厄介な能力
光と光がぶつかり合い、祠の中心で低い共鳴音が生まれていた。祭壇の脈動は速まり、ひびの奥から滲む光がイレネスの足元へと流れ込む。怖れが完全に消えたわけではない。それでも彼女は後退らなかった。短剣を構えた貴婦人の視線が、わずかにイレネスの手元へ向く。そこには武器も術式もない。ただ祠の光に触れた両手があるだけだった。
「不思議ですわね。あなたは攻撃の魔術を一つも使わない。それでいて、封印も祠も反応している」
その言葉を受け、イレネスはゆっくりと息を吐いた。胸の奥が熱い。恐怖よりも、別の感覚が確かにそこにあった。
「私……壊す魔力は持ってない」
指先に集まる光は柔らかい。刃にも炎にもならない。ただ生き物の体温のような温度だけを帯びていた。
「治すことしか、できないの」
その言葉に、祠の空気がわずかに和らいだ。祭壇の光がはっきりと強く脈を打つ。封印の奥から微かな肯定が返る。それは初めて恐怖を含まない声だった。
イレネスは一歩踏み出す。床の冷たさが足裏に伝わるが、魔力は逃げなかった。むしろ祠そのものが彼女を支えている感触があった。
「あなたは……治癒系統の聖女。しかも純度が高い」
貴婦人の声には、はっきりと警戒が混じっていた。
「だから厄介なのですわ。治癒は命を選ばない。都合の良い命だけを救ってくれない」
その通りだった。イレネスの魔力は善悪を知らない。ただ傷を見つけ、そこへ流れ込む。祠が傷ついている。封印が歪んでいる。そして――人も。
「ダニエル……」
祠の入口から金属が擦れる音が聞こえた。荒い呼吸の気配。重くなった足取り。剣を握る腕が限界に近いことが、声を聞かなくても分かる。イレネスは迷わなかった。
「待ってて」
その言葉を残し、彼女は一度だけ入口のほうへ視線を向ける。直接は見えない。それでも、彼が立っている位置ははっきり分かった。両手を胸の前で重ね、魔力の流れを変える。祭壇へ注いでいた光を、祠全体へ広げるように解いた。
光は走らない。飛ばない。ただ静かに滲む。それは血の流れのように、祠の床を伝い、石柱を巡り、壁のひびを満たし、その先へと向かっていった。剣を振るうダニエルの肩。裂けた皮膚。震える筋肉。
彼は一瞬、息を詰める。
「……?」
焼けるようだった痛みが薄れ、じわりと傷が塞がっていく。完全ではない。それでも、確実に動ける身体へ戻っていく。
「……イレネスか」
名を呼ぶ声には、驚きと苦笑が混じっていた。彼女は答えなかった。答える余裕がなかった。治癒は消耗する。それでも止められない。祠も、人も、同時に癒している。一つに集中すれば楽だったはずだ。それでも彼女は分け隔てをしなかった。
貴婦人が小さく舌打ちをする。
「厄介ですわね。治すという行為そのものが、封印を安定させている」
イレネスの視界がわずかに揺れた。足元が重い。呼吸が浅くなる。それでも彼女は立っていた。
「この祠も……この封印も……傷ついてる」
言葉は震えなかった。確信があった。
「誰かが無理に縛った。傷つけて閉じた。だから……治せば、暴れなくなる」
封印の奥から光が応える。ひびが完全に閉じることはない。だが、広がりもしない。均衡。それが今の限界だった。
貴婦人は一歩だけ後ずさる。計画通りには進んでいない。
「……これ以上は危険ですわね」
短剣の光が弱まる。撤退の気配を見せながらも、視線だけは最後まで冷たい。
「覚えておきなさい。今日は生き残れても、王都では同じことが通じるとは限らない」
その言葉を残し、影はゆっくりと祠の奥へ溶けていった。逃げたのではない。ただ、今回は引いただけだと分かる消え方だった。
祠に残ったのは、光と疲労と静かな鼓動だった。イレネスの膝がわずかに揺れ、力が抜ける。その身体を支えたのは、駆け戻ってきた温もりだった。
「無茶をする」
低い声。腕が、確かに彼女を抱き留めている。
「でも……助かった」
ダニエルの額が彼女の額に触れる。近い息遣い。生きている熱。イレネスは小さく笑った。
「治せただけ。戦ってはないよ」
「それが一番厄介なんだ」
そう言って、彼はゆっくりと彼女を支え続けた。祠の光はまだ消えていない。封印も完全ではない。それでも今は、少なくとも悲鳴は静まっている。
この出来事が、すべての始まりになることを、二人はまだ知らなかった。




