乱れる気配、忍び寄る罠
村の入口には、誰も出迎える者はいなかった。
木製の柵はところどころ折れ、畑には耕した形跡もない。
まるで、人の営みが急に途絶えたかのようだった。
御者が不安げにつぶやく。
「……なんだか、嫌な静けぇですね。嬢ちゃん、本当にこんな場所で祠の調査なんてするんですかい?」
「う、うん。でも、任務だから」
イレネスは笑顔を作って見せたが、胸は強く締め付けられていた。
ここに来ると決めた自分の判断が、急に頼りなく思えてくる。
それでも引き返すことはできない。
村の家屋の前まで歩くと、扉がひとつだけわずかに開いた。
中から、老人らしき男が姿を現す。
ぼんやりとした目つきで、イレネスを見つめた。
「……あんた、城の人間か?」
「はい。祠の件で来ました」
「……悪いことは言わねぇ。さっさと帰んな。ここはもう、人が住む所じゃねぇ」
老人の声は震えていた。
イレネスは言葉を失う。
だが、逃げるように扉は閉ざされ、鍵をかける音が聞こえた。
「……どういう、こと?」
村の全てが拒絶している。
まるで“何か”が起こると分かっているかのように。
そのとき、背後の森から鋭い咆哮が響いた。
「っ!?」
地面が震え、鳥が一斉に飛び立つ。
イレネスは咄嗟に振り返る。
森の奥で、影が揺れた。
魔物——ただの獣ではない形。
彼女の呼吸が止まる。
その瞬間。
「イレネス!!」
聞き慣れた声が風を切って届く。
馬の蹄の音が村中に響き、土煙が舞う。
駆けてきた黒馬の背で、ダニエルがこちらを見つめていた。
その顔は怒りと焦りと……どうしようもないほどの安堵に満ちていた。
「ダ……ダニエル!? どうして——」
「どうして、じゃない!」
馬から飛び降りるようにして彼は駆け寄り、彼女の腕を強く掴んだ。
「おまえが危険な村にひとりで来るなんて、正気じゃない! 誰の指示だ!」
「そ、それは……神官長さんが……」
「違う。その裏にいるのが誰か、おまえも薄々気づいてるはずだ」
イレネスは息を飲む。
ロザリアの顔が胸の奥で浮かんだ。
しかし、ダニエルはそれ以上言わず、彼女を背中に庇う。
「説明はあとだ。まずは——ここから離れるぞ!」
森の中で複数の影が動き出す。
魔物の気配は明らかに異常だった。
「ダニエル……ごめん。私、ちゃんとできると思って……」
「謝るな。生きて帰れば、それでいい」
強く言われ、イレネスの胸にじんと熱が広がる。
けれど、ダニエルはその表情とは裏腹に、声を低くして告げた。
「——罠だ。これは完全な“罠”だ。おまえをここに来させるためだけに仕組まれた」
イレネスの瞳が揺れる。
「ロザリア、なの……?」
彼は答えない。
ただ剣を抜き、森の奥へ向けた。
魔物の影が近づく。
咆哮が再び響き、地面が震える。
イレネスは息を呑み、彼の背にしがみつく。
そして——
ダニエルは低くつぶやいた。
「絶対に守る。……もう二度と、おまえを一人で危険に晒すものか」
その言葉は、地鳴りのような魔物の咆哮にかき消されることなく、確かにイレネスの胸へ届いた。
——始まりだった。
彼らを包み込む、大きな嵐の。




