祠の奥には……
祠の空気が一変した。冷気が肌を撫でるというより刺すように入り込み、先ほどまで祭壇を支えていた光の余韻を押し退ける。封印はまだ息づいている。それでも別の圧が混じった。その圧は瘴気ではなく獣の気配でもない。乾いていて冷たく、はっきりとした意思を持つ悪意だった。
イレネスはゆっくりと立ち上がった。膝の震えは意志で抑え込む。祭壇の光は弱まっているが消えていない。その鼓動が自分の心臓と重なり、立っていられる理由になっていた。視線を奥へ向けると、闇と薄光の境が不自然に歪んでいる。足音はない。それでも誰かがそこに立っていると確信できた。
「今の声……誰?」
問いかけに答えるように空気が揺れた。柔らかく滑らかな声が祠に満ちる。だがその柔らかさは刃を包んだ布だった。触れれば必ず傷つくと直感できる危うい声音。
「誰かなど気にする必要はありませんわ。あなたはただ役目を果たしていればよかったのに」
ダニエルが即座に反応した。剣の柄を強く握り、血の滴る肩をかばうことなく一歩前へ出る。視線は声の主を射抜こうとしていた。
「名を名乗れ。ここがどういう場所か理解しているのか」
「理解しているからこそ来たのですわ。殿下から伺ったの。辺境の祠に聖女の資質を確かめる場所があると。あなたたち、とても素直に動いてくださったわね」
その言葉でイレネスの胸が跳ねた。
――殿下。第一王子。
頭では否定が走る。だが胸の奥に沈んだ冷たさは、否定を許さなかった。彼が。自分を。ここへ。
「殿下が……そんなこと」
「あなたの耳に届くわけありませんでしょう。あの方は手段を選ばない。王に最も近い方ですもの。だから私は粛々とお手伝いをしているだけですわ」
月光が祠の入口から差し込む。外では魔物がまだ唸っている。それでもこの女の声のほうがずっと冷たく祠に響いていた。
「残念でしたわね。本来なら封印が崩れ、聖女候補は不幸にも命を落としたと報告するだけで済んだのに。思いのほか粘られてしまったせいで、手間が増えましたわ」
「ふざけるな」
ダニエルの声は低く抑えられていた。剣先が僅かに上がる。
「王家に害をなす者として斬る」
「恐ろしいこと。でもあなたでは届きませんわ。立場が違いすぎるもの」
言葉そのものが祠を波打たせる。魔力ではない。意志だ。イレネスは震えを抑えながら一歩前に出て、ひびの閉じた祭壇を背に立ちふさがった。
「どうして村の人を巻き込むの。どうしてこんな方法を取るの」
「簡単な理由ですわ。聖女は王に仕える存在。民に慕われ、王権を揺るがすようでは困るの。あなたは少し目立ちすぎました。それだけですわ」
その言葉は皮膚の下へ冷たく沈んだ。理由が軽すぎる。人の命を弄ぶには十分すぎるほど。
「殿下は……本当にそんなことを望んで……?」
「さあ。どうかしら。でもあなたをこの村へ向かわせなさいとおっしゃったのは事実ですわ。そこに何もなかったと言い切れるかしら」
ダニエルが剣を構え直す。
「もういい。イレネス。下がれ」
「だめ。私が原因なら私が前に出る」
「おまえが死ねば、守れるものも失う」
言葉が途切れた瞬間、祠の奥でひびがわずかに震えた。封印がまた不安定になっている。静まったばかりなのに外の悪意に引きずられていた。
「都合がいいですわね。封印も魔物も揃っている。あなた方がここで消えるには十分ですもの」
外で獣の咆哮が重なった。光の糸が弾け、石柱が悲鳴を上げる。結界は限界だった。
イレネスは祭壇を振り返った。弱い光が必死に脈打っている。
――こわい。きえたくない。
胸に少女の声が響く。恐怖が祠を満たす。
イレネスは決めた。恐怖よりも守る意志を選んだ。
「ダニエル……時間を稼いで」
彼は一瞬だけこちらを見る。その目には信頼があった。
「任せろ」
剣が光り、彼は入口へ向き直る。イレネスは祠の中心へ歩き、震える光を両手で包んだ。
「大丈夫。ここでは終わらせない」
その瞬間、封印の奥で何かが応えた。
――たすけて。いっしょに。
空気が優しく揺れた。だがすぐに、その揺らぎを嘲るような笑いが重なる。
「本当に厄介ですわね。では……仕上げに入りましょう」
鋭い金属音が祠に走った。入口ではない。背後。振り返る暇もなかった。
貴婦人がそこに立っていた。右手に細い短剣。淡く光る魔術具。距離は近い。逃げ場はない。
「お別れですわ。聖女候補さま」
光が放たれた。
次の瞬間、イレネスの視界を白が覆った。熱ではない。痛みもまだない。ただ世界が歪み、祠の鼓動と自分の心音だけが重なっていく。
ダニエルの叫び声が遠くで響いた。
その声を最後に、視界は深く沈んでいった。




