覚醒
その日の王宮は、朝から落ち着きがなかった。
廊下を行き交う兵士の顔が硬く、侍女たちは息を潜めるように歩いている。
(何か……起きてる)
洗礼から数日。
私は魔力を授かったとはいえ、まだ癒しの力をほんのわずか操れる程度だった。
手のひらが温かくなり傷が浅いほど、治癒できる。
だが、貴族たちの目は冷たい。まだ私が聖癒の力があるということは公表していないうえに、上も黙っていた。
「平民が聖女候補なんて」
「魔力があると言っても、奇跡には程遠い」
そんな声を背に受けながら、私は神殿併設の訓練場へ向かった。
正門横を抜けたそのとき
――空気が震える……‼
城外方面から多くの人が慌てた様子で走り回っており、皆必死に叫んでいる。
駆け回る兵士たちに混じり、私の前をひらりとドレスが通り過ぎた。
ロザリア。
巻き髪を揺らし、青い魔術衣をまとい、前方へと軽やかに歩を進める。
まるで舞台に立つ役者のように華やかだった。
「ロザリア様よ……この騒ぎの中でもなんて美しいのかしら」
「当然よ。聖女候補筆頭なのですから」
彼女は攻撃魔法の素質を持つらしい。
昨日の訓練では、火属性の呪文を詠唱し――
地面をまるごと抉り取った。
令嬢たちが悲鳴を上げたほどだ。
(正直、すごい)
まさに王国が求める“戦う聖女”そして、それは私には真似できない。
ロザリアはこちらをちらりと見る。
「あなたは……足手まといにならなければいいけれど」
余計な言葉を残し、また前を向いた。
私は唇を噛む。
(悔しい……でも)
比べられても仕方がない傷を癒せても、戦場では守られる側だ。
先ほどから慌てている兵士たちが徐々に近づいてきた。そして先頭の人が叫んでいる。
「だれか! 誰か薬を! 早く、早く‼」
その必死な声が私の胸に届いた。
「魔獣だ。近くの森から侵入したらしい」
「よりによって、第二王子の部隊が遭遇してしまってな」
周囲の人たちの声が聞こえ、今何が起きているのかやっと理解できる。
(第二王子……)
聞いたことがある。
――鉄血のダニエル
常に前線に立ち、危険な任務を引き受ける武勇の人。
国王とは異母兄弟で、宮中では疎まれていると噂されていた。
(でも、会ったことはない)
そのとき、荷車の車輪が泥を跳ねた。
数人の兵士が、意識のない一人の青年を運んでくる。
銀の髪。
鋭い眉。
何度も血を流した跡のある軍服。
彼こそ――第二王子ダニエル。
息が浅く、胸は上下しているはずなのに、命の気配が薄い。
周囲の大人たちが一斉に叫ぶ。
「回復魔法を使える者は」
「急げ、致命傷だ」
ロザリアの視線がダニエルに注がれ、ゆっくりと一歩前へ出た。
「治せればいいけれど、私は回復は不得手なの」
美しく、だが冷たく言い放つ。
私は癒しの力を使える“唯一の聖女候補”助けられる可能性が私にはあるかもしれない。
(でも……こんな重傷、治したことなんて)
今まで癒したのは小さな切り傷程度。
彼は――死にかけている。
足がすくむ、そのとき、ダニエルの唇がかすかに動いた。
「敵は……まだ、周囲に……油断……するな」
意識がないはずなのに、戦場の気迫だけが抜けていない。
胸の奥が熱くなった。
(この人は……)
私とは違う世界を歩いている。
戦い、傷つき、それでも守ろうとしている。
(逃げちゃだめ)
ここで背を向けたら、スラムも、私も終わる。
私は膝をつき、震える手をそっと彼の胸に添えた。
ロザリアがあざ笑う。
「平民ごときが! 何を出しゃばろうとしているの⁉」
祈り方が分からない。
でも――願った。
ただ、助かってほしいと。
その瞬間、手が熱くなった。
光が溢れる。
「な……」
「これは」
兵士たちが息を呑む。
白く柔らかい光が、ダニエルの傷へと吸い込まれていく。
傷が閉じていく。
血のにじんだ服が淡く乾き、胸の上下が安定した。
私は息を詰める。
(できた……)
ダニエルの眉に苦悶の色が薄れ、眠るような表情に戻った。
兵士の一人が叫ぶ。
「助かった、脈が戻ったぞ」
「生きている」
安堵の声が広がる。
ただ一人、ロザリアだけが引きつった笑みを浮かべていた。
「……回復できるなんて。平民の、癒しの魔法」
声が震えている。
自分が攻撃魔法で圧倒した直後に、
誰も期待していなかった“役立たず”が、生死を分けた。
その事実に――耐えられない。
ロザリアはドレスの裾を震わせる。
「見間違いよ。何か細工をしたんでしょう。平民に強い魔法など」
その言葉は、震えた声でしかなかった。
(私だって……分からない)
なぜ治せたのか。
こんな大怪我を。
でも――
手に残る熱は、確かにあった。
兵士が私に深く頭を下げる。
「聖女候補殿、感謝する。あなたがいなければ殿下は」
「すぐに王宮の医官に引き継ぐ。休んでくれ」
頭を上げることができず、私はただ頷いた。
(私……やれたんだ)
ロザリアの視線が背中に刺さる。
冷たい、憎悪の目。
その裏にあるのは――動揺。
彼女はこちらを睨みつけ、唇をかみしめて吐き捨てた。
「覚えていなさい。平民が私よりも目立つなんて許さない」
視線が去っていく。
ダニエルが担がれていくのを見送りながら、私は思った。
(ここから……変わる)
ロザリアとの関係も。
他の貴族との扱いも。
私自身の進む道も。
まだ足は震えたまま。
でも――後戻りは、もうできなかった。




