長かった夜。
夜が完全に明けきる前、村は不自然なほど静かだった。家々の窓に灯りはなく、人の気配も薄い。魔物の襲撃があったとは思えないほどだ。それが逆に胸をざわつかせる。何もなかった顔をして朝を迎える。それは安心ではなく、忘却に近い。
イレネスは歩きながら、祠で感じた鼓動を思い出していた。封印の奥にいた存在。悲鳴ではなく、声だった。助けを求めるだけの弱い声。あれは魔物だったのか。それとも、もっと別の何かだったのか。治癒の魔力を流したとき、確かに応えがあった。傷が塞がる感覚と同時に、気持ちが静まっていく感覚。人を治すときと同じだった。
「……ねえ」
再び声をかけると、今度はダニエルが立ち止まった。
「さっきの祠。あれ……完全に終わったわけじゃないよね」
彼は少し考えるように視線を落とした。
「終わっていない。だが今すぐ崩れることもない」
「治したから?」
「安定させた。正確には……落ち着かせた、か」
その表現に、イレネスは小さく息を吸った。やはり彼も感じていたのだ。壊れたものを元通りにするのではなく、痛みを抑え、暴れないようにする。彼女の力はいつもそうだった。完全な解決ではない。それでも今を越えるためには必要な時間を稼ぐ。
村の外れに差しかかると、東の空がはっきりと白んできた。鳥の声が一つ、二つと戻ってくる。世界は何事もなかったように朝を迎えようとしている。
その光景を前にして、イレネスはふと怖くなった。もし自分がいなければ。もし治癒の力がなければ。祠も、ダニエルも、この村も、違う結末を迎えていたかもしれない。その可能性が、今になって重くのしかかる。
「私……」
言いかけて言葉を探す。自分が何を言いたいのか、まだ整理できていなかった。
「力を持つのが、少し怖い」
ダニエルは即座に否定しなかった。その沈黙が、かえって救いだった。
「怖がれるうちは大丈夫だ」
彼はそう言って、村の方角を見た。
「怖れを忘れた力が一番危ない」
イレネスはその言葉を胸の奥で反芻した。治癒は命を選ばない。だからこそ使う者が揺れ続けなければならない。そういう力なのだと、今なら少し分かる。
そのとき、村の中から足音が聞こえた。早朝の見回りだろう。人の気配が戻ってくる。日常が、何も知らないまま重なっていく。
イレネスは一度だけ、来た道を振り返った。祠はもう見えない。それでも確かに、あそこに何かが残っている。未解決のまま、静かに眠る存在が。
そして王都には、別の静けさがあるはずだった。言葉にならない思惑。名も告げぬまま消えた影。治癒という異質な力に向けられる視線。
この一夜は終わった。だが物語は、確実に次の段階へ踏み込んでいる。
イレネスは胸に残る鼓動を押さえながら、朝の村へ足を踏み出した。




