の肩を誰かがつついた。
邪魔をするな。僕は今精神統一をしているんだ。綾辻穂香に嫌われないためにはまずは心に平穏を。明鏡止水、明鏡止水。僕の隣には誰もいない。ましてや可愛くて性格の良さそうな女子高生なんて絶対に。
今度はクイッと僕の制服の袖が遠慮がちに引っ張られた。
「あの、鵜久森くん。ごめんなさい……。私まだ教科書が無くて」
うん。いたわ隣に。可愛くて性格も良さそうな女子高生。
「お、おっふ……?」
「一緒に見せてもらってもいい?」
「お、おっふ……」
僕は少し間隔の空いていた机をくっつけて真ん中に数学の教科書を広げて置いた。
何この理想的な展開。もしかしてこれラブコメ?
「ありがとね。鵜久森くん」
綾辻穂香の爽やかな笑顔が目に飛び込んでくる。
「うっ……いや、全然……」
…………。
……こんなことでドキドキして僕は小五か!!『赤い実はじけた』か!一生キックベースでもしてろ!
僕はその後も二、三時間目以上に授業に集中出来なかった。二度も松本先生に「ヘラヘラするな」と怒られ、その度にクラスからはクスクスと笑いが起こった。
そんな四時間目もやなんとか終わり、何とか憩いの昼休みに。
綾辻穂香はクラスの女子に「一緒にお昼食べよ」と誘われ嬉しそうに付いていった。きっと食堂にでも行ったのだろう。
僕は教室にいる気分にはとてもなれなかったので、祐輔を誘って購買でパンを買い屋上へ向かった。
それにしても疲れた。まだ昼休みなのに体力の消耗が尋常じゃない。人間は気になる相手がいるだけでこんなにも消耗するものなのか。これが毎日続くかと思うと体がもつ気がしない。
「やっぱり俺の予想通りヒロインはちゃんとやって来たな」
祐輔は得意気に言った。確かに今朝熱心に言っていた「ぶつかった相手は転校生」という予想は見事に当たったことになる。ラブコメマスターさんマジすげー。
「ヒロインねえ……」
僕の知っているラブコメのヒロインは登校中に迷子になって四時間もさまよったりはしないんだが。
「しかも可愛いし性格も良さそうな子じゃん」
「確かにな」
「今日中に連絡先くらいは聞けるよな?」
「それはちょっと……」
一緒に教科書を見ただけで口から心臓が飛び出しそうになるくらいドキドキしているのに、連絡先を聞いて断られでもしたら絶命する気がする。
「なんでだよ!隣の席なんだからそんくらい聞けるだろ」
「ストーカーと思って断られるかもしれないし」
「考えてること暗っ!」
「まあタイミングがあったら頑張ってみるよ」
「ハル、その台詞は何もしないで終わるやつの台詞だぞ」
簡単に言うな。気軽に連絡先を聞けるくらいなら朝の段階でもう聞いてるわ。
実際に聞いたら教えてくれるんだろうけど、僕みたいな引っ込み思案の奥手野郎は石橋を叩き潰すまで叩かないと気が済まないんだよなあ。
せっかく隣の席にはなれたけど、しばらくは控え目に行こう。気持ち悪いやつだと思われたくないし。
と、思っていたのだが、今日という一日はそんな引っ込み思案な僕の負け犬思考を許してくれなかった。
「生徒の呼び出しをします。一年C組、鵜久森春、綾辻穂香。至急職員室まで来なさい」
……ウソだろ。なんで僕と綾辻穂香が一緒に呼ばれるんだ。
「おいハル! 早速二人で呼ばれてるぞ。チャンスじゃないか!」
またしても立つフラグ。偶然で済ませていいものだろうか。
ここまで見えない何かにお膳立てされるのなら連絡先くらいは聞いても大丈夫かな、と僕は少しだけ思った。