第6話 軽さの裏側を見た人
生徒会室は思っていたより狭かった。
ドアを開けた瞬間、紙とインクの匂いがした。印刷物の匂いだ。大量の書類を扱う場所特有の、乾いた匂い。それに混じって、ペットボトルのお茶の香りがかすかに漂っている。
長机が3つ、L字型に配置されている。パイプ椅子が6脚。壁際にスチールの棚が2つあって、ファイルが整然と並んでいる。ラベルが全部同じ書体で書かれている。丁寧な角ばった文字。たぶん七瀬先輩が書いたのだろう。窓は一つ。西向きで、放課後の日差しが斜めに入ってくる。埃が光の中を漂っている。壁に生徒会の年間スケジュールが貼ってある。5月の欄にはびっしりと予定が書き込まれていた。
七瀬先輩は渋々といった顔で俺を受け入れた。「試しに」と言った。試用期間。合格基準は不明。不合格なら即追放だろう。この人は容赦がなさそうだ。
「まず聞くけど、つぶやきポストの書き込みは見た?」
「見ました」
「どう思った」
「さあ。事実無根だと聞きました」
七瀬先輩が、ほんの一瞬だけ目を伏せた。伏せて、すぐに戻した。この人は自分の表情を制御するのが上手い。でも目を伏せる動きだけは、意識しても制御しきれないらしい。目を伏せる動きは反射に近いからだ。嘘をつくとき、人は一瞬だけ視線を外す。瞼の動きではなく、眼球の動き。その微動を俺の目は拾ってしまう。
見えたが、言わなかった。今ここでそれを指摘したら、ドアが閉まる。
七瀬先輩は椅子に座り直した。姿勢が変わった。さっきまでの警戒の姿勢から、こちらの話を聞く姿勢に。背筋はまっすぐなままだが、肩の角度が少しだけ開いた。受け入れたわけではない。ただ、試すことにしたのだろう。
「書き込みの内容を分析してほしいの。誰が書いたか見当がつかない。文体に特徴がないし、内容も推測だけなら書ける程度のもの」
「見せてもらえますか」
七瀬先輩がノートパソコンの画面を回してこちらに向けた。つぶやきポストの管理画面。投稿日時、投稿経路、本文。管理画面は一般生徒には見えない情報が表示されている。生徒会だけがアクセスできる。
画面を覗き込む。先輩との距離が近くなった。1メートルくらい。画面の光が二人の顔を照らしている。
投稿経路のところに「物理投書箱(校舎1階)」と表示されていた。アプリの匿名フォームではなく、紙で投函されたものだ。紙を回収して、生徒会がデジタル化してアプリに転記している。
「紙、ですか」
「ええ。物理投書箱に紙で入れられていたわ。手書きではなく、印刷。フォントは明朝体。紙はA4のコピー用紙。指紋は確認していないけど、そこまでやるのは現実的じゃない」
この人は対応が早い。投稿経路の特定、紙の種類の確認、印刷フォントの確認。声明を出す前にここまでやっている。完璧主義は、こういうところにも出る。
「文体を見せてください」
もう一度、書き込みを読んだ。画面の文字を目で追う。
「生徒会副会長の七瀬紗弥は、本当はしっかりなんかしてない。完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている」
二度目に読むと、気づくことがあった。一度目は内容に引っ張られた。二度目は文体が見える。
「先輩をよく知っている人が書いています」
「根拠は」
「『しっかりなんかしてない』。この表現は、先輩が普段しっかりしていることを前提にしています。知らない人なら『しっかりしてない』と書く。『なんか』が入るのは、普段のしっかりした姿を知っていて、それが演技だと分かっている人間の書き方です。否定の中に、本来の姿への認知がある」
七瀬先輩が、じっとこちらを見た。目の奥の光が変わった。警戒ではない。驚きに近い。この分析が予想外だったのだろう。
「あなた、どこまで見えてるの」
その声は、質問というより確認だった。「見えている」ことを前提にした問いかけ。俺が「普通の1年生」ではないと、この一言で断定した。
「見えてるだけです。分かっているわけじゃない。文体の癖は読めますが、誰が書いたかまでは特定できません」
「分析する能力があるのに、人の気持ちは分からないのね」
「分からないです。見えることと分かることは違うので」
先輩が少しだけ目を細めた。俺の返答を咀嚼している。「見えることと分かることは違う」。この言葉に、先輩は何かを感じたようだった。でもそれが何かは、俺には分からなかった。
先輩が手元にあった文庫本を持ち上げた。新潮文庫だった。カバーの色からして小説。栞が真ん中あたりに挟まっている。読みかけ。生徒会の業務の合間に読んでいるのだろう。
その文庫本の背で、俺の頭を軽く叩いた。
こつん。
「勝手に人を分析しないで」
痛くなかった。力がほとんど入っていない。紙の束が頭に触れた程度の衝撃。注意というより、距離を測るための動作に見えた。「これ以上踏み込むな」という線を引くための。でも、線を引くのに言葉ではなく文庫本を使うのが、この人らしいと思った。
少し笑ってしまった。叩かれて笑うのは変かもしれない。でもあの「こつん」には怒りがなかった。呆れと、ほんの少しの——何だろう。親しみとは違う。でも敵意の反対にあるもの。
七瀬先輩が、一瞬だけ目を見開いた。俺が笑ったことに驚いたらしい。叩かれて笑い返す人間が、この人の周りにはいないのだろう。副会長に叩かれたら、普通は萎縮する。
「笑うところじゃないんだけど」
「すみません。でも痛くなかったので」
「次は痛くするわよ」
「善処します」
先輩が口元を引き締めた。でも目の温度が、さっきよりわずかに上がっている。怒っているのではない。戸惑っている。こういう返し方をされることに慣れていないのだろう。「すみません」と言いながら全然すまなそうじゃない後輩。
* * *
分析の続きをやった。書き込みの内容を項目ごとに分解して、どこまでが外から推測できる情報で、どこからが内部の人間しか知りえない情報かを仕分けた。先輩が管理画面を操作し、俺が紙に書き出す。役割分担が自然にできていた。
先輩のタイピングは速かった。キーボードを見ないで打つ。画面だけを見ている。指の動きに迷いがない。ただ、左手の薬指だけがわずかに遅い。壇上でマイクを持っていたときと同じ指だ。この指だけが、この人の体の中で唯一、意志に従わないのかもしれない。
「『完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている』。これは外から見ただけでは断定できない内容ですね。先輩が演じていることを知っている。しかも限界が来ていることまで把握している。かなり近い距離にいる人間です」
「生徒会のメンバー?」
「かもしれませんが、文体が違う気がします。生徒会のメンバーなら『副会長』という表現を使うでしょう。この書き込みは『七瀬紗弥』とフルネームで書いている。役職ではなく個人名で呼ぶ距離感。もう少し考えさせてください」
先輩が頷いた。結論を急がない。この人は「分からない」を許容できる人だ。すぐに答えを出せと迫らない。待てる。待てる人は、強い。
時計を見ると17時を過ぎていた。窓の外の日差しが赤みを帯び始めている。生徒会室の壁がオレンジ色に染まっている。
「今日はここまでにしましょう。あなた、連絡先を教えて。調査の進捗を共有したいから」
スマホを取り出した。LINE交換。QRコードを見せ合う。七瀬先輩のアカウントは、プロフィール画像が花の写真だった。白い花。何の花か分からなかったが、清潔な印象の花だった。アカウント名は「紗弥」とだけ書いてある。
登録が完了した。友達一覧に「紗弥」の名前が並ぶ。画面の中の白い花が、生徒会室の蛍光灯の光を受けて淡く光っている。
「調査の連絡用よ。それ以外に使わないで」
「了解です」
「了解『しました』でしょう。年上に対して」
「了解しました」
「……最初からそう言いなさい」
先輩の声に、かすかな呆れが混じっていた。でも不快ではなさそうだった。
生徒会室を出た。廊下は暗くなりかけていた。窓の外はオレンジから紫に変わりつつある。下駄箱で靴を履き替えて、校門に向かう。
帰り道、空はもう暗くなりかけていた。西の端にだけオレンジ色の光が残っていて、校舎の屋上が黒い影になっている。正門を出て、坂道を下りながら、桐生に電話した。
「おう、どうした」
「ちょっと報告」
「何の」
「面倒ごとに首突っ込んだ」
「知ってた。お前の顔見りゃ分かる。昼休みからずっとソワソワしてたろ。で、何やったの」
「生徒会の手伝いを申し出た。つぶやきポストの件で」
「……お前さ、自分から面倒ごとに突っ込んでるぞ。巻き込まれたんじゃなくて」
「分かってる」
「分かってて行くのが一番ヤバいやつだよ」
桐生が笑った。呆れた笑い方だったが、止めようとはしなかった。止めても無駄だと分かっているのか、止める気がないのか。たぶん後者だ。こいつは俺が動くことを、むしろ歓迎している。
電話を切った。イヤホンを耳に入れて、音楽を流す。駅までの道を歩く。
LINEの画面を開いた。友達一覧に「紗弥」というアカウントが増えている。白い花のアイコン。調査の連絡用。それ以外に使わない。それだけの関係。
でもポケットの中のスマホが、さっきよりほんの少しだけ重く感じた。友達一覧に名前が一つ増えただけで、スマホの重さが変わるわけがない。変わるわけがないのに、変わった気がする。
気のせいだ。たぶん。




