静寂の森へ③
夜明け前の王城は、昼とはまったく別の顔を見せる。
白羽の儀式を翌日に控えているせいか、衛兵の動きが慌ただしく、広い廊下には金具の軋む音だけが響いていた。
私は荷物を整えながら、胸元を押さえる。
(本当に……行くの?)
身体はいつも通り動くのに、心だけが置き去りにされているようだった。
――ダニエルに止められた。
行かせない、と強く言い切られた。
それでも“聖務命令”は王命だ。
無視するわけにはいかない。
ただ、一人で向かう気にはどうしてもなれなかった。
(必ず、ダニエルのところへ行く。そう約束したんだし)
小さく息を吐いて馬具の袋を閉じた瞬間、扉が軽く叩かれた。
「イレネス様、出発の準備はお済みですか?」
若い侍女の声がした。
開けると緊張した表情でこちらを見つめてくる。
「……はい。少しだけ、寄りたい場所があります」
「ですが、出立は日の出と同時に――」
「急ぎます。本当に少しだけです」
侍女は迷いながらも、静かに頭を下げた。
急かされるような気配に胸がざわつく。
(早く、ダニエルに会わないと)
***
騎士団棟へ向かう廊下はまだ薄暗く、窓から差し込む青白い光が床を淡く照らしていた。
まるで世界が呼吸を潜めているような静けさだ。
しかし角を曲がったとき、私は立ち止まることになる。
騎士団の扉が開き、数名の騎士が外へ出てきた。
その最後尾に、栗色の髪を揺らす背中があった。
「ダニエル!」
呼んだ瞬間、彼はビクリと肩を震わせて振り返った。
目が合うと、緊張していた顔が明らかに和らぐ。
「……来てくれたんですね」
「もちろん。約束したし」
そう告げると、胸の奥の不安が少しだけ消えた。
ダニエルは周囲に目を配り、私の近くに歩み寄る。
「侍女が迎えに来ていたと聞きました。急かされませんでしたか?」
「うん……ちょっとだけ。でも、ちゃんと来れたよ」
彼の眉がわずかに険しくなる。
「やはり急ぎすぎです。普通、聖女候補を早朝に単独出立させるなどありえません。やり方が露骨すぎる」
低い声にわずかな怒りが滲む。
私のために怒っていると分かるだけで、胸が熱くなる。
「ダニエル、どうすれば……?」
「決まっています。あなたを一人では行かせない。正式手続きを踏まずとも、俺が同行します」
きっぱりと言い切られ、私は息をのんだ。
「でも……そんなことしたら、ダニエルが処罰されるかも」
「それでも構わない。あなたに何かあれば――それこそ俺は、自分を許せなくなる」
真っ直ぐな瞳に、心臓が跳ねる。
その言葉があまりに強く、思わず俯いた。
(こんなに……心配してくれてるんだ)
照れよりも、胸いっぱいの温かさが込み上げる。
「ひとまず裏門へ急ぎましょう。あなたを狙う者たちが動いているなら、正面の動線は危険です」
「う、うん」
ダニエルが歩き出し、私はそのすぐ後ろをついていく。
***
裏門へ向かう途中、廊下の空気が妙に冷たく感じた。
人の気配が薄く、壁にかかった燭台の火が揺れて影が長く伸びている。
歩みを進めるほど、胸のざわつきが増した。
そのときだった。
角の奥から、人影がひとつ、ふわりと現れた。
「……?」
黒い外套をまとい、顔の半分を覆っている。
普通の文官や侍従の服装ではない。
立ち止まった私は小さく身を縮こませた。
ダニエルが即座に私の前へ立つ。
「止まれ。所属と身分を名乗れ」
鋭く言い放つと、黒い影は一瞬だけ動きを止めた。
やがて、ゆっくりと後ずさる。
逃げる気配。
ダニエルの肩がびくりと動く。
「イレネス、後ろへ!」
次の瞬間、影は走り出した。
その速さは常人のそれではなく、壁際を滑るような動きで通り過ぎようとする。
「逃がすか!」
ダニエルが追うように剣の柄へ手を伸ばした――だが、影は剣を抜く前に廊下の暗がりへ跳び込んだ。
まるで闇そのものに溶けるように姿が消える。
廊下に残るのは、金属音も、足音もない静寂だけ。
私は息を止めていたことに気づいて、肩を震わせた。
「今の……誰?」
「おそらく、あなたを“監視する者”でしょう。行動を確認していたか、出立の邪魔が入らないように見張っていたか」
ダニエルの表情からさっと血の気が引く。
「これは本格的に危険です。イレネス、急ぎましょう」
手を差し出されたので、素直にその手を握った。
体温が指先を伝い、恐怖が少しだけ薄れていく。
***
裏門に着く頃には、空が薄桃色に染まり始めていた。
城壁の影が長く伸びる中、門番が立っていたが、ダニエルの顔を見るなり軽く敬礼した。
「早朝の出立と伺っております。馬車の準備は――」
「必要ありません。行き先は私の判断で変更します。王命については後ほど騎士団長から通達があるはずです」
門番は困惑しつつも、逆らえないようで口を閉じた。
その隙にダニエルは私の背を軽く押す。
「外へ。急ぎましょう」
門を出ると、冷気が一気に肌を刺してきた。
朝の空気は清々しいはずなのに、今日はどこか張りつめている。
(王都を……出るんだ)
大きな石畳の道が前へ伸びている。
その先に、私を待ち受けるものがある。
ダニエルは馬の手綱を引きながら振り返り、私に言った。
「イレネス。ここから先は俺が守る。何があっても離れないでください」
「うん……」
怖さもあるけど、それ以上に心が落ち着く。
彼の隣にいるだけで、逃げ出したい気持ちが消えていく。
「俺たちはこれからグリンヴェルへ向かう――けれどただ“命令に従う”だけじゃない。
真実を確かめに行くんです」
ダニエルの瞳には決意が宿っていた。
「誰があなたを罠にかけようとしたのか。なぜ今なのか。目的は何か……すべて暴きます」
胸の奥で、何かが強く震えた。
風が吹き、灰色の雲がゆっくり動く。
(気づかないふりをしていたんだ……)
自分が狙われている可能性も、ロザリアの言動も、不自然な命令も。
本当は、怖くて、認めたくなかった。
でも――。
「ダニエルがいれば、きっと大丈夫」
その言葉に、彼は短く目を見開いた後、微笑んだ。
「任せてください」
二人で馬に乗り、王都を離れていく。
遠ざかる城壁が朝日に照らされ、ゆっくり色を変えていく。
静寂の森へ向かう旅が、こうして始まった。
***
一方その頃。
王宮の別棟の個室で、ロザリアは窓辺の椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいた。
「……さて、イレネス・クラーク。ちゃんとひとりで出立したかしら」
薄い笑みが唇に浮かぶ。
侍女が部屋に入ってくると、恭しく頭を下げる。
「ロザリア様。暗部の者より報告が。
“対象は予定通り、夜明け前に裏門から出立した”とのことです」
「まあ、それは何より」
ロザリアはティーカップを置き、優雅に微笑んだ。
「聖女候補が“森で事故死”なんて、誰も不思議に思わないもの。
これで、白羽の儀式は私が主役ね」
窓の外で鳥が鳴く。
彼女の瞳は、朝の光を浴びて鋭く輝いていた。
(さようなら、イレネス。――あなたはもう必要ないわ)
甘く、冷たい勝利の味を噛み締めるように、ロザリアは微笑んだ。
だが彼女はまだ知らない。
イレネスが“ひとり”ではないことを。




