鵜久森春は間に合わない①
僕と綾辻穂香が出会ったのは去年の七月の一週目。確か月曜日だったはずだ。
梅雨前線が高気圧に吹っ飛ばされ、連日三十度を超えるような猛暑が続いていたあの日。
綾辻穂香は突然僕の目の前に表れた。
言葉通り、本当に本当の突然。
まずはその日の朝の出来事から。
僕は珍しく母親に大声で起こされていた。僕は目覚めがいい方なので滅多に朝から大声で呼ばれることはないのだが、その日の朝は何度も何度も母に大声で呼ばれていた。
「ハルー! いつまで寝ているの! 遅刻するわよ!」
どこからか母の声が聞こえてくる。
母さん何を言っているんだよ。僕はもう起きてるし。現にシャワーも浴びたし着替え終わって……。
あれ?さっき制服に着替えたはずなのに、気が付いたらお坊さんの袈裟みたいなのを着ている。おかしいな。こんな服は持っていなかったはずだ。
「お母さんもう二回も起こしたからね!」
いや母さん、だから僕は起きているって。今もうリビングの机で朝食の玄米粥と塩を食べて……。
おかしい。朝食が質素すぎる。いつもはパンと目玉焼きなのに、何故今日は修行僧の朝食みたいになっているんだ。
いや、そんなことより僕は急いでいるんだった。早く数珠と木魚を持って朝のお勤めに行かないと檀家の人たちが……。
ガチャッ。
ドアが開く音がした。
「ハル! あんたいい加減にしなさい!」
その言葉に対して僕はガバッと布団から飛び起き、全力で返事をする。
「だから母さん、僕はもうとっくに起きて…………ねええええええええええ!!」
しまったああああああ!起きている夢を見ていたあああああ!
起きる直前にこんな夢をみるとはなんて質の悪い!しかも何で僕がお坊さんの設定なんだよ!一度も夢見たことねえわ!
ふと枕元を見ると、昨日寝る前に読んでいた歴史用語ハンドブックの鎌倉新仏教のページが開きっぱなしになっていた。
くそっ!この本のせいであんな夢を。
慌ててスマホで時間を確認すると現在午前八時十三分。家から学校までは歩くと十五分、走って七、八分くらいか……。まずい。このままでは完全に遅刻だ。
僕は着ていたTシャツとハーフパンツを脱ぎ捨て、急いでハンガーにかけてある制服一式に袖を通した。衣類の引き出しから靴下を取り出し三秒で履き、一応鏡で身だしなみをチェックする。
服装は大丈夫。問題ない。しかし頭部を見るとぴょこっと寝癖が立っていた。手櫛で直そうと試みるが、すぐにまたぴょこんと起き上がってしまう。
……まあこれくらい別にいいか。どうせ誰も僕の髪なんか見てないだろ。
そうなれば後は登校あるのみ。僕は転がり落ちるように階段を下り、リビングを通り過ぎてそのまま玄関へと駆け込んだ。
「あんた、朝ご飯は?」
「ごめん母さん! いらない! 行ってきます!」
鞄を片手に持ち、家を飛び出した。とにかく走るしかない。寝坊なんて小学生の時以来だ。
革靴で全力疾走するのは初めてのことで、ツルツル滑って上手く地面を蹴れない。そこに運動不足が重なって自分が思ってる以上に体は言うことを聞かなかった。
体がきつい。しかも今日は気温が高く、ものすごく暑い。本当に最悪な一日の始まりだ。
体からは徐々に汗が噴き出してきて、半袖のワイシャツの袖が腕に貼り付く。
今日鞄に制汗スプレをー入れてきてたっけ。こんなに汗だくではただでさえ寄ってこないクラスの女子により一層避けられてしまうな。
そんなことを考えつつ走っていると徐々に学校が近づいてきた。ここの曲がり角を曲がればあとは直線のみだ。時間は残り五分もあるし十分に間に合う。
少しスピードを緩めて呼吸を整えた。
良かった。走った甲斐があった。学級委員が遅刻をするわけにはいかない。
これで何とか面目が保たれ……。
「ぐわあっ!」
「きゃっ……!」
路地を曲がった瞬間に人とぶつかった。
激しくぶつかりはしなかったが、お互い相手が来ていることには気付いていなかったようで地面に尻餅をついた。
「ご、ごめん! 大丈夫?」
突然の出来事に動揺しながらも、ぶつかった相手に慌てて声をかける。
ぶつかった相手は女子高生だった。しかも着てるのはうちの高校の制服だ。
「いたたた……。こ、こちらこそごめんなさい。その……怪我はないですか?」
顔を上げた女の子と目が合った。
さらりとした綺麗な黒髪のショートカットに黒目がちな大きな瞳に小さな口。肌は雪のように白く、あどけなさの残る表情は、綺麗というよりも可愛いという言葉がしっくりくる。誰が見ても世間で言うところの美少女に分類されるだろう。
「僕は大丈夫だけど、立てる?」
僕は先に立ち上がり、尻餅をついていた美少女に手を差し出した。白くて小さい手が遠慮がちに僕の手を握る。
「あ、ありがとうございます……」
女の子は地面から立ち上がると、パタパタとスカートの埃を払った。そしてその様子を見つめていた僕の視線に気が付くと、エヘヘと恥ずかしそうにはにかんだ。
「ごめん。曲がり角だから人が来ているのに気が付かなくて。怪我はない?」
「え、えっと! 私は大丈夫ですっ。体だけは屈強なので!」
女の子はこぶしを握り締め、胸を張った。
屈強て。それは室伏広治とかのガチムチ系男子に使う言葉だ。少なくとも年頃の乙女に使う言葉ではない。
「そう。ならよかった」
僕は地面に放り出されていた女の子の鞄を拾い上げて手渡した。
まだ形がしっかりしている学校指定の鞄。一年生か……?いや、それにしても鞄が新品過ぎる。
「あっ……手のところ、血が出ちゃってます」
そう言われて自分の手を見ると右手を少し擦りむいていた。ぶつかって転けたときにアスファルトでやってしまったんだろう。とはいえちょっと血がにじんでいる程度で大したものではなかった。
「あーこれくらいなら大丈夫だよ。そのうち乾くだろうし」
「でもバイ菌が入ったら大変です。ちょっと失礼しますね」
女の子は一言断りを入れてから僕の右手を持ち、鞄から取り出したウェットティッシュで傷口を優しく拭いた。
自然と女の子との距離が近づく。綺麗な白い肌と大きな瞳が至近距離までやってきて僕は動揺した。
近い。
かわいい。
近わいい。
女子とここまで距離が近付くのは小学生の時以来だ。朝の寝坊といい、今日は小学校の時以来ずくめだな。
自然と自分の顔が赤くなっていくのがわかる。ふぁっ、しかも今まで嗅いだことのない良い香りがするし!
僕が勝手に恥ずかしがっている間も、女の子はせっせと傷口を拭いてくれていた。
「これでよしっと!」
女の子は拭き終えた傷口に鞄から取り出した絆創膏を貼り、一仕事終えたように汗を拭った。
「学校に着いたら保健室に行ってくださいね」
「……どうもありがとう」
爽やかな笑顔を向けられて気恥ずかしさが込み上げ、思わず目を逸らした。
やっぱりかわいい。それもちょっとじゃない。すっごいかわいい。天使かこの子は。
そんな僕を不思議そうな顔で見ていた女の子は、急に何かを思い出したかのように「あ!」と声を上げた。
「どうかした?」
「ごめんなさい!私、急いでいるんでした!ではこれで失礼します!」
女の子はそう言い残し、学校とは反対方向に走って消えて行った。時間に追われているらしく切羽詰まっている様子で、まるで競走馬のような激走だ。
僕は突然の出来事に呆気にとられ、どんどん小さくなる彼女の背中をただ見送ることしかできなかった。
「行ってしまった……」
何だったんだあの子は。
突然の美少女とのベタなラブコメのような出会い。
運命的な出会いに少しだけ胸を高鳴らせていた僕だったが、相手がいなくなってしまったのではどうしようもない。
名前だけでも聞いておけば良かったかな。
いや、僕みたいな年齢イコール彼女いない歴の男が聞いたところで何も始まりはしないか。
いずれにせよ、あの子は行ってしまった。もう間に合わない。
時計を見ると、チャイムが鳴るまであと一分に迫っていた。
まずい。このままでは学校の方も間に合わなくなる。
僕は勇気を出さなかった自分に少しだけ後悔しつつ、学校に向かって再び走り出した。