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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

作者: なつ
掲載日:2026/05/04

僕は鏡に恋をした。

1


もう死んでもいい。本気でそう思った。

自殺しようとしたが結局死にきれず、会社と自宅を往復する日々を送っていた。


「だからさ、君何度言ったらわかるの?僕より年上でしょ?しっかりしてよ」

上司に言われ、また資料を作り直す。何度も何度も同じような修正を繰り返す。

私には声を掛けてくれる人は一人も居ない。挨拶をしても無視される。

始発に近い時間に出発し、終電で帰る毎日。来る日も来る日もいつ使うのかわからない資料を作る。修正しても修正しても終わることがない。

ある日上司に呼び出され、上司のデスクの前に立つと、上司の口から、

「もうその資料いいや。あと、もうここに君の居場所はないから」


ただ資料を作り直す日々がただシュレッターの前で紙を細切れにする毎日に変わった。周りには誰も居ない。山積みの紙束とシュレッターの起動音しか聞こえない。もう終わりにしたかった。


心療内科に通い始め、徐々に薬の量が増えていった。ある日主治医に、

「もう休職するか退職しましょう。診断書も書きますから」

会社に退職願を出した。郵送でも効果があると教えてもらい、その日に郵送した。後日離職票や源泉徴収票が届いた。届いたのはその書類だけ。十年以上働いたが、誰からも連絡はなかった。


働きっぱなしで貯金はそこそこあったが、すぐに底をついた。今度こそ死のうと思ったが、自殺を図った時のことを思い出して、勇気が出なかった。

迷った挙句、生活保護を受給することにした。支援団体に連絡を取ると、呆気なく申請が通った。

生活保護を受給すると今までの家では家賃が高すぎるとのことで引っ越すことになった。想像通りのボロボロの木造アパート。考えるのも面倒だった僕は即決した。


父親はとうに亡くなり、母は去年病死した。数少ない友人も、今は結婚して子供もいる。迷惑をかけるわけにはいかない。天涯孤独だった。

でもそれでよかった。未練がないからいつ死んでもいい。遂に僕は決心し、押入れからネクタイを引っ張り出した。

玄関からすぐ右隣に洗面所があり、右手にトイレ、その対面に洗面台、奥に風呂がある。トイレのドアノブにネクタイを引っ掛ける。首に掛けるために正面を向き腰を下ろそうとした。

鏡に視線が移る。そこには何か影のようなものが映っていた。よく見ると髪の長い女性だった。

「わっ」と思わず悲鳴を上げた。ネクタイから首を外す。

最初は驚いたが、すぐに冷静になった。どうせ死ぬんだからどうでもいい。またネクタイを首に回す。

が、どうしても気になってしまう。ネクタイも上手く結べず、段々イライラしてきた。

鏡の女性に向かって言う。

「あのう、見ないでもらっていいですか?」

鏡の仲の女性は何も反応せず、ただどこか悲しげな表情でこちらを見ていた。

「幽霊か何か?」

これも無視。

急に気分が冷めた。明日死ねばいい。時間はたっぷりある。

居間兼寝室に戻り、処方された睡眠薬を飲む。しばらくすると僕は眠りについた。


翌日、尿意で目が覚めた。僕は洗面所にあるトイレに向かう。用を足し、洗面台の方を見る。

まだ居た。ただの空目かと思ったが、今日も変わらず女性が鏡の中にいた。

「いつまで居るんだよ!」

なんだかとても腹が立って、怒鳴るように言った。

「邪魔してんのかよ?もうどっか行ってくれよ!死ぬんだから!」

自分で言って少し笑ってしまった。どうせ死ぬなら気にしなければいいのに。そして自分が大声を出して感情を露わにしていることに驚いた。感情を出すなんていつぶりだろうか?母が死んだ時でも泣かなかったのに。


どうせやることもないし、僕は彼女に質問をしてみた。

「なんでここにいるんですか?」

相変わらず無視。でも人に話しかけるのもいつぶりかわからない僕は、少しだけ気が紛れているのに気がついた。

その日から僕は彼女に話しかけるのが日課になった。


毎日トイレに行く度、鏡の女性に向かって話し続けた。

僕がこれまでされた上司からの仕打ちや僕を無視する同僚たち。ほとんどが愚痴だった。

ある日の夜、

「僕はずっと、透明人間みたいだった。誰にも見てもらえなかった」

と心の内を吐露した。誰にも理解されず、相手にもされなかった自分。

「私も」

空耳かと思った。でも確かに女性の声が、鏡の中から聞こえた。


2


声が聞こえてからというもの、僕たちは毎日のように会話をするようになった。いつの間にか洗面所に居ることが日課になっていた。


「最後に全部部屋の中の情報だけで話を作っていたってわかるところが最高なんだよ」

「私も見たことあるわ」

「本当に?あれいいよね。あそこだけだけど」

「あのシーンだけで映画史上トップクラスの作品よね」

「そうなんだよ!君は話がわかるなあ」

僕は感心するように腕を組みながらうんうんと頷いた。

「君はなんて名前なの?僕はユウタっていうんだ。優しいに太いで優太」

「私はナツキ。夏に希望の希で夏希」

僕の初恋の人と同じ名前で同じ漢字だった。懐かしい名前だ。

僕がまだ小学生の頃、僕は彼女に恋をした。席替えで隣になり、僕のすることによく笑ってくれる明るくて優しい女の子だった。でもその子はクラスの一番目立っている男子と付き合ってしまった。その後いじめが始まり、僕は二度と彼女と話すことはなかった。


「素敵な名前だね」

僕はポツリと囁くような声で言った。少し恥ずかしかったからだ。

「ありがとう」

夏希は嬉しそうに微笑みながらそう応えた。


僕は毎日何度も洗面所に向かった。おかげで顔を洗ったり歯を磨くことができるようになった。風呂にも入れるようになった。恥ずかしいから風呂場で服を脱ぎ、風呂場で着替えた。

風呂場の鏡には夏希は映らなかった。部屋にある鏡や窓にも映らない。どうやら夏希は、洗面台の鏡にしか映らないらしい。


ある日の夜、いつも通り会話をしていた時のこと、

「私、本当に透明人間になっちゃった」

儚げな表情を浮かべながら、哀しい声で夏希が言った。

「君はこっちに来てはダメだよ」

ああ、夏希は本当に死んでいるんだと思った。霊的なものだと思っていたけどまさに幽霊だった。でも、それでも良かった。


歯を磨くときも、顔を洗う時も、洗面台に用がないときでも、鏡に映る夏希に会いに行った。

「ねえ、何か話してよ」

「うぃまふぁをみがいてるんらよ。ふぁなせるふぁけないらろ」

「顔にニキビができているわ。ちゃんと洗顔料を使わないと」

僕は歯磨きをやめ、口をゆすいだ。

「うるさいなあ。男はそんなもの使わないんだよ」


「夏希は幽霊らしくないんだよな。何か怖いことでもしてみたら?」

「うらめしや~」

「もういいや」


ある日の夜、僕は久しぶりに酒を呑んだ。夏希と酒を呑みながら話したくなったからだ。お互いに呑めたらよかったのにと思う。

酔いも回って、僕は彼女に自分のことを話した。小さい頃にいじめられたこと、受験に失敗したこと、会社でうまくいかなかったこと、自殺しようとしたけど死にきれなかったこと…。

夏希は黙って僕の話を聞いてくれた。頷いたり悲しそうな表情を浮かべたり。

一通り話し終わると、彼女が言った。

「もう大丈夫だよ」

心が震えるような感覚がする。もう止められなかった。僕は夏希に近づき、子どものように泣き散らした。

夏希は小さく微笑みながら、僕の頭を撫でるような仕草をした。

「私がいるから大丈夫」

僕は夜が明けるまで夏希の胸の中で泣き続けた。


いつの間にか朝早く起きて、カーテンを明ける習慣が出来ていることに気づいた。薄暗い部屋の中でただ横になりながら時が過ぎるのを待っていたのが、今は顔を洗い、歯を磨き、幽霊と会話している。


「そろそろ働いてみたら?」

夏希が言った。歯を磨く手を止め、水の流れる蛇口を閉める。その言葉を聞いて全身に汗が湧き出るのを感じる。

「無理だよ。仕事のこと考えるだけで身体中が熱くなるんだ」

「今すぐじゃなくていいの。求人だけでも見てみたら」

僕は渋々スマホを取り出し、求人サイトを見てみた。もう30半ばで再就職先など限られていると思っていた。でも求人は想像以上にあり、前の会社よりも好条件で口コミの良い職場が山程あった。

「意外とよかったでしょ?」

夏希が微笑みながら僕を見て言った。


3


スーツを着るのなんていつぶりだろうか。伸び切ったヒゲを剃る。夏希が言う。

「男前になったね」


試しに一社だけ、スマホでリモート面接をしてみたら、二次面接をすることになった。

面接は意外と緊張しなかった。前の会社での実績や自分の長所など淡々に説明し、面接官の話に愛想よく返事をする。自信がついたように感じる。僕はまた社会に出ることができるかもしれない。僕は嬉しかった。感情もなく家で寝て過ごす日々から、こうしてまた社会と繋がれることが。


帰宅してまっすぐ洗面台に向かう。夏希に面接での手応えや感想、少し失敗したこと、嬉しかったこと、全部話した。

「よかったでしょ?やってみて」

夏希は誇らしげに洗面所に座る僕を見下ろしながら言った。夏希のおかげだ。僕は夏希がいなければ今も布団の中だっただろう。

「スーツ似合ってるよ」

立ち上がって、鏡に映る自分を見た。ニヤついた気持ちの悪い男と、微笑みを浮かべる愛する人が映っていた。


数日後電話が鳴った。役所以外の電話はいつぶりだろうか。電話に出ると、僕は再就職することが決定した。


その日、僕は初めて夏希にプレゼントを送った。金もなく、碌なものではなかったけれど、できる限り奮発した。ケーキとともに夏希に見せる。

「嬉しい!でも受け取れないのが本当に残念」

嬉しいような悲しいような表情を浮かべる彼女。ネックレスを夏希の首にあてるが、コツンと鏡によって弾かれてしまう。

「大丈夫。ちゃんと受け取ったよ」

僕はネックレスを鏡の前に置き、祝杯のビールを飲みながら、夏希の顔を見つめていた。


入社も決まり、週末に出社することが決まった。

出社前夜緊張して眠れない僕を見かねたのか、夏希が言う。

「おめでとう優太。もう大丈夫だね」

夏希が優しく微笑む。

「ありがとう。仕事が始まっても、ずっと一緒だよ」

僕は鏡の夏希に向かってそっと口づけをした。

冷たいガラスの向こうに、ほんの少しだけ温かさを感じた。

夏希は頬を赤らめ、

「もう一度」

僕らは口づけを交わした。


入社初日、いつものように朝早く起床し、カーテンを開ける。ヒゲを剃りに洗面台に向かった。鏡を見るが、その中に夏希の姿はなかった。

洗面台の鏡に夏希が映らないことは、出会ってから一度もなかった。僕は何度も色んな角度から鏡を見た。しかし彼女は見つからなかった。家を出発しなければいけない時刻になり、とりあえず会社に向かった。


入社初日なのにどこか上の空になってしまった。社員が数人しかいない小さな会社。みんなが笑顔で迎えてくれたが、僕はどんな顔をしていたかはわからない。

その日は職場案内や仕事の説明など簡単な仕事であったが、ほとんど覚えることが出来なかった。

歓迎会の誘いがあったが、丁重にお断りし、そそくさと会社を去った。

電車の中で彼女に話す内容を考える。彼女の反応を想定し思わずニヤけてしまう。早く家に帰らなければ。


自宅に着くとまっさきに洗面台に向かった。鏡を見る。そこには全力疾走で顔が真っ赤になった男の顔しか映っていなかった。

鏡を隅々まで見渡す。何度も何度も。家中の鏡から光が反射する窓も隈無く探した。しかし彼女はどこにもいなかった。

外に飛び出し、ありとあらゆる鏡や反射するガラスを探して回った。でも彼女は居ない。

帰宅して、洗面所に腰をおろし、鏡を見つめる。

何時間経ったのだろうか。いつの間にか風呂場の窓から明るい日差しが差し込んでいる。鏡には目を真っ赤に腫らした醜い男の顔しか映っていなかった。

洗面所には自分の呼吸と、冷蔵庫の低いモーター音だけが響いていた。


4


僕は仕事を続けた。夏希が働いたほうが良いといったからだ。

職場の人は皆良い人で、上司も理解のある理想的な人物だった。


職場にも慣れ、仕事も順調だったある日。

いつもの朝礼の際、社長が、

「入って来ていいよ」

オフィスの扉が開く。中から女性が現れた。

「…です。よろしくお願いします」


僕は何度も彼女にアタックした。恋愛経験が乏しい僕は、上手く口説くことができず、彼女を困惑させてばかりだった。なんでもない日に時計をプレゼントしたり、誕生日にバラの花束を渡した。とにかく気に入られようとできる限りのことをしたつもりだった。

ある日、彼女に呼び出され、会社の廊下で話をすることになった。

「もういい加減にしてください。何が目的なんですか?」

彼女はすごい剣幕で怒鳴った。

「ごめん、君に嫌がらせをしているわけではないんだ」

僕は焦りながらも、こう続けた。

「私は…、恋愛をしたことがないんだ。だからどうしていいかわからなくて…。でも君を心から愛しているんだ。だから喜んでもらいたくて…」

彼女は驚いた表情を見せた。

「ごめん、もうこんなことはしないよ。困らせてしまって申し訳ない」

僕は彼女に嫌われることは本望ではない。彼女が嫌がっているのならもうよそう。僕はオフィスに戻り、仕事を続けた。


もう僕から彼女に何かすることはなくなったのだが、今度は彼女が話しかけてくれるようになった。

他愛もない会話から始まったが、徐々に話す頻度が多くなり、廊下や給湯室などで長時間話すことが増えていった。


「今度食事でもいきませんか?」

彼女から誘われると思っていなかったからとても驚いた。

その日の会社帰りに食事をすることになった。もう失敗したくなかったから仕事中に店をネットで探しまくった。あまり気取らない、でも雰囲気の良いレストランと居酒屋の間くらいのお店を選んだ。

その店は大正解だった。落ち着いた雰囲気だけど、どこか親しみのあるメニュー。ドリンクも豊富で、アルコールに弱い人でも楽しめる、そんな店だ。彼女は相当気に入ってくれたみたいだった。

僕は彼女になぜ僕を食事に誘ってくれたのか聞いてみた。

「私、少し嬉しかったんです。告白してくれた時。最初は気味が悪かったんですけど、理由を聞いたら少しほっとしたというか」


その日から食事の回数が徐々に増えていき、休みの日も会うようになった。買い物やレジャー施設に行って、帰りにバーで呑むことが定番になった。

ある日のデート帰り、僕は意を決して彼女に言った。

「今から家に来ないか?」


コンビニで酒とツマミを買い、僕の家に向かった。

胸の鼓動が早くなるのを感じる。彼女も酒の影響か顔を赤らめていた。

家に入り、居間に案内する。オンボロの家具しかない殺風景な部屋で申し訳なかったが、仕方がない。

二人で酒を酌み交わす。会話も弾み、良い雰囲気が流れているのを感じた。

ふとベランダの窓を見る。そこに映る彼女を見て僕は目頭が熱くなるのを感じる。やっと彼女と…。


彼女が立ち上がる。

「おトイレ借りますね」

「洗面所の方にあるよ」


彼女は洗面所に向かった。洗面所の横のトイレに入る。

トイレから出て来る音が聞こえる。蛇口をひねり、水が出てる音がする。

「いよいよだ」

僕は手を洗う彼女の後ろに立った。

鏡に彼女と僕が映る。彼女が鏡に映る僕に気が付きこちらを振り向く。

僕は彼女の頭を両手で包み込むように掴むと、彼女はそっと目を閉じた。


僕はその頭を抱えながら、洗面台の鏡に向かって打ち付けた。

「ぎぃゃっ」

小さな悲鳴とともに、鈍い音がこだまする。

何度も何度も繰り返した。

「ぎゃあああやめてええ」

やがて声が聞こえなくなった。

ヒビの入った鏡を見る。でも彼女はいない。

彼女を持ち上げる。

何度も鏡に彼女の頭部を打ち付けるが、ただ鏡が赤く染まるだけだった。


5


「被告人は7月頃より生活保護を受給後、ケースワーカーの指導により心療内科から精神科病院に移り定期的な通院と服薬を開始。翌年の春頃には症状が劇的に改善し、幻聴や幻視が完全に消失。就労可能な状態まで回復しました」

何の話だ?精神科?違う。夏希が働いたほうが言ったから働いたんだ。

「被害者である新入社員の叶さんは、被告人に対して恋愛感情を持っており自宅に赴いたと推測されます。しかし被告人は、過去の妄想の対象と被害者の容姿が似ていたことから……」

僕はなぜここにいるんだろう?叶って誰だ?

「鏡の中にもう一度戻そうとしたと証言しています」


僕は呆然と辺りを見回した。遠くの席に黒い服を着た女性が座っていた。彼女の胸元には、黒い額縁に縁取られた写真が抱えられている。

僕は目を疑った。写真の中で微笑む顔も、それを抱えるようにして泣き崩れている女性の顔も、間違いなく夏希だった。

「夏希……」

僕は歩いて近づこうとする。警備員が走ってきて僕を羽交い締めにする。揉み合いになり、警備員の顔が目の前に迫った。

その時だった。彼の顔にある小さな黒い鏡の中に、夏希がいた。

私はその潤んだ鏡に向かって、真っ直ぐに指を伸ばした。

「ぎゃあああ」

警備員の悲鳴が響き渡る。鏡はまた赤く染まった。

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