まだ終わってなどいなかった……
白羽の儀式はまだ終わっていない、そして彼女が選ばれる物語もここから先で形を変えていく。
イレネスは宿舎の窓辺に立ち、村の朝を見下ろしていた。昨夜までの騒乱が嘘のように、通りでは商人が荷を広げ、子どもたちが走り回っている。人々は日常へ戻ろうとしていた。恐怖を振り払い、昨日を忘れようとするその姿が、胸に小さな痛みを残す。
忘れてはいけない。
あの祠で聞いた声。
助けを求める幼い叫び。
そして人の悪意が、あまりにも静かに差し込んできた瞬間。
イレネスは胸元に手を当てた。まだそこに残っている。温度のない恐怖ではない。重さだ。選ばれたことによる重さではなく、知ってしまったことの重さだった。
背後で扉が静かに開く音がした。振り返る前から分かる。足音の癖も、気配の置き方も、もう嫌というほど覚えている。
「起きていたか」
ダニエルだった。鎧は外し、簡素な上着に身を包んでいる。それでも剣は腰にあり、姿勢はいつも通り揺るがない。彼は部屋に入ると、何も言わずイレネスの顔色を確かめるように視線を走らせた。
「大丈夫。顔色は悪くない」
「……それは信用しない方がいい」
彼は小さく息を吐き、椅子に腰を下ろした。
「昨夜の反動はこれから来る。治癒を同時に広げたんだ。無茶の度合いで言えば三段階は上だ」
「そんなに?」
「そんなにだ」
言い切られて、イレネスは苦笑した。それでも否定しなかった。確かに身体は重い。けれど後悔はなかった。
「村は?」
「落ち着いている。結界も応急的だが安定している。魔物の気配も引いた」
その報告に、イレネスの肩から力が抜けた。
「よかった……」
その言葉は心からだった。誰かを救えたという実感が、少し遅れて胸に満ちてくる。
だが安堵は長く続かなかった。
「王都から使者が来る」
ダニエルの声が低くなる。
「もう?」
「早すぎる。だが隠す気もないらしい。午前中には到着する」
胸の奥で冷たいものが広がった。祠で聞いた名前。第一王子。直接会ったことはない。だが遠くから感じた圧は忘れられない。
「……目的は?」
「表向きは慰労と状況確認だろう。だが裏は別だ」
「私?」
「間違いなく」
短い肯定だった。だがそこには迷いがなかった。
イレネスは窓の外へ視線を戻した。平穏に見えるこの村も、誰かの思惑ひとつで簡単に盤上に置かれる。その現実が、昨夜よりもはっきりと見えてしまう。
「ダニエル」
「何だ」
「私……聖女として、正しく在れてるのかな」
問いは自然とこぼれた。彼女自身も答えを持っていない問いだった。
ダニエルは少し考え、やがて言った。
「少なくとも俺の知る限り、おまえは誰よりも聖女らしい」
「……そういう基準?」
「そういう基準だ」
彼は立ち上がり、イレネスの前に立つ。
「王家がどう定義しようと関係ない。おまえは傷を見て、放っておけなかった。それだけだ。それができない連中に聖女を語る資格はない」
その言葉は不思議と胸に沁みた。正しさを押し付けるのではなく、選択を肯定する声音だった。
外で角笛が鳴った。村の入り口だ。使者の到着を告げる合図。
「来たな」
ダニエルが言う。
イレネスはゆっくりと息を吸い、吐いた。
「逃げないよ」
「知っている」
「利用もされない」
「それもだ」
彼は扉を開け、振り返る。
「行こう。ここから先は、儀式の続きだ」
イレネスは頷き、一歩を踏み出した。
白羽の儀式はまだ終わっていない、そして彼女が選ばれる物語もここから先で形を変えていく。
王都の視線が絡み、思惑が交差し、白羽は静かに揺れ続ける。
それでも彼女は歩く。
治す力を携えたまま選ばれる側ではなく、選び返すために。
申し訳ございません、ストックが無くなってしまいました。不定期更新に入ります。もし、よろしければ何かアクションいただけますと幸いです。




