静寂の森へ ①
王城の東翼、第二王子派の貴族たちが集う控室。
外では夕刻の鐘が鳴り、長い一日がゆるやかに終わろうとしていた。
しかし、その静かな空気を完璧に支配する女がひとり――ロザリア・フォン・ハーケンベルグ。
白い指で紅茶をすくいながら、彼女はレースのカーテン越しに石畳の中庭を眺めていた。
落ちる陽光が彼女の亜麻色の髪を淡く照らし、見た目だけなら聖女のように美しい。
ただ、その内側には氷の柱のような冷酷さが隠れている。
(……すべて、順調。ようやく“あの小娘”を処理する場が整ったわ)
心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥で波紋のように広がる快感。
ロザリアは静かに微笑む。
彼女の視線の先には、机に広げられた地図。
王都から北へ離れた《ブラウの森》――その縁に、小さく記された村の名前。
――《グリンヴェル》。
古代遺跡が点在し、魔力の吹き溜まりとなっている危険地帯。
王都の貴族がわざわざ近づくような場所ではない。
(こんな辺境に行かされるなんて、可哀想に。まあ、仕方ないわね。あなたは“消えてくれてこそ”価値がある)
ロザリアは薄く笑い、白磁のカップを置く。
彼女は気づいていた。
王都での審査が進むごとに、イレネスへの評価がじわりと高まりつつあることに。
本来、光属性の聖印は希少だ。
イレネスが本物の資質を持っている可能性は十分にある。
しかし――
(だからこそ厄介。今のうちに“排除”しておかなければ、あの娘はわたくしの障害になる)
ロザリアの家、ハーケンベルグ公爵家は、代々“王妃”を輩出してきた名門。
自分が第二王子の婚約者候補となることは既定路線であり、ゆえに聖女も自分が相応しい。
その道を阻む者は――
(全員、例外なく排除する。それが、公爵家の教えよ)
紅茶の表面に映る自分の微笑みに満足し、彼女はそっと地図を折りたたんだ。
***
同じ頃、王城の別棟。
夕陽が赤々と差し込む執務室で、ダニエルは重い書類束をめくっていた。
「……なんだ、これ」
目に留まった一枚の指示書。
聖女候補イレネスの名前が記され、派遣先として《グリンヴェル村》とある。
そこまではまだ理解できる。
問題は、添付の同行者欄。
「……護衛、なし?」
彼の声音は獣の唸りのように低くなる。
地方視察の形式自体はある。
だが候補者が単独行動を許されることなど、まず“あり得ない”。
騎士団の規則にも、王宮の慣例にも反する。
(……書類のミス、じゃない。これは意図的だ)
ダニエルは瞬時に察した。
誰かが、イレネスを辺境に送り、そこで“何か”を起こさせるつもりだ。
その“何か”は――少なくとも、彼女の無事を想定していない。
イレネスは目立たぬ少女だった。
だが聖印が現れた後、それを中心に周囲の空気がざわめき始めた。
聖女候補として一定以上の注目を集めれば、当然ながら敵も出てくる。
(……ロザリア)
脳裏に浮かんだ名を、彼は歯噛みしながら押し殺す。
豪奢で気品に満ちた姿の奥に、冷たい計算を隠した女。
あの女なら――やる。
「イレネスを一人で行かせるわけにはいかない」
執務机に置かれた指令書を睨む。
紙の端が彼の握力で微かにひしゃげる。
イレネスは優しい。
あまりにも、疑わなさすぎる。
(命令が降りたら、迷わず従うだろうな……)
それが危険だ。
だが、ここで正式な反対意見を出しても、文官に握りつぶされる可能性がある。
その文官がロザリア派なら、なおさらだ。
ならば――
(……先に動くしかない)
ダニエルは静かに立ち上がった。
彼の目に宿る光は、騎士の義務などではない。
ただひとりの少女を守ると決めた、真っ直ぐな決意。
「イレネス……絶対に、行かせない」
夕陽の中、鋼の瞳が燃えるように光った。
***
一方その頃、ロザリアは別邸の応接室で“ある人物”と密会していた。
淡い香水の香りと、静かな燭台の灯だけが部屋を満たしている。
「依頼の内容……確かに受け取りました」
黒い外套をまとった男が深く頭を下げる。
顔はフードに隠れて見えない。
ロザリアは涼しい瞳で彼を見た。
「失敗は許しません。あの娘は――《確実に》消しなさい。跡は残さずに」
「……心得ております」
男の声は砂利のようにざらついていたが、殺気と経験に満ちていた。
(辺境は最高の“舞台”だわ。魔獣の事故にも、盗賊の襲撃にも使える)
ロザリアはためらいすらなく命じる。
「問題があれば、どうにでも偽装しなさい。聖女候補の死は、時として“奇跡の選別”として処理されるものよ」
男が去っていくと、ロザリアはひとり小さく笑った。
(あとは、明日。イレネスが王都を出れば、それで終わり)
***
しかし――その同じ夜。
騎士団の訓練場。
夜気の冷たさを感じさせぬほど熱を帯びた眼差しで、ダニエルは剣を磨いていた。
刃の輝きに、少女の柔らかな微笑みが脳裏に浮かぶ。
(怖がらせるかもしれない。でも……行かせるよりはずっといい)
言葉にできない不安と焦りが、胸の奥で渦を巻く。
「イレネス……俺が必ず、守る」




