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深層

 治癒の光が消えていくと同時に、訓練場は沈黙に包まれた。兵士たちはまだ驚きの表情を隠せずにおり、医官へ引き渡すためにダニエルの担架を整える手の動きさえどこかぎこちない。ロザリアはその場から視線を逸らすようにして距離を取り、表情を固くしたまま誰とも口をきかなかった。けれど、去り際にこちらへ向けられた憎悪とも焦りともとれるあの瞳は、胸の奥に深く刺さっていた。


 私は膝をついたまま、しばらく動けなかった。手のひらがまだほんのりと熱を残している。あれが幻ではなかったと確かめるように指先を握ったり開いたりしてみるが、光はもう生まれない。それでも確かに、あの瞬間――何かがあった。


(私……本当に治したんだ)


 手のひらの温もりは、自分への実感のための最後の証拠のようだった。だが同時に、心の底のどこかがざわついていた。癒したとはいえ、あれは偶然ではなかったのか。自分が理解していない、もっと大きな力が勝手に働いただけではないのか。もし次の誰かを癒せと言われても、同じことができるとは限らないし、できなかったときにどうなるのか――そんな不安が、息を吸うたびに胸を締め付けた。


 兵士が何人か駆け寄ってきて、私の肩にそっと手を添えた。

「大役だったな。立てるか?」

「無理に動かなくていい。気分が悪くなっているのか」


 私はかすかに首を振った。

「……大丈夫です。ただ、少し力が抜けただけで」


 兵士の一人が笑みを浮かべた。

「それで済むほうがおかしいさ。命を一つ繋ぎとめたんだ。疲れて当然だ」


 その言葉は温かく、どこか嬉しかった。だが、嬉しさよりも戸惑いのほうが勝った。今まで、誰かにこんなふうに労われたことはなかった。スラムでは、誰もが生きるので精一杯で、他人の頑張りを褒める余裕などなかった。王宮に来てからは、侮蔑と不信の視線ばかりだった。この、まっすぐな善意の言葉にどう返せばいいのか分からなかった。


 ただ小さく頭を下げることしかできなかった。


 ダニエルが運び去られると、少しずつ通常の空気が戻り始めた。


 ロザリアの姿を探したが、もうそこにはい。自信に満ち、自分こそが聖女だと疑わないあの強さが、今日だけは、ほんの少し揺らいでいるように見えた。私が彼女を追い詰めたなどと思ってはいないし、思いたくもなかった。けれど、彼女の目の奥の感情は――確かに私を、これまでとは違う存在として見ていた。


(……嫌われた、なんて言葉じゃ済まないかもしれない)


 胸の奥のざわつきが消えないまま、私は立ち上がる。兵士たちが気遣うように視線を向けてくるが、誰も深入りはしてこない。その静かな距離感が逆にありがたかった。私は軽く礼をしあとにした。



 その後、医務棟へと連れていかれると思っていたが、侍女が迎えに来て「神殿長があなたの様子を見たいとのことです」と告げられた。神殿長――王都の神殿を束ねる最上位の聖職者で、白羽の儀式の運営にも深く関わっている人物だ。スラムでは名前を聞いたことすらなかったが、王宮では誰もが頭を下げる存在だ。


 侍女に案内されて神殿の奥へ進むと、回廊の空気がひんやりとし、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁の大理石には古代文字が彫り込まれ、透き通るステンドグラスから差し込む光が床に色彩を落としている。こんな神聖な場所を歩くのは初めてで、思わず足取りがぎこちなくなった。


 神殿長の部屋の前で侍女がノックし、私を中へと促す。室内は温かく、古びた木の香りがした。本棚には魔法や歴史の書物がずらりと並び、中央の机の奥に、白い法衣をまとった初老の男が静かに座っていた。雪のように白い眉と、深い青の瞳。年齢を感じさせない凛とした佇まいだった。


「イレネス、と言ったね。そこに座りなさい」


 落ち着いた声に従い、私は椅子へ腰を下ろす。神殿長はしばらく私を観察するように見つめていたが、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。


「話は周りから聞いているが……先ほどの治癒、見事だった」


 その言葉に、胸の奥が跳ねた。褒められたというより、見透かされたような感覚のほうが強い。私は少し俯きながら答えた。


「……偶然、だったのかもしれません」


「偶然で他者の命は救えんよ。ましてあれほどの重傷をな」


 否定されてしまい、言葉が詰まる。神殿長は続けて、机に指を軽く置きながら言った。


「白羽の儀式は神託だ。偶然ではない。君が選ばれたことも、癒しの力を発現させたことも、すべては必然だろう」


 私は息を飲んだ。

 必然――そう言われても、実感などない。私はスラムで生まれ、貴族の暮らしとも魔法とも無縁で、一度だって運命に選ばれたと感じたことはなかった。けれど、神殿長は私の心の迷いまでも見抜いているような目で続けた。


「君の力は、まだ表に出ていないだけなのだよ。聖女候補としてはもちろん、王国にとっても貴重な力だ。恐れずに受け入れなさい」


 胸の奥が、どくんと大きく脈打った。


(貴重……? 私が?)


 自分では到底信じられない言葉だった。力があるとは思えないし、今日の治癒も奇跡のようなものだった。何より――あのロザリアの圧倒的な魔力を見たあとでは、自分が貴重だなんて、とても言えない。


「……私には、戦う力はありません。今日のように誰かを癒せても、戦場に出たら足を引っ張るだけだと思います」


「戦うことばかりが価値ではないよ」


 静かな声だったが、その一言に部屋の空気が震えるような力が宿っていた。


「攻撃の力で敵を退ける者がいれば、癒しの力で味方を立て直す者もいる。王国の歴史を見ても、癒し手こそ勝敗を左右した時代はいくらでもある。何より……」


 神殿長はゆっくりと私の手を見つめた。


「先ほどの力は“聖女の癒し”の初兆だろう。磨けば、必ず王国の柱となる」


 私は息を呑み、言葉を失った。

 聖女の……癒し。


(そんな……私が?)


 いくら否定しようとしても、あの時の光の温度だけは嘘をつかない。ロザリアのような派手な力ではない。けれど、確かに誰かの命をつなぎとめた。


「……私に、そんな価値が?」


「あるとも。だからこそ、周囲は君を恐れもするだろう」


 その言葉に、ロザリアの表情が脳裏に浮かんだ。

 あの冷たい瞳の奥の感情。その正体に、私は気づき始めていた。


(ロザリア様は……私を脅威だと思った?)


 昨日まではただの嘲笑の対象でしかなかった私が、今日、生死を分ける場で彼女を上回ってしまった。それがどれほど彼女を追い詰めたか――想像に難くなかった。


 神殿長は目を細める。


「君は今日、第二王子の命を救った。宮廷の風向きは必ず変わる。それが善いほうに向くか、災いになるかは……君の覚悟次第だ」


 覚悟――。

 そんなもの、スラムで生き延びるためにとっくに身につけたつもりだった。けれど今求められている覚悟は、まったく違う種類のものだった。もう私だけの問題ではない。王都の政治や、聖女制度、ロザリアたちとの軋轢――すべてが私に影響する。


 私は静かに息を吸い込み、神殿長を見つめた。


「……これから、どうすればいいのでしょうか」


「まずは休みなさい。そして、次の試練に備えることだ。聖女候補の力は、ひとつの奇跡では決まらない。明日から正式な資質評価に入る。攻撃、補助、治癒、精神力――あらゆる側面からだ」


 胸が重くなった。まだ訓練の場にも慣れていないのに、次は正式な試験だという。ロザリアは間違いなく全ての科目で優秀だろう。私は、癒し以外の分野では何もできない。負けるに決まっている。


 だが――神殿長は最後に静かに告げた。


「恐れるな。君には、まだ“現れていない力”がある」


(まだ……?)


 私は思わず手のひらを見る。

 その奥に眠っている何かが、今日、ほんの少しだけ目を覚ました。神殿長の言葉をただの慰めだと切り捨てることはできなかった。


「行きなさい。君の道は、もう始まっている」


 私は深く頭を下げ、神殿長の部屋をあとにした。



 回廊に出ると、夕暮れの光が差し込んでいた。ステンドグラスに映る赤や青の光が鮮やかで、まるで空気そのものが染まっているように見える。私は窓辺に立ち、先ほどの治癒の光を思い返した。手のひらに意識を集中すると、微かな温もりが戻ってくるような気がした。


(私の力……“聖女の癒し”?)


 けれど、ふと胸がざわつく。

 こんな力を持つことで、本当に私は幸せになれるのだろうか。

 ロザリアの憎悪。貴族たちの嫉妬。

 そして、王宮が私をどう利用しようとしているのか――。


 そのとき。


「――イレネス殿」


 低く落ち着いた声に振り向くと、鎧を着た兵士が立っていた。先ほどダニエルを運んでいた部隊の一人だ。


「殿下がお目覚めになられた。あなたに礼を述べたいと仰せだ」


 胸が跳ねた。

 第二王子ダニエルが――目覚めた?


「少しでかまわないので、どうか来ていただきたい」


 私はしばらく息を止めたまま、その言葉の重さを理解しようとした。

 命を救った相手と対面する。

 それは逃げられない現実だった。


 ゆっくりと、私は兵士に頷いた。


 

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