境界線の村で揺れる影
辺境へ向かう街道は、王都の舗装された石畳とは違い、土がむき出しになった荒れ道が続いていた。馬車の振動は激しく、イレネスは何度か腰を浮かせながらも、窓の外に広がる景色へ視線を向けていた。
乾いた風に揺れる雑草、緩やかな丘陵、点在する粗末な家々。
ここが、王国の地図にも小さくしか載っていない「西境の村」の風景だった。
彼女は胸の奥にわずかな違和感を抱えながら、馬車の座席に背を預ける。
「“古い祠の調査に同行してほしい”……か」
最初にその依頼を持ってきたのは、王宮の神官長だった。
だが、その背後にロザリアの影がちらつくことを、イレネス自身も感じ取っている。
理由は、彼女の変化だった。
王都に来た頃、イレネスはただの田舎娘として扱われ、嫉妬の対象にすらなっていなかった。
けれどダニエルと距離を縮め、魔王の遺跡で功績を上げ、王城内で誰からも名を覚えられる存在となった今、彼女はいつの間にか「他人の野心」を引き寄せる立場にまで変わってしまっていた。
──それでも、断れなかったのは。
「……ダニエルに頼りきりになるのが、なんだか恥ずかしくて」
ぽつりとつぶやき、頬を赤らめる。
本当は、少しだけ誇りたかった。
自分自身の力で、できることを見せたかった。
彼に庇われてばかりの少女ではないと、胸を張りたかった。
馬車が小さく揺れる。
その瞬間、遠く離れた王都では——
***
ダニエルは執務机に拳を叩きつけていた。
「……誰が行かせた」
目の前で報告を持ってきた近衛騎士が怯えたように背筋を伸ばす。
「神官長殿の指示だと……その、王宮の文書にも記録が」
「神官長の独断で、イレネスが辺境に? そんなはずがない」
紙束を乱暴に払いのけながら、彼は息を呑む。
決定的におかしい。
この時期、王都では“聖女候補の再査定”が続いており、イレネスほど重要な人材を僻地に送る理由はない。
そして神官長が自己判断でそんな命令を下す人物でもない。
ならば——誰が裏で糸を引いているのかは明白だった。
ロザリア。
実行はしない。証拠も残さない。
しかし、確実にイレネスを王都から遠ざけ、運が良ければ……。
「……間に合わない可能性もある」
あの村。
地図に載っているのは表向きの名だけで、裏では魔物の出没率が高く、近年行方不明者も多かった。
調査隊でさえ二十名以上で向かう場所に、少女一人。
怒りと焦燥が胸を焦がし、ダニエルは椅子を蹴り倒すように立ち上がり、剣を腰に下げた。
「馬を用意しろ。今すぐだ」
近衛騎士が駆け出し、すぐに厩舎の方から蹄の音が響き始める。
イレネスの命が危険に晒されている——
その事実だけで、彼の冷静さは跡形もなく吹き飛んでいた。
「イレネス……どうか無事で」
喉の奥で搾り出した願いは、静かに廊下へ消えていった。
***
同じ頃、ロザリアは王城の高いバルコニーで、遠くの空を眺めていた。
涼しげな横顔に、満足げな微笑が浮かぶ。
「まさか本当に辺境へ向かうとは。……あの子、思った以上に“従順”なのね」
手すりを指先でトントンと叩く。
「しかも、あの場所は……ちょうど良いわ」
彼女の瞳に映っているのは、イレネスでもダニエルでもない。
その先に広がる、もっと大きな“野心”だった。
「道を踏み外すのは、いつだって無自覚な娘。
そして英雄気取りの騎士様が、後から嘆くのもよくある話……」
風が髪を揺らす。
ロザリアはふっと表情を緩めた。
「さて。どこまで彼が追ってくるかしら。楽しませてちょうだい、ダニエル」
その声音には、悪意というよりも、冷たい好奇心の色が混じっていた。
***
イレネスが乗った馬車は、ようやく村の入口に差しかかっていた。
陽が傾き始めた空の下、彼女の胸にはまだ自分でも言葉にできない予感が渦を巻いている。
この旅が、ただの調査で終わらないことを——
心のどこかで知っていた。




