質疑応答
夕刻。講堂を出て寮へ戻る途中だった私の耳に、再び聞きなれない名が呼ばれた。
「イレネス。上層会議室まで来てもらえるか」
振り返ると、先ほど魔力測定を担当した白髪の神官——学院の副院長でもあるバルツァー神官が立っていた。柔和な表情の奥に硬い意志を宿す人物で、訓練生の間では“笑わない石像”と陰で呼ばれている。
その男が、わざわざ私一人を名指しするなんて。
「……はい」
声が震えていないことを祈りながら返事をする。
廊下を歩く間、副院長は一度も私を振り返らなかった。神殿学院の上層部が集まる部屋は、候補生が立ち入ることのない最奥の棟。扉が近づくほど、胸の鼓動が痛いほど早くなっていく。
重厚な扉が神官の手で開かれた。
部屋には三人の神官が席についていた。王国学院長、魔術典籍の最高管理者、そして巫術の研究者。どれも国の柱と呼ばれる人物たちだ。
(な、なんで……この人たちが揃って……?)
ただの魔力測定の結果で呼ばれるレベルじゃない。
学院長が静かに口を開く。
「……イレネス。遠慮せず、こちらへ」
促されるがまま、私は円卓の中央に立つ。
学院長は、私を値踏みするようにじっと見つめたあと——
「今日の魔力測定のことだ。君の水晶が“金色”に輝いたのを確認した」
「……はい。ですが、色は薄かったと……」
「色の濃淡は重要ではない。問題は“金色”だ」
隣に座る典籍管理者が、古びた書物を開きながら言葉を継ぐ。
「金色の光は、王国全体でも非常に稀少な属性を示す。記録上、百年に一人出るかどうかの……“聖癒”の資質だ」
(せい……ゆ?)
聞き慣れない言葉に、思わず眉が上がる。
典籍管理者は、まるで祈るような調子で続けた。
「聖癒の力は、傷を癒すだけでなく、魔力の乱れや呪詛の浸食まで浄化できる特別な力……神代に記された“癒しの巫女”の再来ともいえる」
(……癒す? 私が……?)
学院長の視線が、探るように深まっていく。
「イレネス。君は治癒魔法の訓練を受けたことがあるか?」
「……ありません。魔法なんて、今日初めて触れたくらいで……」
「では、これまで何か不思議な経験は? 誰かの怪我が治ったとか、自分の身体の不調が消えたとか……」
「……いえ。覚えがありません」
嘘ではない。
スラムで生きていた私は、他人を助ける余裕も、誰かと深く関わる機会もほとんどなかった。
学院長たちは顔を見合わせた。
「では——君の出自は?」
喉の奥がぎゅっと詰まる。
苦しい質問だった。
「すみません……私、自分の出生を知りません。物心ついたときには、スラムで倒れていたので……」
「記憶は? 幼少の頃のものでも構わぬ」
「……ありません」
それを言った瞬間、三人の神官たちの表情が微かに変わった。
驚愕でも、憐憫でもなく——警戒。
(どうして……?)
巫術研究者が口を開く。
「イレネス。君がスラムで倒れていたとき……周囲に何か異変はなかったか? 災害や魔獣、魔力の暴走、不可思議な現象など」
記憶をたぐるが、やっぱり思い出せない。
「……気づいたら、独りでいました。あと倒れていたトールを引き取って以降、二人で過ごしております」
「トール? 誰だ?」
「義理の弟です。スラムの孤児で……彼がずっと、私の家族で……」
ここで初めて、典籍管理者が眉をひそめた。
「義理? 血のつながりは?」
「ありません」
言いながら胸が緊張で張りつめる。
この話をするのが、なぜこんなに怖いのか自分でもわからなかった。
沈黙を破ったのは学院長だった。
「イレネス。これはあまり外部には伝えていないが……スラムに“金色の魔力反応”が出たという報告が、十数年前に一度だけあった」
(……え?)
「発生源を調査に向かった神官がいたのだが、その地点には誰もいなかった。ただ、焦げた地面と魔力の残滓だけが残されていた」
喉がひゅっとすぼまった。
(私が倒れていたのは……その頃?)
学院長は続ける。
「思い当たる節は、ないか?」
「……ありません」
口にした瞬間、胸に鈍い痛みが走った。
それは記憶ではなく“恐怖”なにか大切なことを忘れている、そんな感覚が肌を這う。
巫術研究者は、重い声で言った。
「癒しの力を持つ者は、稀に“記憶封鎖”を起こす。強い魔力の暴走や、禁術に接触したとき……自我を保つために記憶を閉ざすことがある」
(記憶……封鎖……?)
そんなもの、本当に? 学院長が静かに私へ視線を向ける。
「イレネス。君の魔力は、制御しなければ暴走する危険がある」
(暴走?)
その言葉に喉がかわいていくのが感じ取れた。
「君は自分の力の本質を知らない。だからこそ、我々は調べる必要がある」
学院長の言葉に、背筋が冷えた。
「君の出自。記憶。魔力の素質。過去に何があったのか。すべて——明らかにせねばならない」
「……なぜ、そこまで……?」
声が震える。
学院長は重い瞳で答えた。
「イレネス。金色の魔力——“聖癒”は、王国を揺るがす力だ。
もしその力が、王国を脅かす存在に連なっているのなら……対処が必要となる」
その言葉が胸に冷たく刺さる。
典籍管理者が追い討ちをかけるように口を開く。
「君が救世か災厄か。それを判別するまでは、決して自由にはできない」
呼吸が苦しくなった。
ロザリアの嫉妬どころではない。
宮廷の派閥争いどころでもない。
(私は……危険視されている……?)
「安心していい。君自身が危険というわけではない。ただ……君の“背景”が問題なのだ」
背景。
出自。
記憶の欠落。
それらが、私自身よりも重く扱われる。
「——イレネス。君はこれから定期的に我々の元で検査を受けてもらう。いいな?」
「……はい」
選択の余地など最初からなかった。
学院長はうなずき、静かに締めくくる。
「君が聖女候補である以上、我々は君を守る義務がある。だが同時に監視する責務もある」
胸の奥で、なにかが鈍くきしんだ。
会議室を出ると、副院長が扉を静かに閉め、廊下には夕陽が赤く差し込み、私の影が細長く伸びている。
影の先で、誰かの影がまるで重なるように揺れた気がした。
(治癒の力……記憶の欠落……)
スラムで倒れていたあの日。
自分の名前しか言えなかった私。
忘れたのではなく——閉じたのだとしたら。
(私は……何者なの?)
歩き出す足は震えていた。
けれど、その震えは恐怖だけじゃない。
胸のどこかで、もう一つの感情が芽生えていた。
(……知りたい)
私の過去も。
私の力も。
何のためにここへ導かれたのかも。
すべて——自分で知りたい。
そう思ったとき、はじめて胸の奥に静かな熱が灯った。




