白鳥の籠と影の囁き
最上階にある白鳥の間は、夜になると月の光を吸い込んで青白く凍りついた。 イレネスは寝台の端に腰を下ろし、冷え切った自分の指先を見つめていた。 部屋の隅には常に数人の女官が控え、彼女が息を吐く音さえも記録するかのように静かに佇んでいる。 自由は、あの広間で白羽に選ばれた瞬間に奪われたのだ。
食事は銀の器に盛られ、毒見を済ませた完璧なものが運ばれてくる。 衣服は肌を露出させない純白の絹。 けれど、それらすべてがイレネスにとっては重い鎖のように感じられた。
「……様。イレネス様」
ふいに、耳元で衣擦れのような微かな音が響いた。 顔を上げると、女官の一人がすぐそばに立っていた。 それは、あの広間で第一王子の背後に控えていた、白い影と呼ばれた案内役だった。 男なのか女なのかも判然としないその人物は、周囲の女官たちが居眠りでもしているかのように動かない隙を突き、イレネスに顔を近づけた。
「案ずるな、イレネス。お前は正しい道にいる」
その声は、昼間聞いた時よりもずっと湿り気を帯び、粘ついていた。 私を呼ぶその響きに、イレネスは言いようのない嫌悪感を抱いた。
「あなたは……誰なの⁉ 」
「私は、白羽を守り、継承を見届ける者。ラインハルト様もまた、私の言葉を神託として聞き入れている」
案内役は、感情の消えた瞳で私を覗き込んだ。 その視線の奥に、祠の奥底で見た泥のような闇と同じ色を見た気がして、イレネスは思わず身を引いた。
「祠で聞いた、あの声……。あの子をあそこに閉じ込めたのは、あなたたちなのね⁉ 」
「閉じ込めたのではない。保存したのだよ。次の聖女、すなわちお前が現れるまでの時間を稼ぐためにね。あの祠の封印は、聖女の魔力を定期的に食わせるための生贄の祭壇だ」
生贄。 その言葉が、イレネスの脳裏で爆発したように響いた。 あの子は、誰かのために犠牲にされていた。 そして今度は、白羽に選ばれた私、イレネスがその役割を継ぐことになるというのか。
「ラインハルト様は、君を愛でるだろう。だがそれは、美しい花を生ける花瓶を愛でるのと同じだ。君が枯れれば、また次の種を探せばいい」
「そんなこと、させない……。私は、ダニエルと一緒にここを出るわ‼ 」
イレネスが叫ぼうとした瞬間、案内役の手が素早く伸び、彼女の口を覆った。 冷たい、体温の感じられない指だった。
「騎士ダニエルか。彼は今、地下の独房で自らの無力を呪っている。反逆罪の嫌疑をかけられ、明日の朝には北の監獄へと護送されるだろう。君が大人しく『聖女』を演じない限り、彼の命の灯火は、私が指先一つで吹き消すことになる」
心臓が止まるかと思った。 ダニエルが、私のために捕らえられた。 私を守ろうとした彼が、今度は私を人質にするための材料に使われている。
「……卑怯よ」
「政治とは、そして信仰とは、常に卑怯なものだよ。イレネス、君は明日の朝、大聖堂で戴冠の儀に臨む。そこで正式に、王国の守護神としての誓いを立てるのだ。そうすれば、騎士の命だけは救ってやろう」
案内役は、イレネスの耳元でそう囁くと、何事もなかったかのようにその場から消えた。 周囲の女官たちが、魔法が解けたかのように同時に動き出す。 彼女たちは、今の短い会話さえ気づいていない様子だった。
イレネスは震える手で胸元を押さえた。 白羽の光が、内側でチリチリと痛むように脈打っている。 助けてという声と、負けたくないという想い。
「待ってて、ダニエル。私、必ず……」
イレネスは、窓の外で夜に沈む王都を睨みつけた。 敵の正体は見えた。 王子を操り、神聖を装って命を弄ぶ、この城そのものが病んでいるのだ。 治癒の術師として、私はこの王都の病を治さなければならない。
そのためには、明日の儀式が、私に残された唯一の賭けの場になる。




