第4話 つぶやきポストの爆弾
月曜日の朝、教室がざわついていた。
週末を挟んで月曜日。通学路の空気はまだ4月の冷たさを残していて、駅から学校までの坂道を上がるあいだ、吐く息が白くなりかけていた。
いつもと空気が違う。8時10分に教室に入った瞬間、それが分かった。ざわつきの質が違う。普段の朝のざわつきは拡散型だ。あちこちでバラバラの話題が飛び交って、教室全体がぼんやり温まっている。今朝のざわつきは収束型だった。全員の意識が一つの方向を向いている。声のトーンが揃っている。こういうざわつきは、共通の話題が一つある日の空気だ。
窓際の席に着く。桐生はまだ来ていなかった。
前の席の女子二人がスマホの画面を覗き合っている。片方が口に手を当てて「えー」と小さく声を上げた。斜め前の男子もスマホを見ている。後ろの方でも同じ光景。みんな同じものを見ている。同じ話題について話している。
俺はスマホを出さなかった。出さなくても、周囲の反応を見れば大体の話題の輪郭は掴める。前の席の女子の表情は「驚き」だが「怒り」ではない。誰かが傷つけられたのなら怒りが混じるはずだ。これは「意外な情報」への反応。斜め前の男子は眉を寄せている。困惑。何かを信じていいか判断しかねている顔。
全員に共通しているのは、「まさか」という感情だ。信じられないが、本当かもしれないと思っている。
「瀬野、見たか?」
桐生が来た。鞄を机に放り投げて、椅子に座る前にスマホを差し出してきた。画面の光が朝の教室で白く光っている。
つぶやきポストのアプリが開いていた。白い背景に黒い文字。匿名投稿の一覧がスクロールできるようになっていて、普段は「自販機の品揃えを増やしてほしい」とか「図書室の開館時間を延長してほしい」とか、そういう要望が並んでいる場所だ。その中の一つを桐生が指差した。
「生徒会副会長の七瀬紗弥は、本当はしっかりなんかしてない。完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている」
画面を見つめた。スマホの光が目に刺さる。文章は短い。句読点の打ち方が丁寧だ。感情的な書き込みではない。中傷でもない。悪意ある表現が一つもない。「しっかりなんかしてない」は攻撃ではなく、事実の報告のように読める。匿名の書き込みにしては、妙に落ち着いた文体だった。
「いつの書き込み?」
「昨日の夜。日曜の23時頃。今朝になって一気に広まった。うちのクラスだけじゃなくて、2年にも3年にも」
もう一度、読んだ。「完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている」。「演じる」という言葉が引っかかった。演じている、と断定している。この書き込みをした人間は、七瀬先輩が「演じている」ことを知っている。推測ではなく、確信を持って書いている。
「お前、どう思う?」
桐生が聞いてきた。その目が、いつもの軽い感じとは少し違っていた。桐生なりに、この書き込みを気にしているのだろう。
「さあ。俺には関係ない」
「お前がそう言うとき、関係大ありだよな」
返す言葉がなかった。桐生はスマホをポケットにしまって、「まあいいけど」と言った。いつもの「まあいいけど」。追及しない。でも忘れない。
クラスの反応は半信半疑だった。「あの副会長が限界?」「信じられないけど」「でも匿名って本当のこと書くことあるよね」「やめなよ、七瀬先輩怖いんだから」。声のトーンに悪意はなかった。面白がっているというより、困惑している。七瀬先輩の「完璧」はこの学校では前提になっているらしい。その前提を揺さぶる書き込みだから、みんな処理しきれないでいる。
1限目の授業中、集中できなかった。
数学の先生が二次関数のグラフの説明をしている。チョークが黒板の上を走る音が、妙に遠い。ノートを広げているが、ペンが動かない。シャーペンの先端が紙に触れたまま、点を打つだけで線にならなかった。
書き込みの内容が頭から離れない。「完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている」。オリエンテーションで見た薬指の震え。校門の前で一瞬だけ落ちた肩。壇上と廊下で変わる肩の高さ。俺が自分の目で見たものは、あの書き込みの内容と一致している。
書き込んだ人間は、俺と同じものを見たのだろうか。壇上の薬指の震えに気づいたのだろうか。いや、違う。あれに気づける距離にいた人間はいない。この書き込みは、もっと近い場所にいる人間が書いている。七瀬先輩の「演技」を、日常的に目にしている人間。
どちらにしても、俺には関係ない。そう思おうとした。窓の外ではグラウンドで体育の授業が行われていて、ホイッスルの音が等間隔に聞こえている。日常の音だ。でも思おうとしたのに、関係ないと思えなかった。理由が自分でもよく分からなかった。見えてしまったものと、他人が書いた文章が重なったとき、飲み込んだはずのものが胃の底から浮かんでくる。
* * *
昼休み、校内放送が入った。
購買で買ったパンの袋を開けたところだった。桐生はいつものメロンパンを半分ほど食べ終えていて、口の端に砂糖がついている。教室のあちこちで弁当箱が開いていて、おかずの匂いが混ざっている。誰かが笑い、誰かがスマホをいじり、誰かが椅子を引きずる音を立てている。ありふれた昼休みの光景だ。
教室のスピーカーから、聞き覚えのある声が流れた。
「全校生徒のみなさんにお知らせします」
七瀬紗弥の声だ。
教室が一瞬で静まった。さっきまで雑談していた生徒たちが、全員スピーカーの方を向いている。パンを食べていた手が止まっている。スマホを見ていた視線が上がっている。この人の声は、それだけで空間を締める力がある。
「昨夜、つぶやきポストに生徒会副会長に関する書き込みがありましたが、内容は事実無根です。生徒会として対応中ですので、噂の拡散はお控えください。以上です」
声は安定していた。オリエンテーションのときと同じトーンだ。語尾がぶれない。言葉に無駄がない。「事実無根」という言葉を、ためらいなく発音していた。完璧な声明だった。30秒足らず。短いが、必要なことだけを正確に伝えている。
教室の空気が変わった。「やっぱり嘘だったのか」「七瀬先輩がそう言うなら」「対応早いなあ」。声のトーンに安堵が混じっている。前提が戻ったことへの安堵だ。七瀬先輩は完璧。それでいい。そうでなきゃ困る。みんなそう思いたがっている。
桐生が「対応早いな。日曜の夜の書き込みに月曜の昼で公式声明か」と感心していた。確かに早い。さすがと言うべきだろう。
でも俺は知っている。あの書き込みの一部は、俺が自分の目で見たものと一致している。
「完璧な自分を演じるのに、もう限界が来ている」——限界かどうかは分からない。でも「演じている」のは本当だ。肩の高さを切り替えている。壇上では薬指が震えている。それは俺が実際に見た。
事実無根。
全部が嘘なら「事実無根」と言い切れる。でも一部が本当だったら、「事実無根」は嘘になる。嘘をつくのにも体力がいる。まして全校生徒に向けて嘘をつくなら、なおさらだ。七瀬先輩は今、全校生徒の前で嘘をついた。自分を守るために。鎧を着直すために。
* * *
昼休みの終わり際、水飲み場に行った。
廊下は昼休みの残り時間を惜しむ生徒たちで賑わっていた。窓から入る日差しが廊下の床を明るく照らしている。水道の蛇口をひねる。冷たい水が手のひらに当たる。4月の水道水は、まだ冬の温度を引きずっている。指先が冷えた。顔を洗うかどうか迷って、やめた。頭を冷やしたかったが、制服を濡らすわけにはいかない。
廊下の奥から、ドアの開く音がした。放送室のドアだ。
七瀬先輩が出てきた。
放送室から出てきた七瀬先輩は、一人だった。他の生徒会メンバーはいない。たった一人で声明を出して、たった一人で放送室を出てきた。
放送中の声は完璧だった。安定していた。揺るぎなかった。
でも今、放送室から出てきた七瀬先輩の唇が、いつもよりきつく結ばれていた。下唇を噛むほどではない。ただ通常よりわずかに力が入っている。放送中は「安定した声」を出すために口周りの筋肉を制御していたのだろう。その制御を解いた直後、残った緊張が唇に表れている。
声と唇の温度差。放送室の中と外の差。人に聞かせる声と、一人で歩く顔の差。
七瀬先輩は俺の存在に気づかずに歩いていった。廊下にいた他の生徒たちも、先輩の唇の変化には気づいていないだろう。あの程度の差に気づけるのは、この廊下ではたぶん俺だけだ。
蛇口を閉めた。手を拭いた。教室に戻った。
また見てしまった。見たくなかったのに。関係ないのに。
席に着いた。桐生がカレーパンの袋を丸めてゴミ箱に投げている。放物線を描いて、入った。「ナイッシュー」と自分で言っている。さっきの放送のことを気にしている様子はない。いや、気にしていないわけではないだろう。ただ、気にしていることを表に出さないのが、こいつ流の気の遣い方だ。
「お前、昼飯まだだろ。早く食えよ」
「ああ、うん」
パンの袋を開けた。カレーパンを噛んだ。いつもの味のはずだが、今日はあまりしなかった。口の中で噛んで、飲み込む。飲み込むのは得意だ。食べ物も、見えたものも。
あの書き込みの犯人は誰なのか。七瀬先輩の「事実無根」は本当なのか。本当じゃないとしたら、あの人はどれだけの嘘を日常的についているのか。
考えても仕方がなかった。俺はただの1年生だ。あの人は生徒会副会長だ。接点なんかない。見えたものを飲み込んで、黙っていればいい。
大丈夫じゃないことだけは、見えた。放送室から出てきた唇の結び方。壇上で震えていた薬指。校門の前で一瞬だけ落ちた肩。全部が同じ方向を指している。この人は毎日、自分を持ち上げ続けている。そしてそれに、誰も気づいていない。
でもそれを口にする資格は、俺にはない。片瀬のときに学んだはずだ。見えたものを口にしたら、壊れる。相手も、関係も。




