第5話 余計なお世話の距離
つぶやきポストの書き込みから数日が経った。
噂は収まりつつあった。七瀬先輩の「事実無根」声明が効いたのだろう。教室で話題に出す人間は減り、廊下のざわつきも平常に戻っている。この学校の生徒たちは、七瀬先輩が「事実無根」と言ったのだから事実無根なのだ、と納得したようだった。あるいは、納得したかったのかもしれない。完璧な副会長が完璧じゃないかもしれない、という不安を抱え続けるより、「嘘でした」と片付けた方が楽だから。
クラスの空気はもう通常に戻っていた。前の席の女子は次の中間テストの話をしている。斜め前の男子はスマホでゲームをやっている。入学して2週間、教室の空気はすでに「日常」の色に落ち着いていた。つぶやきポストの一件は、この教室にとってはもう過去の話だ。
でも俺は、あの放送室から出てきたときの唇を覚えていた。きつく結ばれた唇。声と顔の温度差。あれを見てしまった以上、「過去の話」にはできなかった。飲み込んだはずのものが、何度沈めても浮かんでくる。朝、目が覚めた瞬間に思い出す。あの唇の力の入り方を。
授業中、窓から中庭が見える。3限目の古典の時間。先生の声が教室に響いている。枕草子の解説。「春はあけぼの」。聞いている。一応聞いている。でも右半分の視界が窓の外を捉えている。
七瀬先輩が中庭を通ることが時々あった。2年生の教室と生徒会室の間を移動しているのだろう。歩く姿勢は完璧だ。背筋が通っている。歩幅が一定。すれ違う生徒に会釈を返すときも、速度が変わらない。ファイルを抱えて歩く姿が、中庭の新緑の中に溶け込んでいる。
目で追ってしまう自分がいた。追うなと自分に言い聞かせているのに、中庭にあの姿が見えると、視線が引っ張られる。見えすぎる癖は、一度ターゲットを認識すると、そこに自動でフォーカスが合ってしまう。望遠鏡みたいに。焦点を外したくても、目が勝手にピントを合わせる。
「お前さ、また窓の外見てるな」
桐生に肘で脇腹を突かれた。痛い。こいつの肘は鋭角で、的確に肋骨の間を突いてくる。
「空が綺麗だった」
「嘘つけ。空じゃなくて七瀬先輩だろ」
「……なんでそうなるんだよ」
「お前が窓の外見るとき、空見てるときと人見てるときで目の動きが違うんだよ。空は視線が上に行く。人は横に流れる。今のは横だった」
こいつの観察力はたまに暴力的だ。俺が微表情を読むように、桐生は身体の動きを読む。方向性は違うが精度が近い。俺の方が分析的で、桐生の方が直感的。どちらが優れているかではなく、どちらが健全かと言えば、間違いなく桐生の方だ。
「七瀬先輩のこと気にしてんだろ」
「関係ない」
「お前がそう言うときの顔、もう覚えたぞ。口が一回閉じて、それから開くやつ。嘘つくときの癖」
そこまで見えてるのか。
桐生は肘をもう一度突いてきた。「まあいいけど」とは言わなかった。代わりに「気にしてるなら、何かすれば」と言った。
「何もしない。俺には関係ない」
「ふーん」
「ふーん」の温度が、いつもと違った。納得していない「ふーん」。でも追及もしない。それが桐生だ。
* * *
放課後。
気づいたら、3階の生徒会室の前に立っていた。
何をしているんだ、俺は。関係ないと自分に言ったばかりだ。何もしないと決めたばかりだ。中学の片瀬の件で、踏み込んだら人を傷つけると学んだはずだ。
でも足が勝手にここまで来た。階段を上がって、2階を通り過ぎて、3階の廊下を歩いて、生徒会室のドアの前に立っている。途中で引き返すタイミングは何度もあったのに、足が止まらなかった。
廊下は静かだった。放課後の3階は人が少ない。教室は1階と2階にあるから、3階に来る用事があるのは理科室と生徒会室くらいだ。窓から夕方の光が入っている。ほこりが光の中を漂っている。どこかの教室で椅子を引きずる音がして、それきり静かに戻った。自分の呼吸の音が聞こえるくらい、静かだった。
生徒会室のドアは半分開いていた。中から声が聞こえる。書類を整理する音。キーボードを叩く音。生徒会の日常の音だ。
ドアの前で3秒迷った。帰ろうと思った。踵を返しかけた。でも回らなかった。見えてしまったものを、見なかったことにできない。あの唇のことが、あの肩のことが、頭から消えない。
ノックした。
「失礼します。1年の瀬野です」
中にいたのは七瀬先輩だけだった。他の生徒会メンバーは不在らしい。長机の前に座って、ノートパソコンに向かっている。画面の光が顔に当たっていた。机の上にはファイルが3つ積まれていて、開きかけのペットボトルのお茶が端に置いてある。
七瀬先輩が顔を上げた。
近くで見るのは初めてだった。壇上でも校門でも、いつも距離があった。2メートルの距離で見る七瀬紗弥は、遠くから見たときの印象と少し違った。目が大きい。でも「大きい目」が特徴なのではなく、「まっすぐこちらを見る目」が特徴だった。視線をそらさない。こちらの意図を測ろうとしている目だ。額にかかった前髪が、パソコン画面を見ている間にずれたのだろう、少しだけ乱れていた。
「何か用?」
声は壇上で聞いたのと同じトーンだった。安定していて、無駄がない。でも近くで聞くと、ほんの少しだけ低い。放送用の声ではなく、日常の声。
「お手伝いできることがあれば、と思いまして」
何を言っているんだ、俺は。手伝い? 何の手伝いだ。つぶやきポストの件、と言えるわけがない。言ったら「あなたに関係ない」と返されて終わりだ。いや、そもそも俺は何をしに来たんだ。自分の行動の理由が、自分で分からなかった。
「手伝い? 1年生が?」
「はい。生徒会の業務で人手が足りないことがあればと思って」
七瀬先輩が、一瞬だけ間を置いた。俺を値踏みしている。何者だ、何が目的だ、と。初対面の1年生が放課後に生徒会室に来て「手伝いたい」と言う。怪しいに決まっている。
「必要ないわ。生徒会の業務は生徒会で対応しています」
予想通りの返答だった。完璧な距離の取り方。丁寧だが、隙がない。入り込む余地を与えない声のトーン。
「余計なお世話は結構」
ドアが閉まった。静かに、でも迷いなく。蝶番がきしむ音はしなかった。手入れが行き届いているのだろう。この人の管理する場所は、ドアの蝶番まで完璧だ。
廊下に一人で立っている。ドアの向こうから、キーボードを叩く音がまた聞こえ始めた。何事もなかったかのように。規則正しいタイピングの音が、閉じたドアの向こうから漏れてくる。
「余計なお世話」。
その言葉に、記憶が重なった。
片瀬。中学2年の夏。俺が「無理すんなよ」と声をかけた後、片瀬は俺に何と言ったか。「余計なことすんなよ」。低い声だった。怒りと、裏切られたような痛みが混じった声。あれは拒絶だった。お前に見られたくなかった、という拒絶。
七瀬先輩の「余計なお世話」は、同じ言葉だ。でも——声のトーンが違った。
片瀬の「余計なこと」は怒りだった。声が低くなって、目が据わっていた。お前は敵だ、と言っている声だった。
七瀬先輩の「余計なお世話」は、怒りじゃなかった。声は安定していたが、語尾がほんの少しだけ上がっていた。あれは——怯えだ。踏み込まないで、という防御。怒っているのではなく、怖がっている。誰かに内側を覗かれることが。
片瀬は「見るな」と言った。七瀬先輩は「見ないで」と言った。命令と懇願の差。同じ「余計」でも、込められたものが違う。
帰り道、電車に乗りながら考えた。イヤホンをして、音楽を流して、目を閉じて。
俺は間違えたのか。やっぱり行くべきじゃなかったのか。片瀬のときと同じだ。見えたものに触ろうとして、相手を傷つける。それを繰り返すのか。
でも、声が違った。
電車が駅に着いた。降りた。改札を出て、住宅街の道を歩いた。夕日が赤い。影が長い。自分の影を踏みながら歩いた。塀の上のツツジが、先週より花を開きかけている。赤紫の蕾が割れて、中から薄桃色の花弁が覗いている。季節は進んでいる。進んでいるのに、俺の中では同じ場所をぐるぐる回っている。
家に着いて、夕飯を食べて、風呂に入って、ベッドに入った。天井を見ながら考えた。
明日、もう一度行こう。
昨日拒絶されたばかりだ。懲りないにも程がある。でも行く。あの声は怒りじゃなかった。怖がっていた。怖がっている人を放っておくのと、怒っている人に踏み込むのは違う。
* * *
翌日。放課後。
もう一度、生徒会室の前に立っていた。
何をやっているんだ、と自分でも思った。でも足がここに来てしまった。見えてしまったものを、見なかったことにできない体質なのだ。呪いみたいなものだ。
ノックした。
「また来たの」
七瀬先輩の声が、ドアの向こうから聞こえた。今日も一人らしい。声のトーンは昨日と同じ。でも「また来たの」の「また」に、呆れと——ほんの少しの何かが混じっていた。怒りではない。困惑に近い。なぜまた来るのか理解できない、という困惑。
「余計かどうかは、解決してから判断してください」
自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出た。昨夜ベッドの中で考えていた言葉。考えていたのに、口にするまで自分で気づいていなかった。
沈黙が3秒あった。長い3秒だった。ドアの向こうで何かが動く音がした。椅子から立ち上がる音。足音。
ドアが開いた。七瀬先輩が立っていた。腕を組んでいる。眉がわずかに上がっている。怒りではなく、困惑に近い表情。こちらを見る目が、昨日より少しだけ広くなっていた。瞳孔が開いている。興味の反応だ。
「あなた、名前は」
「1年の瀬野奏汰です」
「瀬野さん。あなたに何ができるの」
何ができるのか。正直に言えば、大したことはできない。ただの1年生だ。生徒会の業務なんて知らない。つぶやきポストの書き込みを消す権限もない。犯人を捕まえる力もない。
でも一つだけ、できることがある。
「人の言葉と本心が一致しているか、見るのが少し得意です」
七瀬先輩が、目を細めた。値踏みの目だ。でも昨日の「必要ない」とは違う。ドアが開いている。昨日は閉まった。今日は開いている。
その差が、たぶん全てだった。




