襲撃
王都を離れてしばらく経つのに、胸の緊張だけは少しも消えなかった。
ダニエルは私の様子を横目で見ながら、気づいているのかいないのか、手綱をゆっくり引いて速度を落とした。
「歩きにしよう。一度休んだ方がいい」
「……うん。ありがとう」
馬を下りると、足に残っていた強張りがじわりと緩む。
ダニエルは私より先に周囲の状況を確かめ、道の脇に生えている倒木に腰を下ろすよう手で示した。
私は馬の首を軽く撫でてから、彼の隣に座った。
少しの沈黙。
鳥の声がかすかに聞こえる。
ダニエルがふいに風を切るような低い声で言った。
「……やっぱり、まだ緊張してる?」
「してる。だって、本当に……私を狙ってる人がいるのかもしれないんだよ?」
「いるよ」
即答だった。
あまりに迷いのない声で返され、胸がひゅ、と細くなる。
「君に危険が向かってるのは確かだ。王命という形でひとりで辺境に向かわせた。これは偶然じゃない」
「でも、本当に……命を狙うほどのことかな。私は聖女候補の中で一番目立ってるわけでもないのに」
「目立ってるよ」
ダニエルは私をまっすぐ見た。
青い瞳が、光を溶かした水面みたいに揺れる。
「君の光は……誰より強い。自覚がないかもしれないけど、儀式に関わる者なら誰でも分かる。君だけが特別だ」
「そんな……」
「それに」
彼はわずかに視線を伏せ、言い方に迷ったように小さく息を吐いた。
「……兄上は、君に目を付けている」
その言葉に胸がざわつく。
「第一王子殿下が……? どうして?」
「理由は……分からない。でも、兄上のやり方は昔から変わらないんだ。価値があると判断したら取り込む。使えないと思えば……排除する。その境界線が残酷なほどはっきりしている」
「だからロザリアを囲ったの……?」
「彼女は兄上が“利用価値が高い”と判断したんだろう。可憐で、従順で、扱いやすい。だけど」
そこから先は、言葉をこらえるように喉が詰まった。
沈黙のあと、ダニエルはきつく唇を結んで続けた。
「君は違う。兄上の思い通りにならない。だから……気に入らない」
風が道の土をさらさらと巻き上げた。
その風に紛れ、ダニエルが低く言う。
「……だからこそ、狙われる。君を排除したい派閥が動く。ロザリア嬢も、きっとその一人だ」
「私、そんな……争いの種になりたいわけじゃないのに」
「君は悪くない。悪いのは、君の光を歪んだ目で見るやつらだ」
気づけば、ダニエルの手が私の手をそっと包んでいた。
いつもの穏やかな触れ方ではなく、迷いを振り払うような、少し強い握り。
「……守るから」
その一言は、まっすぐで、ためらいがなかった。
「私のために、そんな……」
「当然だよ」
私が驚いて見返すと、ダニエルは視線をそらすように横を向いた。
「……君が危険に晒されているのに、何もしないわけないだろ。俺は……」
そこで言葉が途切れ、彼は拳を握りしめた。
「……とにかく、君をひとりで絶対に行かせない。それだけは譲れない」
胸がぎゅうっと強く鳴る。
こんなふうに誰かに思われるなんて、夢にも思わなかった。
「ダニエルがついてくれれば……大丈夫って、思えるよ」
「思っていい。いや、思ってほしい」
ほんの一瞬、彼の声が微かに震えた。
そしてすぐに、柔らかいけれど真剣な眼差しに戻る。
「もう少ししたら出よう。森まであと少しだ。……そこが、一番危ない」
「どうして……?」
「森は視界が悪い。待ち伏せにはうってつけだ。君を狙って動いてる者たちなら、確実に仕掛けてくる」
背中がひやりとした。
けれど、手を握られている安心感のほうが大きかった。
「だからこそ、先に動く。できる限り、君に指一本触れさせない」
ダニエルの声には決意が宿っていた。
「行こう。ここで長居すると逆に狙われる」
私はうなずき、馬に乗り直した。
森の入り口は、目で見て分かるほど薄暗い。
昼だというのに、枝葉が重なり合い、まるで夜みたいに光が遮られている。
足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。
ダニエルは前に立ち、いつでも剣を抜けるように手をかけている。
「イレネス、俺のそばから離れないで。いい?」
「うん。離れない」
森の奥から微かに枝が揺れる音がした。
鳥ではない。風でもない。
気配が迫っている。
ダニエルはわずかに目を細め、声を落とした。
「……来る」
私は息を呑み、手のひらに光を集めた。
こんなに怖いのに、不思議と体は震えなかった。
隣に、彼がいるから。
次の瞬間――木々の影から、黒い布で顔を覆った男が飛び出してきた。
ダニエルが剣を引き抜き、私の前に立つ。
「イレネス、下がって!」
「うん!」
銀の剣が光を裂き、男の短剣と激しくぶつかった。
金属音が森に響く。
戦いは一瞬のようで、でも永遠にも思えるほど濃密だった。
ダニエルの剣筋は鋭く迷いがなく、男はじわじわと追い詰められていく。
数合打ち合ったあと、ついに男の短剣が弾き飛んだ。
ダニエルはその隙を見逃さず、男の喉元に剣を突きつける。
「誰の命令だ」
低く、怒りを押し殺した声。
男は答えない。
だが、その沈黙が逆に決定的だった。
ダニエルは剣先をほんの少し押し当て、冷たく言った。
「……ロザリア嬢か」
男の肩がびくりと震えた。
その反応だけで十分だった。
「兄上の許可はないはずだ。ロザリア嬢が勝手に……いや、派閥の誰かが命じたか」
ダニエルの怒りが空気を震わせる。
「イレネスを傷つけようとした。その罪、軽くは済まない」
男は逃げようと身をよじったが、その瞬間、私の右手から放った光が男の足元を縛りつけた。
「逃げないで。あなたのせいで……誰かが悲しむなんて、もう嫌だから」
光に縛られた男は観念したように動きを止めた。
ダニエルは私を振り返り、わずかに表情を和らげる。
「……ありがとう。今の光、よかった」
「守りたかったの。ダニエルが……戦ってるの、見てられなかった」
その言葉が彼の胸に届いたのか、ダニエルはほんの少しだけ息を乱し、視線を落とした。
「……君は、俺の心臓に悪い」
呟くような声だったけれど、その奥には強い感情が混ざっていた。
「イレネス、君がいなくなったら……俺はきっと、耐えられない」
胸が大きく跳ねる。
でも彼は、そこで言葉を切った。
あくまで「告白」ではない。
だけど限りなく近い。
その距離が、急に愛しくなる。
「必ず守る。森を抜けるまでは気を抜けない。もう一度進もう」
「……うん」
捕らえた男を縛り上げ、馬につなぎ、私たちはふたたび森の奥へと進んだ。
木々の向こうにはまだ影が潜んでいる。
ロザリアの企みも、第一王子の野心も、まだ終わっていない。
でも――。
ダニエルの背中を見つめながら、私は確信した。
この旅で、私たちの距離はきっと変わる。
危険と光の中で、何かが確かに芽吹いている。
そしてその先にあるものが、どんな未来であっても――。
私はもう、ひとりで立ち向かうつもりはなかった。




