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静かな祠

 祠を出た瞬間、夜明け前の冷たい風が頬を打った。中にこもっていた熱と緊張が一気に引いていく。空はまだ暗い。それでも東の端がわずかに色づき始めていた。魔物の気配は消えている。村は静かだった。あまりにも静かで、逆に胸の奥がざわつく。


 イレネスはダニエルの腕に支えられたまま、振り返って祠を見た。封印は落ち着いている。光は弱いが確かに息をしている。それなのに安心できなかった。壊れなかっただけで、治ったわけではない。そのことを身体が先に理解している。


「……今日はここまでだ」


 ダニエルの声は低く抑えられていた。戦いの後で気を緩めれば崩れてしまう。そんな張りつめた声だった。イレネスは小さくうなずく。言葉にするほどの余裕はない。ただ胸の奥に残った違和感だけが、静かに脈を打っていた。


 村へ戻る道を歩きながら、イレネスは彼の背を見つめていた。傷は癒えたはずなのに、歩き方には疲労が残っている。それでも彼は何も言わない。守る役目を終えたあとも、守る姿勢を崩さない。その背中が少しだけ遠く感じた。


「ねえ、ダニエル」


 呼びかけると、彼は振り返らずに足を緩めた。


「さっき……私の魔力、祠だけじゃなくて……あなたにも流した」


「分かっている」


 即答だった。


「止めなかった」


 一瞬だけ言葉が詰まる。イレネスは自分の手を見た。武器にもならず、攻撃もできない。ただ流れて、塞いで、落ち着かせるだけの力。


「治す対象を選ばないのは……危ないかもしれない。敵でも、祠でも……」


「それでも、おまえはそうする」


 ダニエルはそこで足を止め、振り返った。夜明けの薄光が青い瞳を淡く照らす。


「それが、おまえだからだ」


 慰めでも命令でもない。ただ事実を置いただけの声だった。その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなる。力ではなく、自分自身を見られている。その実感が、祠で削られた心を静かに支えた。


 空がゆっくりと明るくなっていく。村に戻れば、何事もなかったように朝が来るだろう。だが確実に何かは動き始めている。名を名乗らなかった貴婦人。第一王子の影。治癒という異質な力。それらはまだ一本の線にならない。それでもイレネスは理解していた。自分がこの流れの中心にいることだけは、もう否定できない。


 そのとき誰にも気づかれないほど小さく、祠の奥で音がした。完全に塞がったはずの封印が、眠りの中で呼吸をするように、かすかに脈打つ。その存在を知る者は、まだいない。

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