霧に紛れる気配
翌朝――。
焚き火の跡がうっすら残る場所に冷たい朝露が降りていた。
鳥の声が聞こえるが、森全体がどこか重く、気配が鈍い。
イレネスは装備の調整をしながら、昨夜の気配を思い返していた。
「あれ……誰だったんだろう」
姿は見えなかったのに、確かに“視線”だけが存在していた。
あまりにも鋭く、冷たく、それでいて人間らしい感情が混ざっていたように感じる。
すると、背後から声がした。
「イレネス。荷物は重くないですか?」
振り向けば、ダニエルが肩紐を持ってくれていた。
「うん、平気だよ。ありがとう」
「油断しないように。ここから先は、魔力の流れが乱れている」
森の奥に足を踏み入れると、すぐにそれは実感された。
空気がぴりぴりと肌を刺し、葉がざわめく音さえ不自然に聞こえる。
イレネスは胸の前で手を重ね、光の気配を探った。
(……いやな感じ。まるで、息を潜めてるみたい)
森の中心に近づくほどに、魔力の渦が濃くなる。
ロディックが周囲を見回しながら呟いた。
「この森……ところどころ、足跡がついています。最近のものです」
「暗殺者のものか?」
「恐らく。複数……いえ、一人ではないかもしれません」
イレネスは驚いて足を止める。
「どういうこと?」
「痕跡が二種類あります。ひとつは荒っぽい踏み跡、もうひとつは……細くて軽い」
細くて軽い。
あの夜、こっそりと逃げた影が頭に浮かぶ。
(でも、まさか……違うよね)
表情に出そうになる不安を、イレネスは慌てて飲み込んだ。
ダニエルは彼女の顔色を見て、静かに言った。
「怖がらなくていい。あなたの歩幅に合わせる」
「ありがとう……」
少し歩くと、急に視界が開けた。
そこには、古代石碑が並ぶ広場のような空間があった。
淡い光が石の隙間から漏れ、まるで森の奥が呼吸しているかのようだ。
「ここが……古代遺跡?」
「ええ。記録にある場所と一致します。魔力が強い……何かが目覚めようとしている」
ロディックが石碑に近づこうとしたそのとき――。
ひゅう、と冷たい風が吹き抜けた。
風ではない、“意志”のような何かが全員の背を押し戻した。
「な……に?」
イレネスの心臓が跳ねる。
光の聖印がじんと熱を帯び、手のひらにじわりと光が広がった。
同時に、石碑の影からひとつの影がすっと動いた。
「あ……っ!」
イレネスが小さな声を漏らした瞬間、ダニエルが剣を抜く。
「誰だ!」
しかし、その影は剣ではなく、言葉で返した。
「驚かせてしまいましたか。私はこの森を調査している学術院の者です」
青年が姿を現した。
柔らかい金髪に淡い緑の瞳、華奢な体つきで、武器らしきものは持っていない。
「学術院……?」
「はい。あなた方の来訪も噂で聞きまして」
にこやかな笑み。
しかし、ダニエルの目は険しいままだ。
「ならば証明を見せてもらおう」
「もちろん」
青年は懐から認証札を取り出す。
表面には、確かに王立学術院の刻印が光っていた。
ロディックもそれを確認し、少しだけ険しさを解いた。
「それで……この森で何を?」
青年は石碑に手を置き、静かに目を伏せる。
「――封印が、緩んでいます」
その言葉は、鳥の声すら止まるほど重かった。
イレネスの背に冷たいものが走る。
「封印……?」
「はい。光属性を持つ方がいらっしゃるのなら、すぐにでも確かめねばなりません」
青年がこちらへ視線を向けた瞬間、イレネスは感じた。
その目の奥に、得体の知れない揺らぎがあることを。
(この人……なにか、隠してる?)
だが、その正体はわからない。
ただひとつ確かなのは――。
森にはまだ、別の“影”が潜んでいる。




