星霜の誓い
忘却の森の夜は、王都のそれよりもずっと深い。 木々の間を抜ける風の音が、まるでいにしえの精霊たちの囁きのように聞こえる。 イレネスとダニエルは、追っ手を警戒しながら、小さな焚き火も起こさずに身を寄せ合っていた。
暗闇に慣れた目でダニエルの横顔を見つめながら、イレネスはふと考えた。 もし、自分が聖女候補に選ばれていなかったら。 もし、彼が私の護衛になっていなかったら。 今頃、私は村で穏やかな、けれど何も知らない日々を過ごしていたのだろうか。
「……何を考えている」
ダニエルが、気配だけで彼女の思考を読み取ったように問いかけた。
「あ、ううん。少しだけ、昔のことを思い出してたの。私がただのイレネスだった頃のこと」
「ただのイレネスか。俺にとっては、出会った時からお前はお前だ。聖女候補だろうが、逃亡者だろうが、その芯にあるお節介なほどの優しさは変わっていない」
ダニエルの言葉に、イレネスは頬を赤くした。 彼はいつもそうだ。 飾り気のない言葉で、彼女が一番大切にしている部分を肯定してくれる。
「ねえ、ダニエル。約束して」
「約束?」
「もし、この旅の果てに私が私じゃなくなってしまいそうになったら。その時は、あなたが私を止めて。白羽の力が私を呑み込もうとしたら、あなたが私の名前を呼んで」
それは、イレネスが抱いている一番の恐怖だった。 祠での出来事、そして大聖堂での覚醒。 自分の中にある力が、自分という個人の意志を超えて膨らんでいるのを感じる時がある。 誰かを救いたいという願いが、いつしか傲慢な支配へと変わってしまうのではないか。 歴代の聖女たちが短命だったのは、その強大な力に精神が耐えきれなくなったからではないか。
ダニエルはしばらく沈黙し、それから力強くイレネスの手を握り返した。
「そんなことはさせない。俺の命がある限り、お前を一人にはしない。もしお前が自分を見失いそうになったら、世界中の誰が許しても、俺だけはお前を叱ってやる」
「……ふふ。ダニエルらしいね。ありがとう」
イレネスは、彼の肩に頭を預けた。 鎧の冷たさの下にある、心臓の鼓動。 それが今の彼女にとって、この世界で最も信頼できるリズムだった。
翌朝、二人は森を抜け、北へと向かう旧道へと出た。 そこには、ラインハルト王子の手の者がまだ及んでいない、静かな農村が点在していた。 イレネスは、聖女としての気品を隠すために、村娘のような質素な服に着替え、髪を短く結い上げた。 ダニエルもまた、騎士の紋章が入ったマントを捨て、旅の剣士を装った。
「イレネス、あそこの村で食料を調達しよう。俺は外で待っているから、お前は顔を出さないように注意しろ」
「わかったわ。でも、私にも手伝えることがあるはずよ」
村の入り口に差しかかった時、イレネスの足が止まった。 村の外れにある小さな家から、苦しげな咳の音が聞こえてきたのだ。
「……待って。誰か、病気みたい」
「イレネス、いけない! 目立つ真似はするなと言っただろう⁉ 」
ダニエルが制止するのも聞かず、イレネスはその家へと駆け寄った。 中には、高熱にうなされる老人と、途方に暮れる幼い孫娘がいた。 この地域で流行っている疫病だということは、一目見てわかった。
「大丈夫よ、怖くないわ」
イレネスは膝をつき、老人の額にそっと手を触れた。 彼女の手から、木漏れ日のような柔らかな光が溢れ出す。 その光は瞬時に老人の体内へと浸透し、病の毒を中和していく。
「あ……ああ……」
老人の呼吸が劇的に楽になり、顔色が赤みを帯びていく。 それを見た孫娘は、驚きと感謝で涙を流した。
「神様……神様が助けてくれたのね」
「違うわ。私はただの旅人。おじいさん、お大事にね」
イレネスはそれだけ言うと、追いかけてきたダニエルの手を引いて、逃げるようにその場を去った。
「……全く、お前という奴は。さっそく奇跡を起こしてどうする」
道中、ダニエルは呆れたように溜息をついた。 けれど、その目は少しだけ笑っていた。
「だめだよ、見過ごせないもん。私は聖女としてじゃなく、イレネスとして助けたかったの」
「わかっている。だが、そのお節介が俺たちの居場所を教える目印になることも忘れるな」
「ごめんなさい。でも、後悔はしてないわ」
二人は並んで歩き続ける。 王都では決して得られなかった、誰かのための小さな奇跡。 それが、逃亡者となった彼女たちの心を温めていた。
北の山脈は、少しずつその険しさを増していく。 空には、ラインハルトが放ったと思われる伝書鷹が幾度も旋回していた。 追跡の網は着実に狭まっている。
しかし、イレネスの瞳に迷いはなかった。 自分が治すべきものは、まだ先にある。 白羽の記憶が眠る、あの雪深き聖域。 そこで待っている真実と対峙した時、本当の「救い」の意味がわかるはずだ。
「ダニエル、行こう。私たちの、本当の場所へ」
「ああ。どこまでも付き合ってやる」
朝陽に照らされた二人の影が、北へと長く伸びていく。




