第2話 軽い後輩と鋭い隣人
2日目にして、桐生蓮という人間の輪郭が少しだけ掴めてきた。
朝の教室に入ると、桐生はもう席にいた。机に突っ伏して寝ている。制服の背中に寝ジワがついていて、鞄は椅子の脚に引っかけたまま床に半分落ちている。起きたのは担任が入ってくる30秒前。「おはよう」と言ったら「おう」とだけ返して、目の端に寝起きの水分が光っていた。緊張感がない。2日目でこれだ。
「お前、人のこと見すぎだよ」
昼休み。購買で買ったパンを二人で食べているとき、桐生がそう言った。教室の窓際。窓が半分開いていて、4月の風がカーテンを揺らしている。まだ冷たい。校庭からサッカー部の声が聞こえる。誰かが「パス」と叫んでいる。
「見てないよ。目に入るだけ」
「俺がペンの持ち方変えたの、1限目の最初で3秒で気づいてたじゃん」
桐生は昨日まで親指を人差し指の上に被せる持ち方をしていた。今日は親指が横に来ている。矯正中だろう。その変化に、確かに俺は気づいた。指摘はしなかった。指摘したのは向こうだ。
「ペンの持ち方は大事だから」
「論点ずらすなよ」
桐生がカレーパンの包み紙で俺の腕を叩いた。油がついた。迷惑だ。
「はぐらかし方がいちいち上手いのも含めて、お前は変な奴だよ」
桐生は笑った。目が線になった。この笑い方にもう慣れ始めている。2日目で。こいつの笑いは対象を傷つけないタイプで、だから安心して見ていられる。
こいつは裏表がない。思ったことを口にする。でも口にした後、相手が答えなくても気にしない。昨日感じた通りだ。壁があると分かっていて、壊しに来ない。ただ壁の手前で、パンを食いながら座っている。それだけのことが、どれだけ楽か。
俺は違う。俺は見えてしまう。見えたものを飲み込む。口に出さない。他人の本音が目に入ってくるくせに、自分の本音は出せない。軽い冗談で場を回して、核心には触れない。
桐生は「見えない」。分析もしない。ただ直感が鋭い。「何かある」と感じたら率直にそう言って、答えが返ってこなくても平気な顔をしている。
方向が違うのだ。俺は微表情を読む——目の動き、声のトーン、指先の震え。桐生は行動を読む——視線の方向、身体の向き、間の取り方。俺の方が精密かもしれないが、桐生の方がずっと健全だ。こいつは見ようとして見ている。勝手に見えてしまうわけじゃない。その差は、たぶんとても大きい。
「なあ瀬野」
「何」
「お前、中学のとき何かあっただろ」
カレーパンを噛む手が止まった。窓の外で体育の授業をしている。笛の音が遠くから聞こえた。グラウンドを走る誰かの足音が、砂を蹴る軽い音として教室まで届いている。
「急だな」
窓の外の風が止まった。カーテンの裾がぴたりと落ちて、教室の空気が少しだけ重くなった。
「急じゃねぇよ。昨日から思ってた。お前、人と話すとき距離取るだろ。意識的に」
桐生の目は笑っていなかった。さっきまでの軽い空気が消えている。こいつはふざけるときと真剣なときの切り替えが速い。冗談の奥に本気を忍ばせるのではなく、本気のときは本気の顔をまっすぐ向けてくる。ごまかしがない。
「……性格だよ」
「ふーん」
桐生はそれ以上聞かなかった。パンの最後のひと口を放り込んで、口の端についたメロンパンの砂糖を指で拭った。
「まあいいけど」
この「まあいいけど」が、桐生という人間の本質だと思った。追及しない。でも忘れない。壁の前に立って、壊そうとせず、ただ次の日も隣に座る。こういう距離感を保てる人間は珍しい。大抵の人は、壁を見つけたら壊すか離れるかのどちらかだ。壁の前に座り続けるという選択肢を、当たり前に選べる奴。
* * *
あった。中学のとき、何かが。
中学2年の夏。
親友だった片瀬が、クラスの女子に告白してフラれた。
片瀬は翌日から「全然平気」と笑っていた。でも俺には、平気じゃないことが分かっていた。笑い方が変わっていた。以前は口を開けて笑っていたのに、歯を見せなくなった。目尻の筋肉の動き方が以前と違った。声のトーンが微かに高くなっていた。全部見えていた。
見えていたのに、一週間黙っていた。
黙っている間、片瀬の「平気な自分」はどんどん完成度を上げていった。周囲は騙されていた。俺だけが、毎日少しずつ亀裂が広がっていくのを見ていた。亀裂の位置も、深さも分かっていた。いつ割れるかも見当がついていた。でも声をかけなかった。どう声をかければいいのか分からなかった。
中学の教室。窓際ではなく、教室の真ん中のあたり。机を寄せ合って弁当を食べているグループの中に、片瀬がいた。周りの男子が笑っていて、片瀬もそれに合わせて笑っていた。口元は笑っている。でも目が笑っていなかった。奥歯を噛み締めているときの頬の筋肉の動きが、笑いの輪郭を歪めていた。
ある日の昼休み。片瀬がクラスの中心で笑っている最中に、俺は声をかけた。
「片瀬、無理すんなよ」
善意だった。一週間、飲み込んでいた言葉を、やっと口にしたつもりだった。
タイミングが、最悪だった。
周りの全員に聞こえた。片瀬の笑顔が凍った。「平気な自分」が一瞬で剥がれて、泣きそうな顔がクラス全員の前に晒された。教室が静まり返った。あの沈黙を、今でも覚えている。時計の秒針の音まで聞こえた。
翌日から、片瀬は俺に話しかけなくなった。卒業まで一度も。廊下で目が合っても、俺の存在がそこにないかのように通り過ぎた。
見えていた。声をかけた。善意だった。結果、親友を失った。
俺が学んだこと——見えていても、言わない方がいいことがある。
この教訓は正しい。たぶん、正しい。でも俺はこれを拡大解釈してしまった。「見えていても、何も言わない」が基本になった。困っている人がいても、声をかけない。余計なお世話になるくらいなら、黙っている方がましだ。
それでいい。それで、誰も傷つかない。俺も、傷つかない。
* * *
5限目が終わって、放課後。
廊下に出ると、夕方の校舎は朝とは違う匂いがした。一日分の人の気配が染み込んだ空気。制汗剤とチョークの粉と、どこかの教室から流れてくるギターの音。軽音部が練習しているのだろう。不規則なコードの響きが、廊下の壁に反射している。
校舎の1階、下駄箱に向かう途中で掲示板が目に入った。カラー印刷のポスターが画鋲で留めてある。
「つぶやきポスト——匿名で学校への意見を投稿できます。物理投書箱は校舎内3箇所、または公式アプリ内の匿名フォームをご利用ください」
生徒が手を挙げているイラスト。「あなたの声を届けます」というキャッチコピー。デザインは落ち着いていて、生徒会が作ったものだろう。丁寧な作りだった。
素通りした。匿名で何かを言いたいと思ったことがない。見えたものは飲み込む。吐き出す場所なんか要らない。飲み込んだものは、飲み込んだまま腹の底に沈めておく。それが俺のやり方だ。
下駄箱で靴を履き替えていると、桐生が横に来た。部活の練習前で、ジャージの上だけ制服のままだ。裾が少し長い。
「あ、瀬野。昨日の上級生、分かったぞ」
「上級生?」
「校門の前でお前が目で追ってた人」
「追ってないけど」
「追ってた。首が動いてた」
こいつは何を見ているんだ。人の首の角度を覚えているのか。しかも昨日の帰り際の、ほんの一瞬を。俺が微表情を読むように、こいつは身体の動きを読んでいる。自分では意識していなかった首の動きを指摘されて、背筋に嫌な汗が走った。見ている側が見られている。その不快さは、普段俺が他人に与えているものと同じだろう。
「サッカー部の先輩に聞いたんだけど。七瀬紗弥。2年。生徒会副会長」
名前がついた。すれ違っただけの上級生に、輪郭が生まれた。
「あの人、学校で一番しっかりしてるって有名らしいぞ。副会長だけど実質的に生徒会回してるのはあの人だって。会長の朝霞先輩は方針決めて、実務は全部七瀬先輩がやってるらしい」
「へえ」
「あと、めちゃくちゃ怖いって噂もある。書類の提出遅れたらマジでキレるって」
「怖い人、苦手なんだけど」
「嘘つけ。お前、苦手な人間いなさそうだろ」
軽く返した。でも内心では、桐生が持ってきた情報が昨日の記憶と重なっていた。
しっかりしすぎている人間は、何かを隠している。
それは俺の経験則だ。「全然平気」と笑っていた片瀬がそうだったように。隙のない仮面は、仮面であるほど精度が高い。完璧に見える人ほど、裏に労力がかかっている。
七瀬紗弥。生徒会副会長。学校で一番しっかりしている人。
昨日のあの一瞬——肩が落ちて、すぐに戻った——が、まだ頭の隅に残っていた。あの人は、人目があるときだけ肩を上げている。視界から外れた瞬間に、自然な位置まで戻す。それを、どれくらいの頻度でやっているのだろう。一日に何十回と、「大丈夫な自分」に戻す作業を繰り返しているのだろう。
関係ない。すれ違っただけだ。俺には関係ない。
「じゃ、練習行くわ。また明日な」
桐生が片手を上げて去っていく。
駅に向かう。4月の空は高くて、空気が冷たい。住宅街の道を歩く。塀の上からツツジの蕾がふくらみかけているのが見えた。電柱の影が長く伸びて、アスファルトの上に等間隔で並んでいる。どこかの家から夕飯の匂いがした。味噌汁だろう。湯気の立つ台所が見えるようだった。
電車に乗る。イヤホンを取り出して、音楽を流した。耳を塞ぐ。目を閉じる。少しだけ、入力が減る。
見えたものは飲み込む。言わない。踏み込まない。
それが俺のルールだ。中学で学んだルールだ。
正しいルールのはずだ。正しいのに、たまに胸の底が重くなるのは気のせいだ。飲み込んだものが積もっているだけだ。吐き出さなければ、いつか慣れる。沈殿物は、かき混ぜなければ底に沈んだままでいてくれる。
電車の窓の外を、住宅街の明かりが流れていく。一つ一つの窓の向こうに、誰かの生活がある。それを見ようとは思わない。電車の中だけが、唯一「見なくていい」時間だった。目を閉じて、音楽に沈む。
そう、自分に言い聞かせた。




