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 兵士のあとについて静かな回廊を歩く。夕暮れの光はすでに弱まりつつあり、神殿の奥へ進むほどに空気は澄み、どこか神秘的な冷たさを帯びていった。心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて聞こえる。


(第二王子……殿下。私が癒した人)


 改めて考えると、急に足がすくむような気がした。私が命を救ったのは、ただの兵士ではない。王国の後継者になりうる存在。その人が私に“礼を言いたい”と言っている。


(どうすれば……何を言えばいいの)


 スラムで生きるのに礼儀も貴族の作法も習ってこなかった私が、王族の前に立つなんて。本当に許されるのだろうか。


 兵士が振り返り、小さくうなずいた。


「緊張なさらずとも良です。殿下は穏やかな御方だ」


「……そう、なのですか」


「ええ、少なくともあなたに害をなすような方ではない」


 その言葉に少しだけ呼吸が楽になった。けれど不安が消えるわけではない。ロザリアとの一件、宮廷の空気、私への期待と警戒――そのすべてが、今も肌にまとわりついていた。



 やがて兵士は立ち止まり、扉の前で軽く礼をした。


「こちらが殿下の療養室です。どうぞ、お入りください」


 重厚な扉が、静かに開く。


 中は温かな光が満ちていて、外の冷えた空気とは別世界のようだった。魔法の炎がゆらめく燭台、清潔な白布のベッド。窓には厚い帳が引かれ、外気を完全に遮断している。


 そして――ベッドに横たわる青年が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。


 栗色の髪はやや乱れているが、端正な顔立ちは凛としていて、その瞳はまるで深い湖のように静かだった。傷の痛みをこらえているのか、胸のあたりに手を置いて呼吸を整えている。


「……イレネス殿、だね」


 柔らかな声だった。威圧も傲慢もない。ただ誠実さだけが滲んでいる。


 私は思わず深く頭を下げた。


「し、失礼いたします。イレネスと申します。先ほどは……その……」


「顔を上げてほしい。礼を言いたいのは、私のほうなのだから」


 恐る恐る顔を上げると、殿下――ダニエルは微笑を浮かべていた。


「……助かった。君がいなければ、私はもうとっくに死んでいただろう」


「い、いえ……私は、ただ……!」


 私は慌てて言葉を探した。褒められるのが怖い。期待されるのが怖い。さっきまでの神殿長とのやり取りが、胸をざわつかせる。


「本当に偶然で、力だなんて……私には」


「偶然の力で命は救えないよ」


 静かな声音だったが、その言葉はどこか神殿長と同じ響きを持っていた。


「私は、自分の死を覚悟した瞬間のことを覚えている。視界が遠のき、意識が沈んでいく中で、確かに温かい光を感じた。あれは……奇跡だと思った」


「……奇跡」


「そう。だが、ただの奇跡ではない。君という人が持つ力の、本当に……最初の一歩だったのだと感じている」


 その眼差しは真っ直ぐで、嘘偽りがなかった。何より――私を“特別だから”ではなく、“命を救った一人の人間として”見てくれているのが伝わった。


 胸がじんと熱くなる。


「殿下……」


 そこへ、部屋の外で控えていたらしい侍従が入室し、柔らかく咳払いした。


「殿下。お話はその程度で。まだ体が万全ではありませんので」


「……そうだな。すまない、つい話し込んでしまった」


 ダニエルは小さく笑みを浮かべ、それから私のほうを向いて言った。


「イレネス殿。私は必ずこの恩を忘れない。今日のことは、王家として正式に感謝を示すつもりだ」


「そ、そんな……! お礼など……!」


「当然だ。私の命を救ってくれた者なのだから」


 胸が熱くなり、言葉が出なかった。


 スラムで生きていた私が、誰かの役に立つどころか、命を救って“感謝される”など、考えたこともなかった。


(こんなことが……本当に、起こっていいの……?)


 ダニエルはゆっくりと息を整え、言葉を続けた。


「明日からの資質評価には、私も立ち会うかもしれない。無理はするな。だが君の力を、私は信じている」


 その言葉は、信頼というより“願い”に近かった。


 私は深く頭を下げ、部屋をあとにした。



 廊下へ出た瞬間、張りつめていた緊張が一気にほどけ、足元が揺れるような感覚に襲われた。胸の奥はまだ熱く、手のひらもじんじんしている。


(これで……よかったんだよね)


 ダニエルとの対話は、恐ろしいものではなかった。むしろ温かくて、胸が痛むほど安堵した。けれど同時に――重い現実が迫っている。


(王家の感謝……。それはつまり、ロザリア様や貴族たちの目が、もっと私に向くということ)


 彼らが快く思うはずがない。特にロザリアは――。


 考えただけで、背筋を冷たいものが走った。


 その時だ。


「……あら。やっと出てきたのね」


 背後から凛とした声が響いた。


 振り返ると、薄紫のドレスをまとった少女――ロザリアが立っていた。いつもの上品な笑みではなく、貼りつくような冷たい微笑。そして、その目の奥には隠しようのない感情が揺れている。


「殿下の命を救って、すっかり英雄気取りかしら」


「そ、そんなこと……思っていません」


「謙遜なんて不要よ。だって“偶然の癒し”で命を救ったんですものね」


 ロザリアは一歩近づく。香水の甘い香りがふわりと漂う。


「でもね……イレネス。覚えておきなさい。聖女候補は一人だけ。選ばれなかった者は、ただの失敗作よ」


 その言葉は、笑みとは裏腹に鋭い刃のようだった。


「あなたがどれだけ癒しで注目を浴びようと、私の座は揺るがないわ。魔力量でも、血統でも、何より“適正”でも……私が上よ」


 私は何も言えなかった。

 ロザリアは最後に低くささやく。


「だから……消えないことね。明日からの試験で」


 その瞳には、焦り、恐れ、嫉妬、そして――憎意が入り混じっていた。


 ロザリアはドレスの裾を翻し、去っていく。残された回廊に、香りだけが漂っていた。


(……やっぱり、嫌われただけじゃ済まない)


 明日からの“正式な資質評価”。

 そこで私は――本当の意味で、彼女と向き合うことになる。


 逃げられない。


 胸に手を当てると、微かな温もりがあった。あの瞬間の癒しの光の名残。


(大丈夫。怖いけど……進むしかない)


 静かな回廊に、私の足音だけが響いた。



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