表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/35

追跡

 馬車を降り、辺境の村を歩き出した瞬間――胸の奥で、微かなざわめきが生まれた。


 空気が重い。

 湿り気を帯びているというだけではない。昼間にもかかわらず、どこか薄暗く感じられるほどの陰りが、村全体に広がっていた。


 石畳はひび割れ、畑は手入れが行き届いていない。

 道を歩く人々の表情には覇気がなく、視線は地面に落ちたままだ。


(何か……ある。絶対に)


 胸中でそう呟きながら、私は案内役の村長のあとについていく。


「こちらが、最近問題が起きているという井戸です。水が濁り、家畜が飲むと弱ってしまうんです」


 村長の声はしわがれていた。夜も眠れていないのだろう。


「聖女候補様には、お忙しい中、遠くまで……」


「いえ。人々が困っているなら当然です。早速、調べさせてください」


 私は井戸の淵に手を置き、そっと目を閉じた。指先から、微弱な魔力を流し込む。


 冷たい水の気配。

 そこに混じる――不自然な揺らぎ。


(やっぱり、魔力の乱れが……)


 自然発生するものではない。人為的か、あるいは魔物による何らかの干渉。


 その瞬間、視界の端で影が揺れた。私を見つめる村人の一人。その目に、異様な色が宿っている気がした。


(今の……気のせい?)


 いや、違う。胸がざわめいている。

 この村には、明らかに“何か”が潜んでいる。


「聖女候補様……これは、その……我らの村に災いが起きているのは、やはり……」


 不安げに口を開く村長に、私は微笑みを返す。


「大丈夫です。原因は必ず突き止めます。それまで、井戸には近づかないように注意してください」


 しかしその言葉の裏で、胸の奥には別の警戒心が広がっていた。


(これ……ただの異変じゃない。人為的な“誘導”だ)


 ここに来るように仕向けられたとしたら――

 誰かが、私をこの村に閉じ込めたいと思っているのだとしたら。


(ロザリア……)


 直感が、彼女の名を示した。

 優越感と独占欲に満ちたあの瞳。舞踏会で見せた、氷のような笑み。


(私が王族に近づくことを彼女は嫌っていた。邪魔者として排除したいと思っても……不思議じゃない)


 もしこれが罠であれば、次に起きるのは――


 背筋に冷たいものが走った。


「……急いだほうがいい」


 私は井戸から離れ、周囲の地形を見渡す。


 この村は小さく、外に向かう道も限られている。

 罠としては単純だが、閉じ込めてしまえば十分。


(でも、あの人は……気づいているかもしれない)


 私の頭に浮かんだのは、紺碧の瞳をした青年――ダニエル。

 王城での微妙な気配の変化を、彼は誰よりも早く察していた。


(もし、彼が動いてくれていたら……)


 ほんの一瞬、心がほどけたように温かくなる。


 けれどその刹那、背後から足音が迫った。


「聖女候補様」


 しかし、それは村長の声ではなかった。


「……どなたですか?」


 振り向くと、黒いフードを深くかぶった人物が立っていた。


 顔は見えない。

 けれど、纏う空気が異様だった。


「村に来ていただいて、光栄です」


「あなたは……?」


「見れば分かるでしょう。

 ――あなたを“歓迎”するために、ここで待っていた者です」


 ぞくり、と肌に粟が立つ不気味な声。


(やっぱり、罠……!)


 逃げないといけない。そう思った瞬間、


「動かないほうがいいですよ、イレネス様。

 ――あなたは、我らに必要なのです」


 フードの下から覗いた手が暗い魔力を纏い始める。


 その魔力は、私が井戸で感じた乱れと同じもの。


(この村の異変は、やっぱり……!)


「さあ、こちらへ」


 フードの人物が手を伸ばした瞬間――空気が裂けるような音が響いた。


 何かが風のように駆け抜ける。


 世界が一瞬止まったかのような静寂。

 そして、鋭い刃の音。


「離れろ」


 低く、冷たい声が響いた。


 振り向かなくても誰なのか分かる。

 胸の奥が熱くなる。


 そこに立っていたのは――

 息もつかせぬ速さで馬を操り、剣を抜き放った青年、ダニエルだった。


「イレネス、下がれ」


「だ、ダニエル……っ、どうしてここに……!」


「お前がそんなところで大人しくしているわけがないからだ。

 それに――」


 彼は私の前に立つように片腕を広げ、フードの男から視線を逸らさない。


「こんなあからさまな罠、ロザリアが仕掛けたのは丸分かりだ」


「やはり……!」


「お前が巻き込まれるくらいなら、何だってする。

 だから、ここから先は俺に任せろ」


 その声音は普段よりも強く、そして優しかった。


 胸が震えそうになる。

 でも今は感情に浸っていられない。


 フードの男は、ダニエルの登場にも動じていない。


「来ると思っていましたよ、王宮騎士団副団長。

 あなたさえ排除できれば、聖女候補様は自由に利用できますから」


「俺の目の前で、彼女に触れるつもりか?」


 ダニエルの剣先が鋭く光る。

 その気迫に、空気が震えた。


「イレネス、走れるか?」


「……はい!」


「なら、俺の指示する方向に逃げろ。絶対に俺から離れすぎるな」


 彼の言葉にうなずいた瞬間、フードの男が動いた。

 黒い魔力が渦を巻き、地面を割る。


 大地が揺れ、村の家々の窓が一斉に鳴った。


「行け!」


 ダニエルの声が鼓膜を震わせると同時に、私は彼が示した方向へと駆け出した。


 背後では剣戟の音が響き、魔力が爆ぜる光が視界をかすめる。


 振り返れない。


 でも――


(……ダニエルが来てくれた)


 その事実だけが、私の足を強く前へ押し出していた。


 自分を狙う罠。

 ロザリアの暗躍。

 そして、村に広がる魔力の異変。


 全てが混じり合う中で、私はただ一つの思いを抱いて走り続けた。


(絶対……生きて戻る。

 この先に、確かめたい気持ちがあるから)


 大きく息を吸い込み、私は森の出口へと飛び込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ