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見えすぎる後輩は泣けない先輩の嘘を見逃さない  作者: Studio SASAME
第1章「見えすぎる後輩は泣けない先輩の嘘を見逃さない」

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第3話 マイクを持つ手の震え

入学して一週間が経った。


 4月の第2週に入ると、桜はほとんど散っていた。校門の両脇に植えられた桜並木は、もう葉桜に変わっている。朝の通学路で花びらを踏むことがなくなった代わりに、新緑の匂いが濃くなった。


 高校生活のリズムが少しずつできてきた。朝は8時10分に教室に入る。桐生(きりゅう)が先に来ていたり、俺の方が先だったり。昼休みは二人で購買のパンを食べる。桐生(きりゅう)はメロンパンしか買わない。「飽きないの」「飽きない。完成された食べ物だから」。その理屈はいまだによく分からない。


 クラスの顔と名前は大体覚えた。覚えたくなくても覚えてしまう。顔を見ればその日の体調が分かる。声を聞けば機嫌が分かる。席替えもまだなのに、全員分のデータが頼んでもいないのに蓄積されている。


 木曜日の3限目。体育館で新入生向けの生徒会オリエンテーションがあった。


 学年全体が体育館に集められた。折りたたみ椅子が並べられていて、1年生が前方、2年と3年が後方に座っている。天井が高い。声が反響する。体育館特有の埃っぽい匂いと、床のワックスの匂いが混ざっている。壇上にはスクリーンが降ろされていて、「令和8年度 生徒会オリエンテーション」とプロジェクターで映されていた。青と白を基調としたデザイン。丁寧な作りだった。


 隣に座った桐生(きりゅう)が「生徒会って何やるんだ?」と聞いてきた。「知らないよ。今から説明されるんだろ」「それもそうだ」。こいつは結論を待てるタイプだ。自分の知らないことを、知らないまま置いておける。俺にはできない真似だ。分からないものがあると、勝手に解析が始まる。


 壇上にマイクスタンドが2本立っている。生徒会の腕章をつけた上級生が5人ほど、壇上の端で待機していた。


 最初に壇上に立ったのは、背の高い女子だった。黒髪のハーフアップ。眼鏡をかけている。姿勢が良く、声が通る。体育館の端まで響く声量だった。


「生徒会長の朝霞遥(あさかはるか)です」


 端的な挨拶だった。長くない。一言ごとに間を取る話し方で、間の取り方に無駄がない。背が高い。170近くありそうだ。立ち姿に余裕がある。壇上に立つことに緊張していない——というより、緊張を気にしていない人間の立ち方だ。肩の力が抜けていて、声が自然に通っている。生徒会の活動方針を簡潔に述べて、2分足らずで終わった。


 拍手。朝霞(あさか)先輩がマイクを次の人に譲る。


 壇上の前に出たのは、あの人だった。


 黒髪のセミロング、左側だけ耳にかけている。制服に皺がない。


 七瀬紗弥(ななせさや)。校門の前ですれ違った日から一週間。俺はあの人の名前を桐生(きりゅう)から聞いたまま、一度も直接見ようとしなかった。廊下で姿を見かけることはあった。でも目で追わないようにしていた。追ったら、また何か見えてしまうから。


 壇上に立つと、存在感が違った。朝霞(あさか)先輩が「自然体の威圧感」だとすれば、七瀬(ななせ)先輩は「磨き上げた精密さ」だ。同じ壇上に立っても、空気の締め方が違う。


「生徒会副会長の七瀬紗弥(ななせさや)です。活動内容について説明します」


 声が安定していた。会長の朝霞(あさか)先輩が「方針」を語ったのに対して、七瀬(ななせ)先輩は「実務」を語り始めた。生徒会の年間スケジュール、委員会との連携、予算の仕組み、行事の運営体制。複雑な内容を順序立てて、分かりやすく説明していく。声のトーンが一定で、語尾がぶれない。言葉に無駄がない。句点を打つように、一文一文を区切っている。


 周りの反応が変わった。会長の挨拶のときは適当に聞いていた1年生たちが、七瀬(ななせ)先輩の説明になった途端、少しだけ背筋を伸ばしている。前の列の男子がスマホをいじる手を止めた。隣の女子が友達と話すのをやめた。壇上の声が、体育館の空気を締めている。


「すげえな」


 桐生(きりゅう)が小声で言った。俺も、素直にそう思った。話し方が上手いとか、内容が分かりやすいとか、そういう次元の話ではなかった。この人は壇上に立つことに慣れている。慣れているから安定しているのではなく、安定させるために全神経を使っている——と、俺には見えてしまった。


 マイクを持つ左手。


 薬指が、わずかに震えていた。


 声は完璧に制御されている。表情も崩れていない。視線の配り方も的確で、体育館の左右にまんべんなく目を向けている。隙がない。完璧な壇上の姿だ。


 でも薬指だけが、制御の外にあった。たった一本の指が、この完璧な壇上の姿を裏切っている。


 親指、人差し指、中指でマイクを握り、小指は添えている。薬指だけが、わずかに浮いている。その浮いた薬指が、不規則に動いていた。緊張だ。声にも表情にも出さず、体の末端だけが正直に揺れている。こういう震えは意識では止められない。脳が「大丈夫」と命令しても、指先まで命令が届かない。


 普通なら見えない。壇上から客席までの距離がある。照明も当たっている。あの微動に気づける人間は、この体育館にはいない。


 いないはずだった。


 見たくなかった。知りたくなかった。壇上で完璧に話している人の、たった一本の指の震えなんか。でも見えてしまった。いつもと同じだ。見たくないものほど、目が勝手にフォーカスを合わせる。鮮明に、くっきりと。まるで罰のように。


 七瀬(ななせ)先輩の説明が終わった。5分程度。内容は的確で過不足がなかった。拍手の量が、会長の挨拶のときより明らかに多い。


「さすが七瀬(ななせ)先輩」


 後方から上級生の声が聞こえた。当然のように言っている。この学校では、この人が完璧なのは当たり前のことらしい。「さすが」を向けられるのが、日常なのだろう。


「完璧だったな」


 桐生(きりゅう)が言った。


「そうだな」


「……お前がそうだなで済ませるときは、そう思ってないときだろ」


 こいつの直感は本当に厄介だ。


「思ってるよ。完璧だった」


「嘘くせぇ」


「嘘じゃない。完璧だったのは本当だ」


 嘘じゃない。完璧だった。声も、内容も、態度も。完璧だった。完璧だったからこそ、あの薬指が残る。完璧を維持するのにどれだけの力を使っているか、たった一本の指が語っていた。あの震えは、この人がどれだけの負荷をかけて「完璧な自分」を壇上に立たせているかの、唯一のほころびだった。


  * * *


 オリエンテーションが終わって、体育館を出る。折りたたみ椅子がガタガタと音を立てて片付けられている。廊下に生徒が溢れた。体育館の扉から一気に流れ出す人の波。1年生が「すごかったね」「副会長の人、かっこよかった」「あの説明分かりやすかったよね」と話している。


 人の流れに乗って歩いていると、前方に七瀬(ななせ)先輩の後ろ姿が見えた。壇上の生徒会メンバーが機材の片付けのために体育館に戻っていく中、七瀬(ななせ)先輩だけが別の方向に歩いていた。校舎に戻る廊下。他の生徒会メンバーとは離れて、一人で。


 校舎と体育館をつなぐ渡り廊下。コンクリートの壁と大きな窓が交互に並んでいる。窓からの光が横から差している。午前の日差しが床に長い影を作っていた。渡り廊下の天井は低くて、足音が響きやすい。七瀬(ななせ)先輩のローファーのかかとが、コンクリートの床を叩く音が等間隔に聞こえた。一定のリズム。乱れない。


 人の流れが途切れた一瞬、七瀬(ななせ)先輩の肩が落ちた。


 壇上にいたときと、今とで、肩の高さが違う。壇上では背筋を張って肩を持ち上げていた。それが一人になった廊下では、自然な位置まで戻っている。校門の前で見たあの動きと同じだ。人目があるときだけ持ち上げて、人目がないときに降ろす。


 降ろした肩は、持ち上げている肩より、ずっと自然に見えた。こっちが本当の高さなのだろう。本当の姿の方が、人目を避けた場所でしか出せない。それがどれだけ息苦しいことか、俺には少しだけ分かる。俺も、「見えすぎる自分」を人前では隠しているから。


 見なかったことにしたい。でもできない。見えてしまったものは消えない。目が勝手に拾って、脳が意味をつけてしまう。


 この人は、壇上の完璧さを維持するために、どれだけの力を使っているのだろう。毎日、毎時間、人の前に立つたびに肩を上げて、一人になるたびに降ろしている。その繰り返しに、どれだけの体力が必要なのか。


 俺は知らない。知る必要もない。知りたくもない。


 でも見えてしまった以上、知らないふりはできない。できないけど、黙ることはできる。黙って、飲み込んで、なかったことにすることは。


 桐生(きりゅう)が後ろから追いついてきた。肩をぶつけるようにして横に並ぶ。こいつのパーソナルスペースは極端に狭い。人との距離が近くても気にしないタイプ。俺とは正反対だ。


「なあ、次の授業の教室どこだっけ」


「3階の物理室」


「サンキュ。物理嫌いなんだよなあ」


「入学してまだ一週間だろ。嫌いになるの早くないか」


「数式見るだけで眠くなる体質なの」


 日常の会話に引き戻される。渡り廊下を抜けて校舎に入る。階段を上がる。足元でスリッパの音が鳴る。窓から差す光が階段の踊り場を明るく照らしている。桐生(きりゅう)が部活のことを話している。明日の練習メニューがきついとか、先輩が変な人だとか。聞いている。返事を返している。


 でも頭の隅に、薬指の震えが残っていた。


 あの震えを、この学校で俺以外の誰かは見ただろうか。壇上から客席までの距離で、あの微動に気づいた人間が他にいただろうか。


 たぶん、いない。


 俺だけが見てしまった。知ってしまった。この人の完璧さの裏にある、たった一本の指の震えを。


 だから何だと言われれば、何でもない。俺はただの1年生で、あの人は生徒会副会長で、接点なんかないし、作る気もない。見えたものを飲み込んで、黙っていればいい。いつも通りだ。


 いつも通りのはずだ。


 教室に戻る。物理の教科書を出す。ノートを開く。シャーペンを握る。芯を出す。カチカチという小さな音。先生が入ってきて、授業が始まる。黒板にチョークが走る音。先生の声。ノートを取るクラスメイトたちのペンの音。普通の教室の音だ。


 その普通の音の中に、さっきの体育館の残響がまだ混じっている気がした。拍手の音。「さすが七瀬(ななせ)先輩」という声。そして誰にも聞こえなかった音——薬指がマイクの表面を擦る、かすかな音。聞こえたわけがない。あの距離で、あの大きさの音が届くはずがない。でも見えてしまったものが、音を捏造する。目が拾った情報を、脳が勝手に補完して、実際には聞こえなかった音まで記憶に焼きつける。


 普通の高校生活だ。見えすぎる以外は。

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