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夜明けの逃走

 大聖堂を包んだ光の奔流は、人々の視界を白く染め上げるだけではなく、そこにいた者たちの精神にさえ強烈な揺さぶりをかけた。 イレネスが解き放った治癒の魔力は、王都が長年積み上げてきた虚飾と欺瞞を剥ぎ取るような、純粋すぎる命の輝きだった。


「行こう、イレネス。俺の背中にいろ……‼ 」


 光の渦の中で、ダニエルの太い腕がイレネスの腰を引き寄せた。 その腕の温かさに触れた瞬間、イレネスの瞳から溢れそうになっていた不安が、一気に決意へと塗り替えられる。 彼女は、美しくも残酷な装飾が施された聖女の法衣を自らの手で引きちぎり、動きを妨げる裾を短くまとめた。


「うん。どこまでも、一緒に行くわ……‼ 」


 混乱に陥る近衛兵たちの間を、ダニエルは獣のような速さで駆け抜ける。 聖堂の出口を塞ごうとした数人の兵を、彼は剣の腹で叩き伏せ、無理やり道を作った。 殺しはしない。それが、彼を信じるイレネスに対する、騎士としての彼なりの答えだった。


 大聖堂の外に出ると、王都の朝の冷気が肌を刺した。 しかし、その寒ささえも自由の味がする。 背後からは、ラインハルト王子の怒声と、追撃を命じる鐘の音が鳴り響いていた。


「馬を回してある。ロザリアの奴が嘘をついていなければな」


 聖堂の裏手に繋がれていた二頭の軍馬を見つけ、ダニエルはイレネスを鞍の上へと抱え上げた。 自分も手早く跨り、手綱を強く引く。 王都の石畳を、激しい蹄の音が叩いた。


「ダニエル、どこへ行くの⁉ 正門はもう閉じられているはずよ」


「正門は通らない。王都の地下には、かつての大戦時に使われていた放棄された水路がある。そこから外郭の森へ抜ける」


 イレネスは、彼の逞しい背中にしがみつきながら、遠ざかっていく王城を見上げた。 白く聳え立つその塔には、まだあの「白い影」が潜んでいるはずだ。 彼らは決して諦めないだろう。 白羽という強大な力を、王家の私物として取り戻すために。


 馬を走らせること一刻、二人は王都の北西にある、人影の絶えた貧民街へと足を踏み入れた。 華やかな表通りとは対照的な、腐敗した臭いと湿り気が漂う場所。 その一角にある、苔むした巨大な鉄格子が水路への入り口だった。


「降りろ。ここからは馬を放す」


 ダニエルはイレネスを降ろすと、馬たちの尻を叩いて逆方向へと走らせた。 追っ手の目を逸らすための苦肉の策だ。 彼は重い鉄格子を力任せに抉じ開け、イレネスの手を引いて暗い穴の中へと飛び込んだ。


 水路の内部は、膝下まで冷たい水に浸かるほどだった。 天井からは滴が絶えず落ち、暗闇が視界を奪う。 イレネスは指先に小さな光を灯し、二人の足元を照らした。


「私、怖くないよ」


 ふいに口を突いて出た自分の声に、イレネス自身が驚いた。 これまでの自分なら、暗闇と冷たさに震えていたはずだ。 けれど、隣に彼がいる。 そして、自分の内側には、守るべき「あの子」の声が息づいている。


「……イレネス、お前は変わったな」


 ダニエルが、前を歩きながらぽつりと呟いた。


「そうかな。でも、治したいと思う気持ちは、あの村にいた時から変わってない。むしろ、もっと強くなった気がするの」


「治す、か。この国すべてをか⁉ 」


「わからない。でも、あの子……祠にいたあの子は、まだ泣いているの。王都の人たちが隠そうとしている傷が、どこかに必ずあるはず。それを放っておくことはできない」


 彼女の言葉に、ダニエルは短く笑った。 それは呆れているようでいて、どこか誇らしげな響きを含んでいた。


 水路を数キロ進んだところで、不意に前方の空気が揺れた。 何かがいる。 ダニエルが瞬時にイレネスを背後に隠し、剣を構えた。


「そこまでですわ。聖女候補様。そして、野良犬の騎士さん」


 暗闇の奥から浮かび上がったのは、優雅な仕草で扇を広げる一人の女だった。 ロザリアだ。 彼女はダニエルを逃がした張本人でありながら、今こうして二人の行く手を阻んでいる。


「ロザリア様……。どうしてここに⁉ 」


「助けた恩を返しなさい、とは言わないわ。けれど、あなたがその力を持って王都を出るというのなら、話は別。白羽の力は、この国の均衡を保つための楔なの。それを持ち出されるのは、私の計画にとっても不都合なのよ」


 ロザリアの手から、鋭い魔力の刃が形作られる。 彼女もまた、この国の歪んだ秩序の中で、自分の居場所を守ろうとしている者の一人だった。


「退け、ロザリア。お前とは戦いたくないが、邪魔をするなら容赦はしない」


 ダニエルの声が低く響く。 水路の壁が、彼の殺気に共鳴して震えた。


「ふふ、威勢がいいわね。でも、一人で戦っているつもりかしら⁉ 」


 ロザリアが指を鳴らすと、天井の闇から数人の暗殺者たちが音もなく降りてきた。 王都の影を司る、処刑部隊だ。


 逃亡の初日にして、二人は最大の危機を迎えていた。 しかし、イレネスは逃げなかった。 彼女はダニエルの肩に手を置き、静かに魔力を練り上げる。


「私、もう選ばれるだけの女の子じゃない。ダニエルと一緒に、この道を切り拓くって決めたんだから……‼ 」


 水路の暗闇を、新たな光が貫いた。 それは癒やしの光でありながら、拒絶する者を退ける、意志ある光だった。

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