疑念の火種は静かに燃える
グリンヴェル村の外れに立つ古い祠から戻り、宿舎の扉を閉めたとき──ようやく胸の奥の緊張がゆっくりほどけていった。
あの森で、何が起きたのか。
黒衣の襲撃者。
あの男の殺気。
矢の軌跡。
そして……私を抱きかかえ、必死に守ってくれた誰かの腕。
(ダニエルが駆けつけてくれなかったら……)
想像しただけで足が震える。
彼は怒っていた。
誰かが私を狙っていると確信し、歯を食いしばるようにして私を抱き寄せた時の、あの熱。
(どうしてそんな……)
問いは胸に沈んだまま、答えが出ない。
冷たい水で手を洗うと、ようやく少し落ち着いた。
小屋の窓からは、かすかに村の灯りが見える。
その灯りを眺めていると、不意に扉がノックされた。
「イレネス。入ってもよろしいか?」
聞き慣れた声が胸を撫でた。
許可すると、ダニエル──いや、“彼”が静かに入ってくる。
鎧は外していたが、肩に残る緊張はまだ消えていない。
青い瞳がこちらを見つめたまま動かない。
「怪我はない?」
いつもより少し低い声。
その響きだけで胸が温かくなる。
「大丈夫……あなたのおかげで」
その言葉に、彼の喉がわずかに動いた。
「俺の“おかげ”じゃない。……あの森に君が一人で入った時点で、危険は避けられなかった」
「でも、助けてくれたのは――」
「当然だ。君を失うなんて……考えたくない」
そこで、彼は言葉を飲み込んだ。
沈黙。
室内に、二人の呼吸だけがゆるやかに重なった。
やがて、彼は深く息を吐き、窓の外を一度見た。
「……イレネス。今回の襲撃、偶発ではないと思う」
「やっぱり……?」
「狙いは明らかに“君”だ。村に向かう途中を狙うような情報を、誰が知り得た?」
鋭い問い。
私の頭に浮かぶのは、文官、聖務室、そして──ロザリア。
しかし、どの名も口に出せない。
根拠はほとんどなく、確信すら曖昧だった。
「誰かが……私をこの村に誘導した、ってこと?」
「そうとしか思えない。王命を偽装することは難しいが、手を回せば不可能ではない。兄上の派閥か、ロザリア嬢の後ろにいる者か……あるいは別の影か」
「あの人が関わっているかどうかはわからないよ」
「わからないからこそ、危険なんだ」
彼は近づいてきて、そっと私の手を取る。
その指先は温かく、強く、震えていた。
「君を利用したい者は多い。消したいと思う者も……いる。特に“兄上の陣営”は」
息を呑んだ。
「なら……これからどうすれば?」
「俺が守る。何があろうと」
迷いのない声。
彼の目は真っ直ぐで、少しも揺れていなかった。
「……ありがとう、ダニエル」
胸がじんと熱くなる。
(この人は、どうしてこんなに真剣に……)
問いはふわりと浮かんでは沈んだ。
その夜、村の風は静かだった。
けれど心の奥底では、疑念の火種が静かに燃え続けていた。
まだ誰も知らない。
この火が、後にどれほど大きな炎へ育つのか。




