表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/56

静寂の森へ③

 夜明け前の王城は、昼とはまったく別の顔を見せる。

 白羽の儀式を翌日に控えているせいか、衛兵の動きが慌ただしく、広い廊下には金具の軋む音だけが響いていた。


 私は荷物を整えながら、胸元を押さえる。


(本当に……行くの?)


 身体はいつも通り動くのに、心だけが置き去りにされているようだった。

 ――ダニエルに止められた。

 行かせない、と強く言い切られた。


 それでも“聖務命令”は王命だ。

 無視するわけにはいかない。


 ただ、一人で向かう気にはどうしてもなれなかった。


(必ず、ダニエルのところへ行く。そう約束したんだし)


 小さく息を吐いて馬具の袋を閉じた瞬間、扉が軽く叩かれた。


「イレネス様、出発の準備はお済みですか?」


 若い侍女の声がした。

 開けると緊張した表情でこちらを見つめてくる。


「……はい。少しだけ、寄りたい場所があります」


「ですが、出立は日の出と同時に――」


「急ぎます。本当に少しだけです」


 侍女は迷いながらも、静かに頭を下げた。

 急かされるような気配に胸がざわつく。


(早く、ダニエルに会わないと)


 ***


 騎士団棟へ向かう廊下はまだ薄暗く、窓から差し込む青白い光が床を淡く照らしていた。

 まるで世界が呼吸を潜めているような静けさだ。


 しかし角を曲がったとき、私は立ち止まることになる。


 騎士団の扉が開き、数名の騎士が外へ出てきた。

 その最後尾に、栗色の髪を揺らす背中があった。


「ダニエル!」


 呼んだ瞬間、彼はビクリと肩を震わせて振り返った。

 目が合うと、緊張していた顔が明らかに和らぐ。


「……来てくれたんですね」


「もちろん。約束したし」


 そう告げると、胸の奥の不安が少しだけ消えた。

 ダニエルは周囲に目を配り、私の近くに歩み寄る。


「侍女が迎えに来ていたと聞きました。急かされませんでしたか?」


「うん……ちょっとだけ。でも、ちゃんと来れたよ」


 彼の眉がわずかに険しくなる。


「やはり急ぎすぎです。普通、聖女候補を早朝に単独出立させるなどありえません。やり方が露骨すぎる」


 低い声にわずかな怒りが滲む。

 私のために怒っていると分かるだけで、胸が熱くなる。


「ダニエル、どうすれば……?」


「決まっています。あなたを一人では行かせない。正式手続きを踏まずとも、俺が同行します」


 きっぱりと言い切られ、私は息をのんだ。


「でも……そんなことしたら、ダニエルが処罰されるかも」


「それでも構わない。あなたに何かあれば――それこそ俺は、自分を許せなくなる」


 真っ直ぐな瞳に、心臓が跳ねる。

 その言葉があまりに強く、思わず俯いた。


(こんなに……心配してくれてるんだ)


 照れよりも、胸いっぱいの温かさが込み上げる。


「ひとまず裏門へ急ぎましょう。あなたを狙う者たちが動いているなら、正面の動線は危険です」


「う、うん」


 ダニエルが歩き出し、私はそのすぐ後ろをついていく。


 ***


 裏門へ向かう途中、廊下の空気が妙に冷たく感じた。

 人の気配が薄く、壁にかかった燭台の火が揺れて影が長く伸びている。


 歩みを進めるほど、胸のざわつきが増した。


 そのときだった。


 角の奥から、人影がひとつ、ふわりと現れた。


「……?」


 黒い外套をまとい、顔の半分を覆っている。

 普通の文官や侍従の服装ではない。

 立ち止まった私は小さく身を縮こませた。


 ダニエルが即座に私の前へ立つ。


「止まれ。所属と身分を名乗れ」


 鋭く言い放つと、黒い影は一瞬だけ動きを止めた。

 やがて、ゆっくりと後ずさる。


 逃げる気配。


 ダニエルの肩がびくりと動く。


「イレネス、後ろへ!」


 次の瞬間、影は走り出した。


 その速さは常人のそれではなく、壁際を滑るような動きで通り過ぎようとする。


「逃がすか!」


 ダニエルが追うように剣の柄へ手を伸ばした――だが、影は剣を抜く前に廊下の暗がりへ跳び込んだ。

 まるで闇そのものに溶けるように姿が消える。


 廊下に残るのは、金属音も、足音もない静寂だけ。


 私は息を止めていたことに気づいて、肩を震わせた。


「今の……誰?」


「おそらく、あなたを“監視する者”でしょう。行動を確認していたか、出立の邪魔が入らないように見張っていたか」


 ダニエルの表情からさっと血の気が引く。


「これは本格的に危険です。イレネス、急ぎましょう」


 手を差し出されたので、素直にその手を握った。

 体温が指先を伝い、恐怖が少しだけ薄れていく。


 ***


 裏門に着く頃には、空が薄桃色に染まり始めていた。

 城壁の影が長く伸びる中、門番が立っていたが、ダニエルの顔を見るなり軽く敬礼した。


「早朝の出立と伺っております。馬車の準備は――」


「必要ありません。行き先は私の判断で変更します。王命については後ほど騎士団長から通達があるはずです」


 門番は困惑しつつも、逆らえないようで口を閉じた。

 その隙にダニエルは私の背を軽く押す。


「外へ。急ぎましょう」


 門を出ると、冷気が一気に肌を刺してきた。

 朝の空気は清々しいはずなのに、今日はどこか張りつめている。


(王都を……出るんだ)


 大きな石畳の道が前へ伸びている。

 その先に、私を待ち受けるものがある。


 ダニエルは馬の手綱を引きながら振り返り、私に言った。


「イレネス。ここから先は俺が守る。何があっても離れないでください」


「うん……」


 怖さもあるけど、それ以上に心が落ち着く。

 彼の隣にいるだけで、逃げ出したい気持ちが消えていく。


「俺たちはこれからグリンヴェルへ向かう――けれどただ“命令に従う”だけじゃない。

 真実を確かめに行くんです」


 ダニエルの瞳には決意が宿っていた。


「誰があなたを罠にかけようとしたのか。なぜ今なのか。目的は何か……すべて暴きます」


 胸の奥で、何かが強く震えた。


 風が吹き、灰色の雲がゆっくり動く。


(気づかないふりをしていたんだ……)


 自分が狙われている可能性も、ロザリアの言動も、不自然な命令も。

 本当は、怖くて、認めたくなかった。


 でも――。


「ダニエルがいれば、きっと大丈夫」


 その言葉に、彼は短く目を見開いた後、微笑んだ。


「任せてください」


 二人で馬に乗り、王都を離れていく。

 遠ざかる城壁が朝日に照らされ、ゆっくり色を変えていく。


 静寂の森へ向かう旅が、こうして始まった。


 ***


 一方その頃。


 王宮の別棟の個室で、ロザリアは窓辺の椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいた。


「……さて、イレネス・クラーク。ちゃんとひとりで出立したかしら」


 薄い笑みが唇に浮かぶ。


 侍女が部屋に入ってくると、恭しく頭を下げる。


「ロザリア様。暗部の者より報告が。

 “対象は予定通り、夜明け前に裏門から出立した”とのことです」


「まあ、それは何より」


 ロザリアはティーカップを置き、優雅に微笑んだ。


「聖女候補が“森で事故死”なんて、誰も不思議に思わないもの。

 これで、白羽の儀式は私が主役ね」


 窓の外で鳥が鳴く。

 彼女の瞳は、朝の光を浴びて鋭く輝いていた。


(さようなら、イレネス。――あなたはもう必要ないわ)


 甘く、冷たい勝利の味を噛み締めるように、ロザリアは微笑んだ。


 だが彼女はまだ知らない。

 イレネスが“ひとり”ではないことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ